松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年8月26日(日)
説教題「召し出された者として」

説教者 朴大信 伝道師

新約聖書: ヨハネの手紙三 1~15節

長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。デメトリオについては、あらゆる人と真理そのものの証しがあります。わたしたちもまた証しします。そして、あなたは、わたしたちの証しが真実であることを知っています。あなたに書くことはまだいろいろありますが、インクとペンで書こうとは思いません。それよりも、近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです。あなたに平和があるように。友人たちがよろしくと言っています。そちらの友人一人一人に、よろしく伝えてください。

旧約聖書: 詩編 第37章23~27節

例年にない暑さに耐え忍んで参りましたこの夏の日々も、ようやく峠を越えて、終盤に差し掛かっています。本日は8月最後の主日となりました。そしてこの春から聴き続けてきましたヨハネの手紙も、今日の第三の手紙をもって、いよいよ最後を迎えます。

この第三の手紙は、先週お読みした第二の手紙と、とてもよく似ています。その分量の短さと言い、挨拶・本論・結びからなる手紙の構成と言い、また、著者がいずれも「長老」というふうに名乗られている点からしても、ほとんど同じような形式の手紙に感じられます。けれども、もちろん違いもあります。まず宛名の名前が、1節に新しく登場します。「ガイオ」。これは当時、わりとよくありふれた人の名前であったと言います。このガイオという愛すべき友に向かって、この手紙は、極めて個人的に親しい間柄を前提としながら書かれていることが分かります。第二の手紙が、「婦人とその子たち」に宛てて書かれ、しかしそれは一種の比喩表現として、実際には、教会とその信徒たちのことを指して記されていたのに対して、この第三の手紙は、まさしく文字通りガイオという特定の人物に向けて綴られています。手紙の結びにあります呼びかけも、「あなたがた」ではなく「あなた」と言われていますから、明らかに、個別の、プライベイトな手紙であると言えます。

にもかかわらず、この私事の手紙が、なぜ公の、否、聖なる書物であるこの聖書の中に収められているのでしょうか。それはこの手紙が、この最後の局面において、教会の正しい姿を描き出そうとしているからです。これまでの手紙を振り返ってみますと、それは、キリスト者いかにあるべし、とか、神の真理、またイエス・キリストの正しい御姿とはこうである、などといった内容が中心でありました。しかし、この第三の手紙は、キリスト亡き後に建てられた教会の真の姿を見定めて、これに集中していこうとします。

手紙の宛先は、確かに私的に親しい間柄の人物に対してです。そして手紙の中身も、特に本論の所に便宜上設けられている小見出しから想像されるように、それは「善を行う者、悪を行う者」と、キリスト者という、一信仰者としての態度やあるべき姿が強調されているように感じられます。けれどもこのことは、教会の生きた姿と無関係に成り立つものではないのです。一人のキリスト者の善し悪しは、教会のあり方における善し悪しと直に結びついているからです。

そして逆から申すと、今やまさにこの教会が、その足もとから揺さぶられて、内部に亀裂が生じ始めているというのです。

9節のところから、この手紙の急所が、次第に浮き彫りになって参ります。「わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません」。そして10節の後半、「彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています」。

「ディオトレフェス」という聞きなれない名前が出てきました。この人物は、詳しいことは分かっていませんが、ともかく自らが「指導者になりたがっている」者であること。また、自分の気に入らない人に対しては、悪意に満ちた言葉で謗ったり、邪魔したり、追い出したりするような、ずいぶんと乱暴な姿が克明に描かれています。では、どこでそんな振る舞いをするのか。その舞台は、教会であります。

この手紙の著者である長老は、このディオトレフェスのいる教会に対して、以前に一度、ある手紙を書き送っていたと言います。9節に、「わたしは教会に少しばかり書き送りました」とあるからです。ここの文章は、原文に沿って正しく訳し直すと、「わたしはその教会に……」となります。「その教会」とは、つまりその直前の所に記されている意味での教会、ということになりましょう。

その教会とは、文脈をたどりますと、まさに愛するガイオが属していた教会と考えることができます。否、必ずしもそうと言い切れないとしても、しかし5節以降を踏まえますと、少なくともこうは考えられます。この手紙の著者がかつて、ガイオの教会宛に遣わした兄弟たちがいて、この兄弟たちは、とても誠意ある待遇を受けて非常に喜んだ。その喜びようは各教会に広がって証しされ、著者自身も嬉しく聞いたと言います。実はこの兄弟たちというのは、7節に「御名のために旅に出た人」とあるように、各教会を回って伝道する、巡回伝道者でした。そして「異邦人からは何ももらっていません」と言うのですから、献金や物資などの支援は受けずに、おそらく手弁当で、福音の喜びを伝え歩いていたのでしょう。そのようにして巡回伝道者である兄弟たちは、かつてガイオの教会に遣わされては、そこでの霊的な交わりを通して、今度はまた、新たな教会へと送り出され続ける。そんな、教会間の信頼と喜びが広がりつつある中での、その一つの教会宛に、この著者は、ある時手紙を書き送った、と理解することができるでしょう。

いずれにしましても、福音が正しく宣べ伝えられ、イエス・キリストの家族として信頼と喜びが満ちあふれ、そして共に善なる助け合いがなされている、「その教会」。しかしまさにその教会に、ディオトレフェスがいたということになります。否、その教会の中に紛れ込んで、居座っていたことでありましょう。そして教会の指導者になりたがっている、この者によって、著者が以前に書き送った手紙は、激しい憎悪によって読み捨てられたのであります。だからこそ、著者は「彼のしていることを指摘しようと思います」と10節で述べています。自ら直接教会に足を運んで事を正そうと、その決意を手紙にしたためるのです。

実は、意外に思われるかもしれませんが、この手紙の本論に「教会」という言葉が三度使われていますけれども、よく見ますと、この教会という単語は、ヨハネの手紙全体を通じて、ここにだけ三回集中して出て来ます。否、同じくヨハネ教団から書き起こされたヨハネによる福音書を含めてみましても、実にこの箇所にだけ、「教会」という言葉が強調して用いられていることになります。それだけに、この教会ともあろう場所で、真なる神を神とせず、神ならぬものを神とする人間中心主義がまかり通り始めている。そんな危機感を募らせる著者の筆遣いが、ここから伝わってくるのではないでしょうか。

さて、こうしてこの手紙では、「教会」のあり方が、切実な問題とされます。誠意を尽くして人を受け入れ、喜んでまたその人を遣わして送り出すべき教会。その教会が今や逆転現象を起こし、自分たちにとって都合の悪いことを言う、真実なる人を受け入れず、そして教会の中から追い出そうとするのです。

教会という言葉は、日本や韓国、また中国でも、共通して“教える会”という漢字を当てます。けれども、新約聖書の元々の言葉であるギリシア語では、教会は「エクレシア」と言います。これは「~から」という意味の「エク」と、「呼ぶ」という意味の「カレオー」、この二つの言葉が一つに合わさった言葉で、「エンカレオー」、つまり「呼び出す」という意味の動詞が元になっています。これがさらに名詞に変化したものが「エクレシア」という言葉で、その意味は、「呼び出された者」または「呼び出された者の集まり、集会」ということになります。ですから、教会の本来の意味は、「呼び出された者の集まり」、つまり「神に召し出された者の集い」ということです。

教会の誕生はペンテコステから、すなわち主イエスの昇天後に聖霊が降って来てから、という事実を一方で私たちは知っています。しかし、その聖霊の働きが指し示すところは、まさしく神が今、この私たちを召し出してくださっている、という真実なのです。

8月初めにこどもの教会の夏期キャンプが行われました。今年のテーマは、「イエス様とともに歩もう!」と掲げて、主イエスの一番弟子であるペトロの物語を中心に、聖書を深く味わいました。その中で、キャンプ最終日に皆で劇を作って発表したのが、漁師ペトロが、主イエスの弟子となっていく場面でありました。ペトロが一晩かけて、まったく魚が釣れなかったにもかかわらず、主イエスに突然呼ばれ、そして一緒に舟に乗ってくださったイエス様と再び漁に出かけて、網を投げ降ろしてみたところ、たちまちおびただしい魚が釣れて網が破れそうになった、あの場面です。その驚きと畏れから、ペトロは、それまで自分の生活を支えてきた商売道具としての網を、ためらいなく投げ捨てる程にまで、変えられてゆきました。そして、「これからは人間をとる漁師になる」という主イエスの新たな招きの言葉に従って、教会に人を呼び集める福音伝道の歩みへと身を献えてゆくのでした。

日常生活の真っただ中で起きた、主イエスとの出会いの場面です。それは、自分の名が呼ばれ、その存在がまるごと主によって招き寄せられてゆくような出来事です。ここに、教会の原点が垣間見えます。私たちも、人生の思いがけない途上で突如、この主からの招きの声、声なき真の声に捕らえられて、今ここに集っているのではないでしょうか。それは、もしかしたら直接ではなく、ある人を通してだったかもしれません。または何かのアクシデントや出来事、あるいは、自分の中でのふとした気づきであったかもしれません。

いずれにしましても、自分の思いや計画とは異なる次元で、何か自分の力を越えたところからの働きや招きを感じて、今ここに私たちがいる。そしてこの不思議な事実を、父なる神、子なるイエス、御霊の息吹によって召し出された真実として、これを信じる。これがキリスト者、教会人としての姿であります。

神に召し出された、この私たち。それは一方において、私たちの暮らすこの世から呼び出された者です。この世とは、様々な矛盾や不条理、憎しみや虚しさ、そして究極的には、罪と死の絶望に彩られたこの世界のことです。そして私たちもまた、例外なく、罪の奴隷となって、底なしの闇に引きずり込まれてゆく弱き存在です。その私たちが、この世から召し出されるということは、神の絶対的な支配のもとに守られている。この世にあって、この世にはなき希望に生かされている、ということに他なりません。

そしてまた、神に召し出される者は、他方で、神の国へと召し入れられる者でもあります。この世から突如呼び出されるだけでなく、神の国に招待されている。神の永遠の命に既に結ばれている者でもあるのです。

こうして、教会は、この世と神の国との接点に立って、その両方を繋ぐ希望の砦となります。しかしそれは、いつでもこの世的な企みや、あのディオトレフェスや反キリストたちのような偽りが紛れ込む場所でもあります。真実が隠され、捻じ曲げられ、曖昧にされてしまう不確かさと隣り合わせです。しかしこの世の暗き地に立つ教会はまた、永遠の命を確かに垣間見ることのできる、恵みの初穂となります。そして実際にこの永遠の命を受け取り、指し示し、授けることのできる、真にこの世にはなき恵みを先取りする場所となるのです。

私たちはなぜ、来る週も来る週も、こうして教会に足を運んでいるのでしょうか。もしかしたら最初は、何か悩み事や問題があったから、教会の扉を叩いてみたのかもしれません。でもお陰様で、今はそれが解決した。そうであれば、もう教会に来る必要はないのかもしれません。実際、そんな理由から離れてしまった人もいることでしょう。あるいは逆に、苦しいことがあって教会に来たのに、5年10年経っても解決のめどが立たない。ますます状況は悪化してゆく。もう我慢の限界。だから教会にはもう行かない。そう心に決めて静かに去った人もいるかもしれません。しかし、私たちはそれでも教会に足を運び続けます。自分の思いを基準にしたなら、その教会生活は凸凹だらけです。あのペトロも、あれほど固く信仰に立っていながら、十字架の直前で主イエスを裏切りました。けれども、その裏切りに揺さぶられることなく、主イエスは約束を貫いてくださいました。十字架上で死してなお、永遠の命と共に、私たちを希望抱く者へと造り変えてくださいました。

私たちの人生の重荷や課題は、いくら祈っても解決しないことがあります。教会から離れたくなる時もあります。けれどももしかしたらこの重荷は、私がイエス様から離れて流されないための、船の錨のようなものなのかもしれません。今日も主は、私たちをご自分の命の元へと、私たちを呼び寄せてくださっています。その鳴り響く御声を聴く者として、私たちもまた、新たな兄弟姉妹となるべき教会の外の人に向かって、その声を響き渡らせたいと願います。