松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年6月10日(日)
説教題「行いをもって誠実に」

説教者 朴大信 伝道師

新約聖書: ヨハネの手紙一 第3章11~18節

なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

旧約聖書: 創世記 第4章1~16節

私は先週、東海教区の婦人研修会に参加して参りました。松本東教会が所属する日本基督教団の諸教会の方々との、さらに広い主にあるよき交わりと学びを与えられるべく、教会から送り出して頂きました。その研修会の中で、今回の主題講師の先生が、こんな事を仰っていたのが印象的でした。

誕生日とは何か。私たちは誰でも、自分の誕生日というものがあるけれども、いったいその誕生日とは、何が誕生して、何をお祝いする日なのだろうかと、あらためて問うのでした。

誕生日とは言うまでもなく、私が生まれた日のこと。この私が命を授かり、この世に生まれ出てきた日のことであります。けれどもよく考えてみますと、生物学的には、この私の命は、実際に生まれた日よりも前から、既に母の胎内で誕生していたのであり、何もない所からある日突然生まれたわけではありません。誕生する一日前と、晴れて誕生したその当日の赤ん坊の姿というのは、ほとんど変わりがないと言えるでしょう。命は、既に地上に生まれ落ちる前から誕生し、育まれていたことになります。

そうしますと、厳密に申せば、誕生日とは、必ずしもこの私が生まれた日を指すわけではないことが分かって参ります。講師の先生はそのように問題提起されながら、では何が誕生し、何をお祝いする日であるかを問います。それは、その誕生の日をもって、親子の関係というものが決定的に生み出されたということ。そしてその関係の誕生をお祝いするのが誕生日だというのです。それまで母の胎内で、文字通り一心同体のごとき存在であった小さな命が、へその緒を切り取られた瞬間から、対面して向き合う存在となる。一つの体と命をもった他者となる。母の手を離れて、自由な存在となってゆく。しかしそのような現実を迎えることによって、むしろ本格的な親子の関係も始まるのです。子の誕生によって、それまで妻だった者は母となり、夫だった者は父となる。子の誕生は親の誕生であり、子育ては、親育てでもある。したがって、一人の赤子の誕生が意味するところは、むしろ生まれた当の本人の誕生日であるよりも、母親の誕生日、父親の誕生日であると言えます。

新たな関係の誕生を感謝し、祝う。これが誕生日の隠された趣旨であります。教会における洗礼も、その意味ではこれと似るところがあると言えましょう。洗礼によって新しく生まれ変わる。その新しい命とは、この私が神の子とされ、キリストのものとされる、ということです。私の命は神から授かっていたにもかかわらず、その失われた関係を、御子キリストによって回復して頂く。再び父なる神に対する、神の子として、新たに歩み始める。これが洗礼の恵みです。

私たちが洗礼の恵みに与り、神の子とされ続けるために、本日も尊い御言葉が与えられています。それがヨハネの手紙一11節の「互いに愛し合うこと」であります。この教えは、手紙の受け手のみならず、同じくキリスト者である私たちにとりましても、既に「初めから聞いている教え」だと言われています。

この教えを、もし私たちが神の子とされ続けるために守らなければならない戒め、という風に受けとめようとしますと窮屈な思いがいたします。むしろこの教えは、私たちが真に神の子とされるということは、実に「互いに愛し合う」歩みへと促されているのだという真実を証し、宣告するものと言えましょう。実際、この「教え」という言葉は、「アンゲリア」というギリシア語の訳でありますが、アンゲリアとは英語の「angel・天使」にも通じる言葉です。天使、あるいは使者。つまり、伝えるべきメッセージを運び、聴く者に喜んで告げ知らせるという意味が、この「教え」という言葉には本来備わっています。

「互いに愛し合おう」という教え。そしてこの喜びの告げ知らせは、本日お読みした最後の18節にも再び登場して、その言葉で締めくくられていました。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」。

著者のヨハネがこの手紙を通して繰り返し伝えたかったことは、自ら捻り出した新しいオリジナルな教えではありません。既に私たちが「初めから聞いている教え」なのです。それは、2章7節でも似た言い方で出てきていました。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」。また、この手紙で何度でも立ち戻るべき、あの冒頭の箇所の言葉、すなわち1章1節にも、このように書かれていました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」。

この「命の言」が愛の言葉なのです。命を授ける言葉こそが、愛を教える言葉なのです。神の命の言葉が私たちの内に実ることによって、私たちは互いに愛し合うことができるようになります。それは、御言葉が受肉した御子イエス・キリストによって、私たちはその命の中を生きるようにして頂いたからです。そして主イエスこそが、互いに愛し合うことを新しい掟として教えられただけでなく、自らも愛を実践し、十字架に至るまで従順に愛を全うされたからです。

こうして著者は、今日の手紙の中で創世記に登場するカインとアベルの物語を引き合いに出しながら、そこに自らの解釈も加えて「互いに愛し合うこと」の深みを語り出してゆきます。著者ヨハネは言います。「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました」(12節)。兄のカインと弟のアベルは、共に神の御前に献げ物を差し出しましたが、どうも弟の方が神に可愛がられたため、兄は弟に対して羨み、腹を立て、やがては激しい憎しみに燃え立って、戸口で待ち伏せをする罪に絡めとられるように弟を殺してしまいます。なぜでしょうか。12節には、兄のカインの「行いが悪く、兄弟(アベル)の行いが正しかったから」とその理由が書かれています。けれども兄の立場からすれば、不条理にも自らが突如、悪い者とされてしまった、という言い訳が立ちそうです。しかし彼は神のこの不可解な選びに耐えきれずに、十戒の「殺してはならない」という教えを破ってしまいます。

ところが、著者ヨハネは、この旧約聖書からの引用を、手紙の中で唯一この箇所でしながら、あえてカインの行いの悪さを強調しています。そしてたとえ私たちがカインのような憎悪に満ちた状況に陥っても、それでもカインのようになってはならない、と釘を刺すのです。しかも、単に「殺してはならない」という十戒の教えを守ればよいと勧めるのではなく、それでも互いに愛し合いなさい、兄弟を愛し合いなさい、と説いているのです。そして逆に14~15節では、「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです」とまで言い切るのです。もはや実際に殺人を犯しさえしなければ自分は無罪だ、とは言い切れない厳しさがここに突き付けられています。愛のなさは死に留まることであり、憎しみは人殺しに他ならないのです。

では著者ヨハネは、ここで無理難題な教えを説こうとしているのでしょうか。それは一方では、まさしく聖書自らが語っているように、「世があなたがたを憎む」(13節)ような教えでありましょう。世の中の常識では理解できず、反発を買い、対立を引き起こしてしまうほどのものです。しかし私たちは、この煮詰まった状況を転換させる、次の御言葉にあらためて目を留めさせられます。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています」(14節)。

私たちが「死から命へと移った」。このことは、私たちが洗礼を受けて神の子とされることによって、死んだ後も神の永遠の命によって約束され、肉も霊も生き永らえるようになった、そんな死後の世界の恵みを語っているだけではありません。ここでの死とは、むしろ地上における死であり、罪による死です。憎しみに満ち、相手をも自らをも滅ぼす闇の勢力。これに圧倒される死です。そして命とは、この罪の殻を破って憎しみに打ち勝ち、他者の存在に喜んで仕えてゆく、愛の命ということです。私たちはこの地上において、今やこの命へと移される者となった、ということが語られているのです。

私たちが「死から命へと移った」。
この真実をさらに具体的に示している箇所が、16節です。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」。

この3章16節の御言葉は、実は「もう一つの3章16節」とも呼ばれる箇所でありまして、これに先立つ最初の3章16節というのは、ヨハネによる福音書の3章16節であります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

この二つの箇所は、その表現においても内容においても、互いに並行して共鳴しながら、補い合う関係にあると言えるのではないでしょうか。それぞれの前半の言葉に注目しますと、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」――この福音書の御言葉は、手紙においては御子イエスが「わたしたちのために、命を捨てて」くださることによって成就したと、記されています。そうした仕方によって、神様の愛が私たちに示されたことが分かってきます。「そのことによって、わたしたちは愛を知りました」とある通りです。

ところが後半はどうでしょうか。福音書では、神が私たちを愛されたのは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と言います。これは祝福の約束であり、私たちはこのことに感謝して、その恵みに与かることを願い続けるでありましょう。ところが、手紙では事情が少し異なります。神は御子の死を通して私たちを愛された。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」と言うのです。これは祝福ではなく、命令です。しかも、私たちに自らの命を捨てるようにと命ずる、実にむごい命令です。感謝どころか、抵抗を抱かせるかもしれません。

しかし著者ヨハネは確信をもってそう言うのです。なぜでしょうか。ここで、あらためてカインとアベルの物語が引用された意味を考えてみます。カインとアベルは、アダムとイヴの息子たちでありました。ところがカインは、弟のアベルを殺してしまった。そうしますと、その後の人類の歴史というのは、アベルなき歴史、つまりカインの子孫の歴史ということになります。私たちは、いわばカインの末裔ということになるのです。これは実に象徴的なことです。私たちはカインのような遺伝子や習性をもって生まれる、ということになるからです。つまりもし不条理なこと、都合の悪い出来事が身に起きてしまったとき、そのことに耐えられずに相手を憎んで殺してしまう。そして憎しみが憎しみを呼び、罪が罪を呼び、相手も自分も罪に死んで苛むことになります。これが、人類の歴史を貫く姿と言っても過言ではありません。

相手をいつのまにか人格としてではなく、道具として見てしまい、自分の都合の良いようにいかないと消し去ってしまう。そんな憎しみという負の連鎖が、やがてイエス・キリストを、あの十字架にまで追いやって死に至らせたのであります。

しかし私たちは、今や「カインの末裔」ではありません。なぜならば、人間の憎しみの極みである殺人によって、主イエスは確かに死なれました。しかし、まさにその死をもって、主は死を滅ぼし、罪を滅ぼされたからです。憎しみの連鎖は断ち切られ、赦しと愛の連鎖が新しく生み出されたのです。

私たちが洗礼を受け、神の子とされたということは、この恵みの連鎖に連なる者とされた、ということです。だから私たちは、自分の命を捨てる程までに兄弟を愛し、互いに愛し合う原点に立ち返らなければならないのです。それも「行いをもって誠実に」であります。口先だけではなく行いをもって。そして誠実に。ただしこの誠実さは、私たち自身のひたむきな誠実さではありません。ここの元の意味は「真実に」、または「真理において」ということです。神ご自身の誠実な真実さ、またその御子のへりくだりに秘められた真理においてこそ、私たちは再び立ち上がることができるのです。この真実に生きて参りましょう。