松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年5月13日(日)
説教題「油を注がれて」

説教者 朴大信 伝道師

新約聖書: ヨハネの手紙一 第2章18~27節

子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。

旧約聖書: 出エジプト記 第30章31~33節

私たちの生活になくてはならない物の一つに、「油」が挙げられるでありましょう。日々の食卓の上にのる料理の中で、油の入っていない食事が一つもないとは言い難いほどに、油は私たちの日常に欠かせません。食用だけでなく、自動車を走らせたり、寒い冬に暖を取ったりするための燃料としても、油は必需品です。また、肌の美容や手入れのためにも薬用として用いられます。あるいはまた、物を修理する際の潤滑油としても、油はその効果を見事に発揮します。

このように油は、もし私たちが適切な分量や方法で用いるならば、基本的には良いものとして、私たちの生活や私たち自身を生かすものとして、大切にされるべきものと言えます。

聖書におきましても、油はしばしば登場します。聖書の中で単に「油」と訳されているもののほとんどは、オリーブの実から採った油を指すことが多いのですけれども、このオリーブ油は、特にイスラエルの民にとっては大変貴重なものとされ、日常生活に欠かせないものでした。

けれども聖書に出てくる油には、もう一つ重要な意味があります。本日の御言葉として与えられました旧約聖書、出エジプト記の30:31には「聖なる聖別の油」という表現が出て参りました。この聖別の油は、「代々にわたってわたしのために」、つまり主なる神様のために使うべきである、と記されています。

旧約聖書の時代、イスラエルの民の礼拝儀式におきましては、国の指導者である王、またイスラエルの共同体全体の指導者である祭司と預言者がその職位に就く際、それが神による任命と聖なる務めであることを表わすために、特別な徴(特別な儀式)が設けられていました。それが「油注ぎ」と呼ばれるものです。この油注ぎは、聖書に20回ほど出て参りますが、油は、王や祭司、預言者たち、またその子孫たちの頭に注ぎかけられました。そして礼拝を捧げる聖なる幕屋、またその中に備えられた儀式のための祭壇や祭具にも油を注ぎました。それらが聖なるものであり、主のために特別に取り分けられたもの、つまり聖別されていることの徴として、油は、極めて高価な意味を持っていたのでありました。

それだけに、この神の栄光のために用いられる聖なる油は、32節以下で具体的に命じられていますように、「一般の人の体に注いだり」、塗ったりしてはなりませんでした。また、この特別な油の作り方は、23節以降に細かく記されていましたけれども、しかしこれを、個人的に使用するために調合することも、固く禁じられていました。あくまでも、「聖なるもの」を「聖なるものとして」扱うことが要でした(32節)。

ところで私たちは、この油が日常的な場面であるにしても、また特別な聖なる場面で用いられるとしても、もしこの油の中に水が混ざりこんで来たとしたらどうなるか。それは経験上、よく知っているはずでありましょう。同じ所に混ざりこんだとしても、実際この二つは一緒に交じり合うことはありません。「水と油の関係」とよく言われるように、両者は互いに相容れず、反発し合うのです。油にとって水は敵であり、水にとっても油は敵であり続けます。

このように、まるで水と油の関係のような現実が、実は教会の中でも起こります。そのことが、本日の新約聖書、ヨハネの手紙の箇所で赤裸々に描かれておりました。

とは申しましても、教会の中に、水と油の現実があるというのは決して珍しいことではないとも言えます。そもそも、ここにいる私たちは、初めから互いに異なる存在です。育ってきた環境も、持ち合わせている性格も、考え方も、また信仰の歩みも、皆それぞれであります。それぞれであるがゆえに、その多様性を豊かさとして、互いに重んじる方向に進めばよいのですけれども、しかしまたそれぞれであるがゆえに、そこに優劣という評価、あるいは反発という互いに裁き合う意識や関係が生まれてくるのも事実であります。家族同士であっても、この現実から免れることはできません。私たちは互いに人間でありながら、しかしその思いの深いところで、水と油のように、互いに理解し得ないことへの苛立ちや諦めを抱かざるを得ず、そうした異質性という壁の前で、立ちすくんでしまいがちな存在です。

けれども、そのように互いに相容れない者同士でいる私たちが、愛のない暗闇に埋没することなく、希望を新たに見出すことができるのは、この教会に呼び集められ、キリストの恵みによって一つとされるからに他なりません。この世にあっては嘆きや諦めを強いられるしかなかった苦しい現実。しかし私たちがキリストの御体なる教会に結ばれ、真の交わりに活かされることを通して、その現実が喜びへと変えられる。この信じ難き奇跡、神の御業が起こされ続ける場所が教会であり、礼拝であります。

この意味で、私たち人間世界の水と油の関係というのは、それ自体教会においては躓きにはなり得ず、むしろキリストの恵みを真の恵みとして受け取るための、欠かせないスタートとさえ言えます。暗闇のただ中で、ここに差し込む希望の光を見上げるのです。

しかしながら、本日のヨハネの手紙の中で示されている現実は、これらの様相とは少し異なっています。なぜなら、互いに水と油のような関係の私たちを、一つに結び合わせてくださる唯一の要であるキリストを、真のキリストとして信じようとしない勢力が、この手紙の著者の生きた時代にヨハネ教団の教会の中で表れ始めたからです。決して一つにはなり得ない、嘆かわしい現実への喚起がなされています。

この、教会の真の一致をかき乱す存在こそ、「反キリスト」と呼ばれる勢力でした。22節で、彼らは「偽り者」とも言われ、「イエスがメシアであることを否定する者」、「御父と御子を認めない者」として断じられます。歴史の中で誕生した主イエスを、メシアとは認めない立場というのは、キリスト教の初期の時代から存在していました。それは後の教会の歩みの中で歴史的に繰り返し現われ、今日にも及んでいる問題です。

反キリストの立場を特徴的に理解するならば、それは次の二つにまとめられます。①「人の子イエス」は信じるけれども、「神の子キリスト」は信じない。またその逆に、②「神の子キリスト」は信じるけれども、「人の子イエス」は信じない、というもの。つまり「人間イエスの内に、神の子メシアとしての姿をみない」という立場や、反対に「神の子メシアは信じるが、それが人間イエスに宿っていることに関心を示さない」という立場です。主イエスお一人における人の子としての「人性」と、神の子としての「神性」が統合せずに、バラバラになっているのです。

私たちは、父なる神と子なるイエスとの関係を正しく理解することによってはじめて、歴史のイエスを、神の子メシア、御子キリストとして受けとめることができます。天上の神の御言葉が、この地上で肉となった出来事として、イエス・キリストを見るようになるのです。そうだとすれば、反キリストという存在は、主イエスに対して誤った理解を抱いた異端者ということになります。そして私たちは今、彼らを向こう側に置くことで、その過ちを批判したり、反面教師にしたりすることになります。

けれども、反キリストとははたして、私たちキリスト者とはかけ離れた、過去の化石のような存在ということなのでしょうか。手紙の著者は、ヨハネ教団の教会の同胞の仲間たちに向かって、どんな思いで注意を喚起し、警告を発しているのでしょうか。はたして反キリストとは誰でしょうか?私たちの外なる存在でしょうか。それとも、内に潜む私たち自身の姿でしょうか。

著者はこの手紙で、反キリストについての説明として、それがどんな存在であるかを述べるだけでなく、もう一つ、注目すべき書き方をしていました。それは18節で、「今や多くの反キリストが現れている」と言った後に、「これによって、終わりの時が来ていると分かります」と続けています。まるで世紀末のように、この世の終わりの時が近づいているから反キリストが現れ始めた、ということではありません。そうではなく、むしろ反キリストという存在が登場してきたことによってはじめて、今、終わりの時が来ていることが分かる、というのです。つまり、反キリストの到来は、終わりの時にキリストが再びこの地上にやって来られる、という約束の前兆であると理解できます。

このことは、キリストが私たちの元にいよいよ迫っておられることを意味します。既に主イエスの誕生において始まった終わりの時が、完成に向かって成就しつつある、その訪れの迫りが強調されているのです。それがはっきりといつなのか、私たちには知らされていません。既に始められている終わりの時、しかし未だその果ての見えぬ終わりの時。この間の時を、私たちは今、そして日々、終わりの時として過ごしています。緊張と楽観、いずれの感情も抱きつつ、しかし、主イエスの訪れの迫りと共に、であります。

その主イエスが、私たちに語っておられること。それが前回「新しい掟」として私たちにあらためて授けられた、あの掟であります。すなわち「互いに愛し合いなさい」。特に、最も身近であるはずの兄弟を愛し合いなさい、ということが戒められました。

私達がイエス様に愛されているという真実は、頭の中の想像や観念ではありません。なぜなら、主イエスはその御体をもって十字架上で犠牲となり、御体をもってこの世に復活され、その御体を通して父なる神の愛を伝えてくださったからです。そして今もなお、私たちをその愛の御腕に抱き抱えて呼びかけ、共に歩んでくださるからです。

そのように愛された者として、私たちは人を愛する者へと造り変えられてゆきます。自分の力ではできなかったことが、神の御業の中で、神の栄光を共に仰ぎみるために、できるようにされます。互いに愛し合うということは、自分と他者の二人の間だけで成り立つものではありません。この私が、御父の愛を伝える主イエスと共にある中で、その果実として、はじめて許される喜びなのです。

反キリストの勢力とは、この、主イエスの恵みのもとにある相互の愛を、不可能にさせてしまう悪の力です。相容れない者同士が交わり、互いに仕え、赦し合う。その愛の喜びを奪うものです。なぜなら、キリストを正しく受け入れていないからです。人の子イエスと、神の子キリストとがバラバラに分離して、一つとなっていないためです。私たちが人を愛そうとしても互いに愛し合えず、かえって傷つけ合う現実を繰り返してしまうのは、この反キリストの勢力に捕われているからなのかもしれません。

ここにいる私たちは、既に洗礼を受け、キリストのものとされている者であります。けれども絶えず、反キリストの勢力の闇に引っ張られ、傾いてしまう、まことに脆い存在でもあります。山々に生える木々たちは、私たちが普段平地で見るように、まっすぐには立っておらず、山の斜面に沿って身を傾けながら生えています。中には激しい風雨にさらされ、やがて自らの重さにも耐えられずに倒れてしまい、そのまま腐って息絶えてしまう木々もあることでしょう。いみじくも、私たちが学び続けていますハイデルベルク信仰問答には、次のような問いがありました(問5)。「あなたがたはこれらすべてのこと(すなわち神の律法の掟、特に神への愛と隣人愛の掟を指します)を完全に行うことができますか」。その答えはこうです。「できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです」。

私たちは生まれつき、神と隣人を憎む方へと心が傾いている。人間の弱さや罪深さを「傾き」と捉えたこの答えは、私たちが自分の明確な意志の及ばないところで、いつのまにか反キリスト的な力になびいて、神と人を憎む傾向に絶えずさらされている現実を見事に言い当てています。

しかしそのように罪に傾く私たちが、自らの罪の重さに自滅することなく、あの山の斜面に凛々しく生える木々のように美しく立ち続けることができるとすれば、一体どのようでありましょうか。ここに、掟が掟であるゆえんがあります。私たちは、自らの自然の姿においては、神も人をも愛するどころか、憎む存在でしかありません。だからこそ、真の喜びに生きるための指図と戒めがなくてはなりません。

山の木々は、たとえ傾いていても、その根を地中に深く張り巡らせることで立派に経ち続けます。私たちの拠って立つ土台はキリストに他なりません。教会もキリストを土台として建てられます。その土台は、キリストがお語りになり、キリスト自らもそれに生きられた新しい掟であります。

今やその愛の掟は、私たちをただ戒め、身動きできなくさせてしまうような掟ではありません。愛の溢れる油として、私たちを豊かに潤わせてくれます。主イエスこそはメシア、すなわち真に「油注がれた者」でありました。その油注がれたお方が、神のために用いられる最も高価な油を、罪に傾く私たちのために注いてくださいました。聖なるものによって、私たちが真に聖とされ、神の真理に生かされるためです。