松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年8月12日(日)
説教題「永遠の命を生きる

説教者 朴大信 伝道師

新約聖書: ヨハネの手紙一 第5章13~21節

神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。

旧約聖書: エレミヤ書 第14章10~12節

この4月から少しずつ読み進め、聴き続けて参りましたヨハネの手紙一も、今日で最後のところを迎えることになりました。本日与えられました13~21節の言葉は、この手紙の最後の部分、いわば結論にあたる箇所です。手紙を送る相手に対して、著者ヨハネが最後に伝えたいこと、最も強調したいと願っている事柄を書き綴っている箇所とも言えるでしょう。

では、その結論とは何でありましょうか。13節ではっきりと述べられていました。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」。永遠の命。これを既に得ている恵みを、ヨハネ教団の兄弟姉妹たちにあらためて悟らせること。それが、この手紙を書き送る目的であったことが記されています。

この目的というのは、既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、手紙の最初にも示されていたものです。1章の1節と2節です。この手紙の要にあたる箇所ですので、再び目に留めておきましょう。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」。

「御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命」とは、イエス・キリストご自身のことを指し示しています。それも十字架の死より復活された、主イエスのお体のことです。このお体が、私たちの耳や目などの五感で確かめられる仕方でお墓から現れたということ。しかも命の言葉として、そして「永遠の命」として現れたということ。この事実、否、真実を、著者ヨハネは初めにも終わりにも、終始一貫してこの手紙で証しするのだと述べているのです。

実はこの目的は、ヨハネの手紙より少し前に書かれた、ヨハネ福音書の目的とも重なることに気づかされます。すなわち、ヨハネによる福音書20章31節を見ますと、こうあります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。

「イエスの名による命」とは、復活の主イエス・キリストの権威によって与えられる「永遠の命」と理解してよいでしょう。この永遠の命を私たちが受けるために、福音書も書かれたというのです。

さて、ヨハネによる福音書も、ヨハネの手紙も、いずれも主イエスが復活されたのち、神の御もとに昇られた後の時代に誕生した、ヨハネ教団という初代教会の中から書き起こされたものです。この二つの執筆時期には多少開きがありますが、今見ましたように、その目的は共通しています。しかしその熱意と申しますか、両者の筆遣いには違いもあります。つまり、どちらも主イエスに根ざす「永遠の命」を証ししつつも、福音書は、その命を我々が「受けるため」に書かれたのに対して、手紙の方は、我々が既に永遠の命を「得ていることを悟らせたい」ために書かれた、という違いです。

既に与えられ、キリスト者の内に得られているはずの永遠の命が、失われてゆく現実。福音書が正しく宣べ伝えていた内容が次第に捻じ曲げられ、今一度、見るべき真実に人々の目を向けさせなければならなくなった現実。こうして、大切な宝を再び取り戻すための闘いを背景に、ヨハネの手紙は書かれました。それは、今を生きる私たちにも、同じ熱意で向けられているメッセージです。

永遠の命。本日の説教題は、この「永遠の命を生きる」としました。
ところで、永遠の命とよく似た意味の言葉に、例えば「不老不死」というものがあります。長く生きること、長寿は、古今東西よいこととされていますが、しかし、できることならさらに、老いることなく、死ぬこともなく、若々しいままに永遠の命を手にしたい。そんな秘かな、しかし叶わぬ願望が私たちの奥底には潜んでいるかもしれません。死ぬのが怖い。死後の自分はどうなるのか。生きている間に出会った大切な家族や友人たちとは、死んだら会えなくなるのだろうか。そんな不安が隣り合わせているのかもしれません。あるいは逆に、不安ではなく生きる希望に燃えて、不老不死を願うこともあるかもしれません。今の幸せをずっと手にし続けたい。あるいは失敗しても、何度でもずっとやり直したい。そしていつかは成功を収めて、頂上まで登り詰めたい。そんな無限の可能性を夢見ることもあるでしょう。

けれども、もし仮に不老不死が本当の現実となったら、どうなるでしょうか。様々な願いが叶えられる一方で、その人生は、永遠に老いることもなければ、死ぬこともないのですから、時間感覚というものが薄れることになるでしょう。じっとしていても、時間に終わりはなく、人生は無限に続くことになるので、かえって時間のありがたさや、時間の中で起きる出来事の価値というものも、見出しにくくなってゆくかもしれません。そしてしまいには、自分が時間の中で生きていること自体、そこに特別な意味や喜びなど、まったく感じられなくなってしまうでありましょう。つまり、時間が無限にあることは、人生の幸福には必ずしも結びつかないということです。逆に言えば、限りある時間だからこそ、その人生で経験することには、積極的な意味が生じることにもなります。

限りある時間。死で終わる人生。それは確かに、虚しさや儚さ、あるいは、不安や恐ろしさを引き起こすでしょう。しかしまた限りある時間、死で終わる人生であるからこそ、出会いや出来事の尊さ、また美しさというものも際立ち、染みわたってくるのではないでしょうか。

いずれにしましても、私たちの現実は、しかし結局のところ、その生涯に必ず終わりを迎えます。どんなに避けたくても、死は、死自らが、いつか必ず、私たちの向こう側から訪れて来ます。そしてその時までに、私たちは多かれ少なかれ、病を得たり、愛する人との別れを経験したりします。様々な悲しみや苦難にも直面します。体力も衰えてゆきます。できていたことが、次第にできなくなってゆきます。限りある時間だからこそ人生は美しい、などとはとても言い切れない試練を味わいます。

しかし、それにもかかわらず、否、それだからこそ、私たちには希望が与えられているのです。主イエスを神の子として信じ、救い主だと信ずる者には、永遠の命が与えられるからです。そして既にこれを信じて、キリストのものとされた者は、永遠の命を得ているからです。

ここで差し出されている「永遠の命」は、「不老不死」の命とは、似て非なるものです。不老不死のように、私たちから、生きる意味や喜びを奪うものではありません。むしろ、まことの意味と喜びを与える命です。なぜならば、不老不死における永遠の命とは、この地上で生きる命の延長線にすぎないからです。今ある命を、究極的な目的なしに、ただ人間の欲望のままに引き延ばした命に留まるからです。しかし、神が御子イエス・キリストを通して授けてくださる永遠の命は、この世の命の延長線上にあるものではありません。この世の常識や、命あるものの願望との断絶の先にあるもの、すなわち、神の住まい給う天上にあってこそ光輝く命だからです。この世にはなき、まことの命です。

この永遠の命は、主なる神、父なる神と共にある命です。しかしそれだけではありません。御子イエス・キリストによって罪赦され、キリストのものとされた者に対してこそ与えられる、まことの命です。16節を見ますと、「すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません」と宣言されています。これはやがて来るべき終末、すなわち主イエスの再臨の日、裁きのために再び地上に来られる最後の日における、キリスト者の姿を描いています。私たちは、神からお生まれになった御子イエスに守って頂くことで、罪を犯す者から解き放たれ、永遠の命に、神と共にある命に与ることができるのです。

では、私たちの罪とは何でしょうか。それはかつて、アダムとイヴが犯した罪のように、神を真の神とせず、自らを神とする背きの姿であり、相手に責任をなすりつけて非難し合う、愛なき姿です。こうした神の御心から的が外れてゆく姿は「死に至る罪」として神の裁きを受けることになりました。救いようもない、ただただ死に向かって滅びゆく罪というものが、今も私たちの内を蝕んでいます。しかし、そのように神から厳しい裁きを受けるしかない私たちの罪が、イエス・キリストによって、「死に至らない罪」とされたということ。ここに、永遠の命が私たちに与えられている希望があります。神から切り離されて死に滅びゆくべき人間が、再び神の御もとに引き寄せられました。そして御子イエスと御霊の働きと共に、死に至らぬ罪として赦され、「神に属する者」とされたのです。それは神の命の中で、永遠の命を生きるようになるためです。

16節に、「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」とあります。けれどもそれに続いて、「死に至る罪…については、神に願うようにとは言いません」と反対のことが書かれています。これは、死をもたらす罪からの解放の道が、既にイエス・キリストによって備えられているにもかかわらず、そのイエスを正しく受けとめず、自らの力で救いを引き寄せたり、永遠の命に到達しようとしたりする、偽りの勢力のことを想定しながら書かれているのでしょう。最後の21節「子たちよ、偶像を避けなさい」という、やや唐突な締めくくりの言葉は、この闘いが背景に貫かれていたことを最後まで色濃く示しています。

決してそのような勢力に、あなた自身、巻き込まれてはならない。祈りではなく神の裁きに委ねよ、という警告がなされています。しかし私たちも本来は、死に至る罪人であった者から救われた者です。あるいはこれから救われようとする者です。そこには、ただ一人のお方の切なる祈りによって、私たち自身も祈られていたことを知ります。主イエス自らが、それまでも、今も、そしてこれからも、私たちのために父なる神に祈り続けてくださるのです。祈りだけではありません。自らの十字架の死によって、私たちの罪による死が、死んだのです。ここに、主イエスの愛と、そこに貫かれる、神の救いのご意志、そして永遠の命にある希望が、今日も私たちに差し出されています。

永遠の命。それは確かに、やがて来るべき最後の日に約束されるものです。その意味では、地上ではなく天上の話であり、今のことではなく将来の話です。また自分の努力でつかみ取るものではなく、ただひたすら天上の恵みによって、主イエス・キリストを通して与えられるものです。

けれども、神がお授けになる永遠の命は、死んだ後の話ではありません。今ある自分の生き方に直接関わる命であり、この世の物語なのです。それは今を永遠のように生きることであり、また永遠を今のように生きる者とされることです。なぜなら、天上において約束されるこの永遠の命は、主イエスを通して、この歴史のただ中に差し出されているからです。この暗闇の世界に、そして私たちの閉ざされた魂の深みにまで、既に天からさし貫かれたからです。

主イエスに出会って頂いた私たちは、永遠の命を眺めて夢見るだけでなく、実際にその永遠の命を生きる者とされてゆきます。老いてもなお望みを抱き、病を得てもなお感謝を捧げ、苦悩と虚しさにあってもなお光を見出して歩む。そして死の悲しみや恐れに襲われてもなお、永遠の命、すなわち主の真の命に結ばれる交わりに生かされる。そのような者へと変えられてゆきます。それは例えば、近しい人を先に失ったとき、喪に服す文化風習に身を置きながらも、既に希望に照らされて、その喜びを自ら伝える者となることかもしれません。あるいは忙殺されるほどの日常を過ごす場合、自らの働きがどこに捧げられ、またその命が一体何によって支えられているのか。そこに目を留め、足を止めてみる。そして周囲を見渡してみる。そこに助けを必要としている人がいたら、自分の持てるものを差し出す。たとえそれは一瞬の事で、些細な事のように見えて、しかしその瞬間の断面に、その人の全人格、その人の命を支える大いなる命が、永遠なる輝きをもって差し出される、ということがあるのです。

不確かなこの世界で、揺るぎない永遠の命が与えられています。主イエス・キリストが共に歩んでくださる限りです。それは世が拒む仕方で示されながら、しかし実は、世が最も切に望んでいる真理なのです。それを先取りし、成就してくださるキリストの働き、教会の歩みに、私たちも共に応えて参りましょう。