松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20180527

2018年5月27日(日)
説教題「神の種がこの人の内に」

説教者 朴大信 伝道師

新約聖書: ヨハネの手紙一 第3章4~10節

罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。

旧約聖書: エレミヤ書 第4章3~4節

「法の目をかい潜る」という言葉を時々耳にすることがあります。私たちの暮らすこの社会には、法律や規則、あるいはルールというものが数多く存在します。それらの中で、様々な取り決めや規制、あるいは罰則などが設けられ、これを実際に人々に守らせることで、人間関係や社会秩序に一定の安定をもたらそうとします。もし反則やルール違反、法律違反を犯してしまうと、当然のことながら罰せられてしまいます。しかしそれは基本的に、その人を排除するためというよりも、犯した過ちに気づかせ、所定の段取りを踏ませることで、再び円滑な社会生活に戻れるように誘導するためのものだと言えるでしょう。そのようにして、法律や規則というものは、私たちの暮らしを正しい方へ導き、公平に守るための客観的な共通ルール、あるいは第三の目として存在します。

ところが、この法律という第三の目を潜り抜けて、その法がまだ想定していない事柄というものをうまく逆手にとって、悪知恵を働かせようとする場合があります。法の抜け穴をついて、たいていは自分の利益になるようにあれこれ動き回る習性というのは、事の大小を問わず、概ね私たちにも当てはまる姿だと言えるかもしれません。「この法律には、○○とまでは書かれていないから、○○しても大丈夫だ」という具合にです。例えば、卑近な例で恐縮ですが、私は少年時代、放課後によくサッカーを仲間たちとしていました。近所の公園で、毎日のようにサッカーに興じていたのですが、ある日突然、そこに注意書きの看板が立てられました。よく見ると、「この公園では、サッカーの練習をしてはいけません」と書かれています。私たちはとてもがっかりしました。もうここでサッカーができなくなってしまうのかと、一同、大変残念に思いました。ところが、その時仲間の一人がこんな機転を利かせて、次のように言いました。「大丈夫!ここには、サッカーの『練習』がいけないと書いてあるのであって、サッカーの『試合』がいけないとは言っていない。だからもし何か言われたら、『僕たちは真剣にサッカーの試合をしています』と言えばいい!」

子どもながらに、誰しもが、それは機転の利いた名案などではなく、屁理屈だと内心思いながらも、サッカーをどうしても続けたいあまり、さらにそこに「みんなで渡れば怖くない」という集団心理も働いて、サッカーをなお続けてしまった日々のことを、今ではほろ苦く思い起こします。私たちは文字に書かれたものだけを正式なルールや法律とするだけでは不十分で、それらの背後にある意図や目的までをも理解しなければならない場合が、しばしばあります。法の心を幾分かでも受けとめ、それを守ろうとする想像力や判断力、あるいは公共意識が私たちには与えられているからです。

キリスト者にとりましても、これと同じことが言えるでありましょう。キリストのものとされた者たちは、この社会が求める様々な法律やルールの他にも、特別に守るべき法があります。それが律法と言われるものです。この律法は、イスラエルの民に神様が授けてくださった宗教上の、また生活上の様々な掟や教え、戒めでありますけれども、律法は決して旧約聖書の時代の、古い化石のような法ではありません。それは今を生きる私たちにとりましても、神の御子イエス・キリストによって新しくされた掟として、光輝くものです。なぜなら、主イエスは「律法の完成者」としてこの世に来られたからです。父なる神の光が、イエス・キリストを通してこの罪まみれた現実のただ中で輝き入り、私たちを呼び覚まして神の御もとに立ち返らせ、その歩みを真理の中に置いてくださっているからです。

それゆえに、本日お読みした4節ではこう言われていました。「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです」。

ここでは「法に背く」ことが「罪」だと言われます。私たちは通常、罪の問題を考えるとき、聖書で言われる罪というのは、いわゆる社会的な犯罪としての罪ではなく、むしろそのような行為の不正よりも関係の歪みを指し示して、私たちが神に対して背を向けてしまう姿のことを思い浮かべるでありましょう。これは原罪とも呼ばれる罪で、私たちが神に背を向け、自らを神のように祭り上げてしまう現実を意味します。

けれども、今日の箇所では、「罪とは、法に背くこと」だとはっきり言われています。神ではなく法に背くこと、それが罪だと言うのです。ではこの二つの意味での罪、すなわち原罪と社会的罪とは、どのように響き合うのでしょうか。

ここでの法とは、具体的に律法のことだと理解できます。そしてこの律法は、そもそもイスラエルの民にとっては大切に守られるべき神の掟で、律法を犯すことは強く恐れられていました。またその内容が妥当であるか、有効であるかなどと疑うことも、まったく非難されるべき態度と見なされました。同じように、主イエス以降の使徒たちも、この律法を真剣に受けとめ、教会の中で神の律法を説いていました。

ところが、このように律法を重んじる態度の中にも、御心に反する過った意志というものが隠されることがあります。律法には、宗教上の、また生活上に関わる多くの事柄が、細部にわたって書き記されていると先ほど申しました。そしてその中の様々な取り決めや裁きによって、具体的な罪が何であるかも示されていました。しかし、そうは申しましても、律法は、罪のあらゆる姿・形を隈なく採りあげて事前に戒めたり、事後に裁いたりするものではないことも、また事実であります。どうしてもカバーしきれない現実というものが起きてきてしまいます。聖書に記された律法の文脈からみても、また一般的な社会通念や慣習からしても、本来は悪で、罪に値するような事柄でありながら、それを断定できず、禁じることも裁くこともできない罪悪というものが存在します。しかし不真実な者は、そこで何ら律法を傷つけていないと主張し、それどころか律法に最大の栄誉を捧げて、その権威や有効性を尊重することを盾にとって、自らの身を守ろうとするのであります。

この手紙の著者は、このような偽りにこそ眼を鋭く向けて、「罪を犯す者は皆、法にも背く」と戒めているのです。それは、律法の網目をかい潜ることができるような罪など存在しないという主張であり、神の律法から逃れようと奔走する利己的な罪こそは、憎むべき罪であると断じているのです。こうして、神の律法に背く者というのは、目に見える社会的・倫理的な行為の逸脱だけを指すのではなく、律法の心を踏みにじり、ひいてはその源なる神ご自身の名をも傷つけてしまう者として、ここでは「罪」と捉えられています。

こうして、私たちの奥底に潜む罪をも余すところなく暴き出す律法。しかしこの神の律法は、いたずらに私たちを罪の自覚に追いやるだけのものなのでしょうか。それでは苦しいだけのようにも思えてきます。しかし今や、それは私たちをがんじがらめにして、ただ罪人の自覚に追いやってしまうだけものではありません。キリストを通して「新しい掟」とされたからです。私たちが絶えず目を光らせ、神の律法と神の御心を一点の曇りもなく遵守しようとすればするほどに、そこには私たちの無力さが示され、また自らを卑下し、相手をも非難してしまう現実に陥ることでありましょう。

けれども、私たちが主イエスに結ばれ、その命に招かれて、恵みの息吹の中を共に歩むことが赦されるとき、私たちは罪を犯さないようになると聖書は伝えます。なぜならば、5節に記されていますように、「御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません」と確信されているからです。しかも9節を見ますと、私たちは「罪を犯すことができません」とさえ言われています。

私たちが、もはや罪を犯すことができないようになる。いったいどんな根拠をもって、そう力強く告白できるのでしょうか。私たちは、ともすれば自らの罪ゆえに、律法からばかりでなく、主イエスからも、あの使徒ペテロのように、逃れてしまいがちな存在ではないでしょうか。

先週、私は東海教区の定期総会に初めて参加して参りました。そしてその二日目の朝、他のもう一人の方と共に、伝道師としての准允を正式に受けました。神の御前と教区議員である公衆の方たちの前で、誓約をしました。准允という字は難しい漢字を書きますけれども、平たく申せば、説教の務めを果たす資格を持つ、という意味になります。

しかしその日、私は准允式を執り行ってくださった教区議長からの一言が、今でも忘れられません。それは「准允を受けるということは、生涯、教師として立てられ、教師として生きるということだ」という言葉です。日本基督教団の中には、隠退教師という立場が設けられています。健康や年齢上の理由から、主任として教会を牧会する務めから退く、という先生方がいらっしゃいます。けれども、いんたいの「いん」は、「引く」ではなく「隠れる」という字を当てます。それは形式上、最前線に立つ現役牧師たちの陰に隠れることにはなるけれども、しかし少なくとも、自分の気持ちや判断で牧師の職から身を引いたり、退いたりすることはないという意味であります。たとえ体が鈍くなっても、言葉が理路整然としなくなっても、あるいは牧師であっても時に憎まれ、叩かれ、笑い者にされるような辛い現実に遭っても、人の思いによらず、神の御旨と祝福の内に生かされ続ける。それが教会の教師というものだ、という主旨のことを仰いました。

身震いと共に、襟を正される思いでした。しかしそこには、畏れと同時に清々しさも伴っていました。この准允式を成り立たせているのは、私の誓約だけだと、どこかで思い込んでいましたが、そこには私に先立つ神からの誓約、神が教師として生涯立たせてくださるという約束があるのだという真実に、はっとさせられました。

そしてこの真実は、キリスト者においても同じだと思いました。洗礼を受け、あるいは信仰告白をして、キリストのものとされるということ。それは、もちろん私たちの自覚や誓約が不可欠です。しかしキリスト者の本来の歩みには、自らの思いで身を引く引退というのはありません。卒業もありません。あるのは進級のみです。かつてキリストと出会う前はさ迷い、隠れ、身を引き、勝手に逃げ回るような歩みを続けていたかもしれません。しかしキリスト者となるということは、私たちがキリストに捕らえられたということであり、キリストが私たちに出会い続けてくださるということです。たとえその後も、否むしろ、その後ますます罪を自覚し、そのしがらみに苦しむことがあっても、主イエスは私たちを諦めない。その眼差しを、罪にまみれた暗闇の中で光として受け、それによって見るべき希望を見て、立ち上がらせて頂きたいと願います。

私たちが罪を犯すことができないようになるとは、このキリストの光に捕らえられて、もはや罪を犯す力が失われるということです。なぜならば、私たちは神の子として、神の種が、この身の内にあるからです。9節は、この神の種が「いつも」あると述べます。折の良いときも悪いときも、絶えずキリストを通して伴ってくださり、私たちを成長させ続けてくださるからです。成長とは、私たちが従来の姿から脱皮し、新しくされるということ、神を真の神として、より近く、より親しく、より確かに見出すということです。そして愛を注ぐことが困難だった者に対して、愛を注ぐことができるようになるということです。10節で、自分の兄弟を愛するようにと、またここでも強調されているのはそのためです。

見えない、小さな神の種が、しかしこの私のためにその内に蒔かれ、それが真の幸いをもたらす喜びの種であることを信じて、今日も神の御手の内を歩んで参りましょう。