松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2012年4月8日(日)イースター主日礼拝
説教題「新しい人に生まれ変わろう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ローマの信徒への手紙 第6章1節〜11節

では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

旧約聖書: 詩編 第103編1〜5節

先週の日曜日、礼拝に数名の新来者がありました。松本東教会では礼拝後にお茶の会を行っておりますが、その新来者の方々の何名かが、お茶の会に残ってくださいました。私は、礼拝が終わってすぐに帰られる方とご挨拶を済ませて、礼拝堂に戻りましたら、まだお茶の会が続いていました。新来者の方々がいらっしゃるテーブルに混ざりまして、一緒にお茶を飲みながらしばらくの時間を過ごしました。

こういう席で話題になりますのは、教会という場でありますから、なぜ教会に来られたのかということです。すでに洗礼を受けてキリスト者となっておられる方でしたら、なぜ洗礼をお受けになったのか、そのことが話題になりました。新来者の方だけでなく、比較的最近、教会に来られた方も同じテーブルに座っていましたので、自然とそのことが話題になりました。

その席で、ある方がこのように洗礼を受けたきっかけをお話しくださいました。その方は、あるとき、韓国の方で出会われたそうです。キリスト者の方です。韓国の教会は日本の教会と比べるとずっと盛んであります。大きな教会もたくさんあれば、キリスト者の数も多い。なぜそうなのか、いろいろな理由はあるでしょうけれども、韓国の教会の方々が、伝道熱心だからというのが大きな理由の一つでしょう。その韓国の方も熱心にその方に対して伝道を行ったようです。

私たちが熱心に伝道されたとすれば、もしかしたら身構えてしまうかもしれません。しかしその韓国の方は、確かにストレートに伝道をしてきたのだけれども、偽善からではなく、心から伝道をしてこられた。その方は、そう感じたのだそうです。それと同時に、一体この人を動かしている原理は何か。そのことがとても不思議に感じたのだそうです。自分を動かしている原理とは根本的に違う。この人は一体どんな原理によって動いているのか。そのことを知りたいと思い、信仰の歩みを始めたということでした。

私たちが神を信じるようになる、洗礼を受けてキリスト者になる、そのきっかけはいろいろあると思います。純粋に聖書を読んでみたいと思う。そして実際に聖書を読んでみる。その中に記されている言葉に心を惹かれる。そのようにして信仰を持つようになるというのも、一つの道でしょう。あるいは、自分は何のために生まれてきたのか。何のために行かされているのか。人生の生きる意味を問いつつ、その答えを捜したいと思って、信仰の道に入るような方もおられます。あるいは、愛する者の死をきっかけにして、神を求める方もある。なぜ自分の愛する者が死んでしまったのか。この死をどう乗り越えればよいのか。その答えを求めて、信仰を持つ方もあるでしょう。

これらと並んで、人の生き方に惹かれて、信仰を持つようになる方もあるのです。あの人は普通では考えられない立派な生き方をしているけれども、なぜあの人はそんなことができるのか。そう思っていたら、実はあの人がキリスト者だった。それならば、自分もその生き方を学んでみたい、そう思って、信仰の道に入られる方もあります。韓国の方との出会いによって、その生き方に惹かれた方もそうでしょう。

その他にもたくさんの例を挙げることができます。例えば、明治時代になり、外国からたくさんの宣教師が日本にやってきました。誰もが、神のことを伝えたい、伝道をしたいと思って、遠く日本にまでやってきたのであります。宣教師たちのところに、多くの日本人が集まってきました。聖書を学び、実際に洗礼を受ける日本人もたくさんいた。その後、牧師になる者たちも大勢、現れた。宣教師たちの働きが実ったわけですが、なぜ宣教師たちは異国の国、日本でこんな成果を挙げることができたのか。それは一つには、その生き方に惹かれたからであります。なぜこの宣教師たちは、自分の命を懸けて、遠い国、日本にまでやってくることができたのか。横浜の外国人墓地に行くと、実際に日本の地に骨を埋めてしまった者もたくさんいるのです。神を信じて生きる生き方に、多くの日本人が惹かれたのであります。

洗礼を受けて、キリスト者になるのに、きっかけはいろいろあります。人生の意味や死の問題の答えを求めたり、あるいは人の生き方に惹かれたり、いろいろなきっかけがあるのです。しかしきっかけがどのようなものであれ、洗礼を受けてキリスト者になった人には共通のことがあります。それは、洗礼によって生き方が新しくなったということです。古い原理から新しい原理で生きるようになったということであります。

その新しい原理とは何でしょうか。あの韓国の方に見られたように、あるいは明治の宣教師たちに見られたように、信仰者を動かしている原理は一体何でしょうか。聖書全体からその答えを探すことができると思いますが、今日、私たちに与えられましたローマの信徒への手紙の箇所から、その答えを見出すことができます。
新約聖書の中に、たくさんの手紙が収められていますが、今日の手紙は「ローマの信徒への手紙」という手紙であります。伝道者であったパウロという人が、ローマの信徒に宛てて書いた手紙です。

信徒という言葉は、信者という言葉に置き換えることができます。神を信じ、洗礼を受けてキリスト者となった者たちのことです。洗礼を受けたからには、所属する教会があります。この場合は、ローマの教会でありまして、ローマ教会に属するキリスト者たちに宛てた手紙ということになります。つまり、この手紙は洗礼をすでに受けた者たちに対して書かれた手紙なのです。三節のところに「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」(三節)とありますが、これはもうすでに洗礼を受けたと、過去の言葉として言っているのです。

パウロがここでローマの信徒たちに伝えたかったことは、洗礼とは一体何のかということです。洗礼を受けたことによって、あなたがたはどう変わったのかということです。洗礼を受けたことによって、あなたはどういう原理で生き始めたのかということです。ですから今日の聖書の箇所には、キリスト者を動かす原理が書かれていると言うことができるのです。

今日は一人の姉妹の洗礼式が行われました。松本東教会の洗礼式は、ご覧になられた通り、水を頭の上に浸す形で行われています。洗礼にはいろいろな形式がありますが、今回のように少量の水を浸すやり方を滴礼と言います。

これに対して、浸礼あるいは全浸礼と呼ばれるやり方があります。文字通り、水の中に体を浸すのです。教会によっては礼拝堂に大きなバスタブのようなものがあって、そこを一杯の水で満たします。受洗者の体すべてをその水の中に浸すのです。教会の中ではなく、川や湖や海に行って、洗礼式を行う教会もあります。この場合も、体全体を水の中に浸すのです。

たとえどのような形式であっても洗礼は洗礼でありますが、全浸礼の形で洗礼を行う教会が大事にしているのは、体全部が水の中に浸かるということなのです。水の中に私たちの体すべてを沈める。それはいわば私たちの体が水に浸されて一度死ぬということを表しているのです。水の中で全部が入り、そしてそこから出て来る。出て来たときには、もうすでに古い自分ではない。古い自分はすでに死んだのです。新しい自分になって出て来る。新たに生まれ変わるのであります。

今日の聖書箇所の四節のところにこうあります。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(四節)。パウロがローマ教会の信徒たちに伝えたかったのは、このことなのです。あなたがたは洗礼を受けたでしょ。それはもうキリストと一緒に死んだことなのだ。そしてキリストがお甦りになられたように、あなたがたもキリストと一緒に甦ったのだ。新しい命に生きているのだ。洗礼とはそういうものなのだと、パウロは伝えているのであります。

今日はイースターであります。日本語にすると復活祭と言います。キリストがお甦えりになられた日です。お甦りになられたからには、キリストは死なれたわけです。先週の一週間は受難週と呼ばれる週でありました。金曜日に主イエスが十字架にお架かりになった。その日の午後三時に息を引き取られ、その日の夕方のうちに墓に葬られました。金曜日、土曜日、そして日曜日。金曜日を含めた三日目に、主イエスはお甦りになられたのです。

教会にとって、主イエスがお甦りになられたイースターが最も大事な日になります。クリスマスよりもイースターの方が大事だと言えるでしょう。クリスマスは神の子である主イエスが地上にお生まれになって、これから受難に向かって、つまり十字架に向かって歩み始めるわけですが、イースターは十字架からお甦りになられたのです。キリストが死の力に打ち勝ってくださったのです。

もしキリストが金曜日に十字架で死なれ、それっきりお甦りになられることがなかったとしたら、結局、キリストといえども、死の力に打ち負かされてしまったということになってしまいます。生きている間は、確かに立派な教えをお語りになったり、不思議な奇跡の業を行ったかもしれない。けれども、そのキリストが死んでしまった。もうそれっきりだったとなれば、結局、神の力よりも死の力の方が大きかったとなってしまいます。

そうではなくて、キリストはお甦りになられた。復活された。死に勝利をされた。キリスト者はそのことを信じているのです。教会はそのことを大切にしているのです。キリストがお甦りになられたのは日曜日のことです。復活の勝利を覚えて、教会では毎週日曜日に礼拝を行っているのです。そして一年に一度のイースターの日に、特にキリストがお甦りになられたことを祝っているわけです。

キリストの復活を信じるということが、信仰を持つか持たないかの分かれ目になります。キリスト者は復活を信じるのです。つまり、神が死を超えたお方であり、死を乗り越えさせてくださる力をお持ちであることを信じるのです。キリストの復活は決して他人事ではありません。キリストがお甦りになられ、洗礼を受けてキリストに結ばれた私たちが、キリストと同じ道をたどることができるようになるからです。

この道をたどるのではなく、もしも復活を信じないとすれば、私たちの人生の終わりは死ということになってしまいます。人生のレールを順調に走っていたようでも、死という終点で立ち止まらなければならない。もうその先には進めないのです。

中世の時代の讃美歌にこんな歌詞の讃美歌があったようです。「私たちは生のただ中で死に取り囲まれている」。私たちは死と考えないで生きているようでも、死の壁の中に取り囲まれるようにして生きているのだという意味の歌詞です。あなたは死ぬべき存在だということを覚えさせるための讃美歌だったかもしれません。

たしかにこの讃美歌の歌う通りでしょう。私たちは必ず死ななければなりません。誰のところにも平等に死がやってくるのです。死に方はいろいろであるかもしれません。長寿を全うするようにして死ぬ死に方もあれば、当然の死を迎えなければならないこともあるでしょう。その場合、今まで死を意識することなどなかったのに、突然、死という終着駅で降ろされることになります。あるいは長い闘病生活の末に死を迎えなければならない場合もあるでしょう。その方にとってはようやく死ねたという思いになるかもしれません。死ねない場合には、「早くお迎えが来ないか」というようなことを口にしてしまうかもしれません。そうなってしまうと、死ぬことが逆に希望となってしまいます。

どのような死に方を迎えるにしても、私たちは中世の讃美歌が歌ますように「生のただ中で死に取り囲まれている」のです。言い換えると、死に支配されて生きているのです。さらに言い換えると、死の奴隷となって生きているのです。

死という言葉と並んで、今日の聖書箇所に罪という言葉もたくさん出て来ました。罪という言葉は、聖書独特の意味を持っています。死と罪の関係は深いのです。言葉を置き換えることもできます。例えば、今日の聖書箇所の六節から七節にかけての言葉の、罪という言葉を死に置き換えて読んでみます。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、『死』に支配された体が滅ぼされ、もはや『死』の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、『死』から解放されています。」(六~七節)。言葉を置き換えてみたとしても、すんなりと意味が通る文章になっていることがお分かりいただけると思います。

このように置き換えが可能なくらい、死と罪が密接に結びついているわけですが、具体的にはどのように関連しているのでしょうか。聖書の言う罪を考えたいと思います。聖書の中で、神が私たちに守るべき戒めを与えられています。例えば「殺してはならない」(出エジプト二〇・一三)と神は言われます。こんなことは神から言われなくても分かっているとお思いの方もあるかもしれません。

しかし神はもっと深いことを言われているのです。実際に人をあやめるだけではありません。心の中で「あの人などいなければよいのに」と思う。その人の存在を消すかのようなことを心の中で思っただけでも、人を殺していることになると聖書は言うのです。

さらに、殺すどころではない、相手を生かすことを神は求めておられる。一緒に生きるように与えられた隣人を私は生かしているだろうか。自分の妻や夫を、子どもや両親を、教会の友を、友人や知人を、職場の同僚を、私は殺すのではなく生かすことを神は求めておられる。私の周りの人は生き生きとしているだろうかということまで考えなければならない。こうなってくると、私たちは神がお望みになられるように生きていないということになってしまいます。罪人だということになってしまうのです。神の戒めを前にすると、どこか私たちの生き方が歪んでいるということが見えてきてしまうのです。

少し想像していただきたいと思いますが、私たちがこの歪んだままの状態で生き続けることが救いになるでしょうか。古い自分のままで生き長らえたいと思うでしょうか。罪の状態のままで、永遠の命を手に入れたとすれば、それはとんでもないことになってしまいます。私たちの苦しみがいつまでも続くことになりかねません。私たちが罪の状態にあるから、神は私たちに死ぬことを定めてくださったのです。ですから、罪と死が密接に結び付くのです。

私たちは死を超えた命に憧れを抱くかもしれませんが、死なないことが救いなのではありません。生き長らえることが救いなのではありません。私たちの救いは、罪がなくなることです。罪を赦されることです。古い自分に死んで、新しい人に生まれ変わることです。その出来事が、洗礼によって起こるのであります。洗礼によって、私たちの生き方が変わる。根本的な原理が変わるのであります。

今日はイースターの日曜日です。先ほども申し上げましたように、主イエスは金曜日に十字架にお架かりになられました。聖書の中に、金曜日の日の出来事と、日曜日の日の出来事はかなり詳しく書かれていますが、土曜日の日の出来事はまったく記されていません。ユダヤ人にとって、土曜日は安息日という日だったからです。神が天地を創造されたことが、聖書の一番最初に書かれていますが、神が七日目に、つまり土曜日に安息をされたので、ユダヤ人たちもそれにならって安息をしているのです。ですから、主イエスが金曜日に十字架で死なれ、大慌てで金曜日のうちに埋葬を済ませました。土曜日には休まねばならず、埋葬ができないからです。

日曜日の朝になって、ようやく女性たちが、主イエスが埋葬された墓に出かけました。男性の弟子たちは、主イエスを殺したユダヤ人たちを恐れて、家の中で鍵をかけて閉じこもっていました。土曜日もそうだったのだと思います。土曜日は男性も女性も、家の中に閉じこもって、誰も何もしていなかったのです。

しかし主イエスはそうではありませんでした。十字架にお架かりになり、死んで、葬られ、死と闘っていてくださいました。私たちが何も知らないところで、死の中に飛び込んで、死に打ち勝ってくださったのです。死と結びついた罪にも打ち勝ってくださったのです。このキリストと洗礼によって結ばれることによって、私たちも同じ道をたどることができるのです。

先ほど、中世の讃美歌をご紹介いたしました。「私たちは生のただ中で死に取り囲まれている」。一六世紀、ドイツで教会を改革したマルティン・ルターという人は、この讃美歌の歌詞をこのように変えました。「私たちは死のただ中で生に取り囲まれている」。死と生という言葉を入れ替えただけですが、まったく違う意味の讃美歌になりました。たとえ私たちの地上の命が尽きようとしている死のただ中にいるとしても、キリストによって与えられた新しい命に取り囲まれていると歌う讃美歌になったのです。私たちの生き方を根本的に変える新しい命が与えられたのです。