2022年2月6日 主日礼拝説教(誕降節第7主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書33:20~22
新約聖書 ルカによる福音書11:1~2
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「神を忘れ、他者をも忘れてしまった人間は、化け物になる」。これは、かつて私がある人から聞いた言葉です。「化け物」という、やや刺激的な表現が妙に印象的でした。けれども年月が経つに連れて、それも、牧師になってそれまで以上に聖書を深く読むようになって、この言葉は、他でもない自分自身の闇の姿を鋭く言い当ててくれる言葉として、胸に痛く迫るようになってきました。
「神を忘れ、他者をも忘れてしまった人間は、化け物になる」。神や周囲の人々の顔を忘れ、その心も見えなくなってしまう時、そこで暴走する独りよがりの自己実現は、人間を化け物にするというのです。内心は様々な不安があり、満たされない思いが積み重なっている。あるいは何かに怯え、あるいは何かで深い傷を負っているのに、まるでそれらの闇を覆い隠すかのように、自ら大きくあろうとする。大きく見せようとする。そこに、私たちの化け物としての姿が立ち現れます。根深い罪の姿が露わにされるのです。
愛という名のもとに隠された暴力。奉仕という名のもとに隠された要求。友情に隠された打算。犠牲行為に隠された功名心。そして、祈りという最も美しく敬虔な姿においてさえ、私たちは化け物になってしまうことがあるのです。
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「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」(ルカ11:2)。このように祈り始める「主の祈り」は、私たちがまさに化け物になることから救い出してくれる祈り、そのような力をもつ祈りだと言ってよいでしょう。主イエスが教えてくださったこの祈りは、全体として大きく二つに分けることができます。前半は<神のため>の祈り。そして後半は<我らのため>の祈りです。
主イエスは弟子たちに、そして私たちにも、まず神のために祈る大切さを教えてくださいました。自分の願いや自分の不平不満、自分の必要を神様に聞いて頂くことから始めるのではなく、まず神のために祈る。それは、私たちがこの祈りを祈ることによって、化け物として生きるのではなく、神と人との前で、まことの人として、まことに人間らしく生きられるようになるためです。主イエスは、私たちがそのような姿として成長し、歩んでゆくことを切に願っておられるのです。
私たちは主イエスに倣って、そしてまた主イエスと共に、「御名が崇められますように」と祈ります。私たちが祈る神は、空を打つような抽象的な概念ではありません。私たちの知る神は、ご自分の名を隠したまま、暗闇の中から無責任な言葉を宛てもなく発するような匿名者でもありません。私たちがその方を知る前から、私たちを深く知っていてくださる神は、ご自分の名を持っておられる方です。そしてその名を御自分から紹介することでご自身を明らかにし、私たちにもその名を呼ぶことができるようにしてくださいました。
神はかつてモーセに次のように名のられました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)。不思議な名前です。この「わたしはある」という名前を、聖書の意味する所に即して正確に訳すとこうなります。「わたしは、『こうあろうとする』存在になる者である」。私たちに呼びかけてくださる神は、ご自身が「こうあろうとする」具体的な願いや意志を持っておられる方なのです。
ともすると、私たちの祈りは、自分の願いこそが実現するようにという祈りに傾きがちです。自分の願いを持つことがいけない訳ではありません。問題は、自分の願いが大きくなりすぎて、神の願いが聞こえなくなり、見えなくなることです。自分よりも遥かに大きな力とスケールで、全てを祝福の内に善きものとしてくださる神の御心を、心から信頼しなくなることです。
「御名が崇められますように」と、神に向かって呼吸を整えるように祈る。その時私たちは、神の願っておられることこそが実現するよう自分も願う、という場所に連れ戻されます。祈りを自己実現の道具にする所から解き放たれてゆくのです。主の祈りは、初めから腰の低い謙虚な人が祈る祈りではないのかもしれません。むしろ、いつの間にか高ぶろうとする私たちが、この祈りを主イエスと共に祈ることによって存在の底から謙虚にされ、どこまでも神の御前で真実なる人間へと導かれるための祈りに他ならないのです。
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「御名が崇められますように」という祈りには、実はさらなる奥行きがあります。教会で祈る主の祈りは、この部分は「御名を崇めさせたまえ」という風に祈ります。「崇める」は「聖なるものとする」という意味です。したがって、ここは「私たちが、あなたの御名を崇め、聖なるものとすることができますように」と祈っているように聞こえます。軸を私たち人間に置きながら祈る感覚です。
けれどもここは本来、御名を聖なるものとするのは、私たちではなく、神ご自身と理解する方がずっとふさわしいのです。「神さま、どうかあなたが、あなたご自身の御名を聖なるものとしてください」。この祈りは、どこまでも私たちが低くされ、小さくされ、そのようにして神と共に歩むための祈りです。「神を十分に崇めることができるように私たちの信仰を強くしてください」と求める祈りではありません。「信仰心」という名の、自分の力が強くされることを求める祈りではないのです。そのような高ぶりの芽さえ摘み取られながら、私たちは「御名が崇められますように」と繰り返し祈ることによって、どこまでも神の力、神ご自身の願い、神ご自身の志に、この自分をまるごと委ねる練習を共に続けているのです。
この祈りは、突き詰めるならば、神の御名とは、まさに生きた神ご自身のことを意味します。神がご自分から「こうあろう」とされる、その思い自体をご自身の名前とされているが故に、私たちは、その尊いお名前を神ご自身の手で聖なるものとしてくださいと祈ります。その時、その祈りは、次のように祈っているのと全く同じなのです。「神よ、どうかあなたご自身がこの世界の中で、この歴史の中で、そして私たちの現実の歩みの中で、神そのものとなってください。あなたが『こうあろうとする』その通りの姿で、私たちに現れてください!」。
では、神はいったい、どうあろうと願っておられるのでしょうか。それは既にこの主の祈りでも祈られているように、神は、「私たちのまことの父」であることを願っておられます。そして私たちが神の子として、神を「お父ちゃん」と親しく呼ぶことさえ許してくださっている、否、そう呼ぶのを願って待っていてくださいます。
聖書の中には、他にも神の名を示す固有名詞が幾つか出てきます。それを一つ一つ辿るならば、神の願いや意志を知ることができます。しかし私たちが今日知らなければならないことは、ある一人の人を基準にして、それ以降は、神のあらゆる名は一切必要なくなった、ということです。ある一人の人。それは言うまでもなく、イエス・キリストそのお方です。「インマヌエル」と呼ばれるこの一人の存在を通して、神の思いが何であるかが最終的に、そして決定的に、私たちに知らされたのです。
インマヌエル。「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)という意味の名前です。神は、主イエスの誕生を通して、私たちと共におられることを決断されたのでした。そしてその名が「インマヌエル」であることを示してくださったのです。神が神そのものとなるために、神ご自身が「こうあろう」と決心されたその姿。それはまさに、神が人となられたという驚くべき出来事を通して、この世界に起こったのです。人間が、自分の名を自ら高めようとするこの世界の現実のただ中で、しかし神は、まことにいと小さき者として、この地上に降りて来られたのでした。
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しかしそうは言っても、私たちは、自分の名前にこだわることからそう簡単に抜け出せるわけではありません。あるいは自分の自尊心に固着すること、あるいはまた自分のアイデンティティや命のために必死に戦うことから自由になることは、なかなかできません。そのことで心が傷つき、息が詰まりそうな苦しみに喘いでいる時、私たちは自分のことで精一杯で、神の名を呼ぶ心さえ失ってしまうことがあります。化け物になるどころか、逆に生きることに絶望し、生きることをやめてしまいたいとさえ思う程に、ひどく追い詰められることがあるのです。
しかしだからこそ、そこで独りよがりになることなく、独りぼっちになることもなく、自分の心に逆らってでも、祈りの声をあげるのです。私たちにはそのような道が開かれているのです。それが主の祈りです。「御名が崇められますように」と祈る祈りです。
この祈りは、他でもない主イエスご自身が、あの十字架の日が近づく中で、大きな声で祈られました。「今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。父よ、み名があがめられますように」(ヨハネ12:27~28)。主イエスにも、祈りの言葉を見失いかけた時があったのです。「わたしはなんと言おうか」と呻かれた時があったのです。けれども、そこで騒ぐ心に抗いながら、それでも「御名が崇められますように」と祈られました。
この祈りは、「御国が来ますように」という祈りに繋がっていきます。「御国」という言葉は、「神の国」と聖書ではよく言い換えられています。誰より主イエスご自身がこの言葉をよく使われました。神の国。それは「神のご支配」を意味します。神の裁きによるご支配、否、神の真の正しさこそがそこで貫かれる、愛のご支配です。
私たちの目の前に広がる世界では、痛ましいこと、悩ましいこと、悲しいこと、赦せないことが次々と毎日起こっています。しかし私たちが、御名を呼びながら「御国が来ますように」と祈る時に、この世界はこのままでは終わらない。神が私たちと共にいてくださると約束された限り、そして全てを御手の内にご支配なさる方である限り、私たちの悲しみや苦しみはこのままで終わることはない、神の国がこの地上で完成する日が必ず来るのだと、祈りの目で望むことができるのです。
私たちは、教会の中で、このような兄弟姉妹の姿があることを知っています。絶望してもおかしくない程の不幸を味わっている人が、讃美歌を歌い続けています。家庭の中で心と体を踏みにじられてもなお、その家族の罪を赦せるようにと教会で祈り続ける人がいます。不治の病と宣告された人が、今日も神の言葉に耳を傾けています。社会で大きな責任を負う人が、この未熟な牧師の説教を聞き、心を御前に注ぎ出しながら、悔い改めの祈りを献げています。主イエスは、そのような者たちが集まるこの小さな教会の群れに向かって、こう仰いました。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)。
主イエスは、「神の国」がどのようなものであるかについて、同じルカ福音書の中で、この後も様々に教えてくださいます。しかし神の国は、「あなたの心の中にある」とはお語りになりませんでした。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と仰います。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」のです(ルカ17:20~21)。共に生きるべき人々との間で織りなす愛の関わり合いの中で、神の国は見えてくるのです。
それはちょうど、主イエスが神の国を「パン種」にも譬えられたように(ルカ13:20~21)、それは小さく隠れたし方でありながら、しかしごく小さな群れの中で、やがてパンのように豊かに膨れ上がって、喜びと共に味わえるものとなるのです。
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こうして、「御国が来ますように」と祈る祈りは、いつかどこかに神の国が到来しますようにと、漠然と祈るものではありません。今、私たちが置かれているこの現実、この社会、この殺伐とした混沌の中で、神の国が既に主イエスの深い眼差しの中で始まっている真実を、そしてまた、神の国があの十字架の出来事を通して既に到来している真実を、確かに見させてくださいと願う祈りなのです。
もちろん、その姿は完全に見えるものではありません。おぼろげでしかないかもしれません。神の国は、まだ完全な形では来ていないからです。既に始まっている神の国は、しかし未だその完成には至っていないのです。しかしだからこそ、私たちは日々「御国が来ますように」とより一層祈りながら、ただそこで待つのではなく、じっと我慢するのでもなく、この祈りをいわば歌のように祈り上げながら、前へ前へと行進してゆくのです。私について来なさい、と仰る主イエスの後に従って、この教会の小さな仲間たちと共にこの祈りの中を生きてゆくのです。
それは、時に厳しい闘いを伴う歩みになるかもしれません。「神の国」に忠実に生きてゆこうとすればするほど、それを妨げる様々なこの世の力に直面するからです。私たちを誘惑しようとする力が巧みに忍び寄ってくるからです。今日も、あちらでもこちらでも、人を支配しようとする争いが起こっています。自分の名を高めようとする化け物たちが頭をもたげています。否、私たちもいつそうなるか分かりません。今週金曜日に予定されている「2.11思想信教の自由を守る集い」も、そのような自覚と祈りをもって開かれます。
愛ではなく暴力が、望みでなく諦めが、信頼ではなく疑いが、真理ではなく偽りが、私たちの日常を、日本を、世界を覆っています。しかし私たちは、これらの闇に立ち向かおうとする時、自らが真実なる人としての姿を失った化け物にならないために、この主の祈りを共に歌い続けながら行進したいと願うのです。私たちの闘い方は、武器を手に取ることではありません。愛の剣と、忍耐の盾をもって、現実を深く受けとめてゆく。現実を深く悲しみ抜いてゆく。否、私たちは御国の到来という確かな希望の中に置かれるからこそ、簡単に拭い去ることはできないこの現実の厳しさを耐え抜くことができます。中途半端に悲しむのではなく、悲しみ抜くことができます。主イエスが体を張って、私たちの全ての重荷を、苦しみを、悲しみを、一身に引き受けてくださった。十字架に架かられる前、戸惑い、呻きながらも「御名が崇められますように」と祈られた、その主イエスの命が、私たちの歩む道となったからです。
ここに、私たちの今日を生き抜く希望が与えられています。ここに、私たちが自らが化け物に陥ることなく、絶えず主イエスご自身の愛の剣を手に握らされながら、人々と共に神の御国を見る望みが開かれています。主の祈りを共に、繰り返し歌うように祈り上げながら、神の国の到来を待ちつつ、それを造り上げてゆく愛に御業に、共に押し出されたいと願うのです。
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