松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年4月29日(日)
説教題「新しくされる古い掟」

説教者 朴大信 伝道師

新約聖書: ヨハネの手紙一 第2章7~17節

愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

旧約聖書: レビ記 第19章13~18節

私たちはしばしば、「古典」と呼ばれるものを目にしたり、耳にしたり、あるいは手で触れたりすることがあります。古い典、すなわち”古い書物”という意味の漢字を当てて記される、あの古典であります。英語では一般に”classic”と言われる言葉です。それは例えば、シェイクスピアや万葉集などの文学の領域で用いられることでしょう。しかし文学作品だけでなく、モーツァルトやベートーヴェンといった音楽のジャンルでもしばしば使われます。あるいはまた、学問や芸術という、より専門性の高い分野においても、この古典という言葉はよく聞かれるでありましょう。

いずれにしましても、古典と申しますのは、古い時代に創り出された作品、というように広く理解できるものですが、それは単に古いという訳ではありません。時の流れの中で物事が古びてしまうというのは、この世の常であります。過去のもの、文字通り過ぎ去ったものとして忘れ去られてしまいます。けれども長い風雪に耐え、歴史の中で大切な規範として重んじられ、継承され続けるもの、というものもあります。古典が古典であるゆえんは、それが遠い昔に生み出されたはずでありながら、しかしその後、絶えず塗り替えられる歴史の中で、様々な批判に打ち克ってきたからであります。そして今も明るい輝きを放っては人の心を打ち、その光の下でみずみずしい力をもって私たちを前進させるからです。

聖書もまた、その意味では古典と言えるでしょう。しかもそれは聖なる古典、聖典と呼ばれます。けれども、聖書が神の言葉であると同時に、人の手によって書き記された歴史の書物でもある限り、それは絶えず、いつ古びてしまってもおかしくはない宿命と共にあります。

本日お読みした聖書箇所は、そのことに触れて書き始められています。2:7「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」。

この手紙の著者が、「愛する者たち」と呼びかけて、ヨハネ教団と言われる教会の仲間たちに自分の思いを強く書き記しているところであります。強く、と申したのは、ここにある種の危機感が漂っているからです。この箇所で、「掟」という言葉が何度か出て参りました。掟というのは、戒めという言葉に置き換えた方が理解しやすいかもしれません。人の思いや行いに定めを設けて、規律正しくさせたり方向づけたりする、そのような戒め。あるいは教え、と言ってもよいでしょう。そのような意味での掟について、著者はここでもまた、危機感を募らせてこの手紙を書いています。そもそもこの手紙全体が、退けられるべき危機や悪の力との闘いの中で書かれたということは、既に何度かこの手紙の特徴として触れていたところであります。

さて、この掟とは何のことでしょうか。実はこの中身について、今日の箇所では具体的に指し示されてはいません。しかし手がかりがあります。それは、「古い掟」とか「新しい掟」という表現によってです。この言い方は、既に主イエスが弟子たちとの最後の晩餐の席で言われた時の表現に根を持っています。ヨハネによる福音書13:34を見ますと、それは弟子の一人であったユダの裏切りが予告された直後の場面で、主イエスが次のように言われた言葉でありました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

主イエスによって宣言された「新しい掟」。それはつまり、「互いに愛し合いなさい」という掟でありました。ここで主イエスが「新しい掟」と言われている以上、それは、その当時の「古い掟」に対する「新しい掟」、という前提が想定されることになります。表現としては出てきませんが、明らかに「古い掟」という存在が、主イエスの言葉の背後には隠されています。そしてさらに踏み込めば、その当時までにすっかり古びてしまった掟を、主ご自身が新しくされようとされた、その決意がにじみ出ているように響いてきます。

では、主イエスが生きておられた時代、主ご自身によって新たにされなければならなかった「古い掟」とは何だったのでしょうか。この時代はまだ、キリスト教は誕生していません。主イエスはユダヤ人で、ユダヤ教の文化圏で暮らしておられました。そのユダヤ教の中でとりわけ大事にされていた掟、あるいは戒めや教えというものは、特に律法という形で事細かくまとめられ、書き記され、イスラエル共同体の中で受け継がれてきました。本日、併せてお読みした旧約聖書のレビ記は、その律法の内容が詳しく表れているところですが、今私たちにとって焦点となっている「古い掟」とは、特に今日の19:18に刻まれた内容のことでありました。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」。

「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。ここでも「隣人を愛しなさい」と戒められています。ヨハネ福音書で「新しい掟」として宣言された、「互いに愛し合いなさい」という言葉と、ほとんど同じような印象を受けます。

けれども違いがあります。それは大きく二つあります。一つは、私たちが人を愛するという時、具体的にどのように愛すべきかについて、両者は異なっているからです。「古い掟」の方は「自分を愛するように」愛しなさいと教え、「新しい掟」は「互いに」愛し合いなさいと教えています。言い換えれば、前者はまず自分自身を愛することが前提となっているのに対して、後者は、自分を超えた他者をお互い同時に、愛し合うということが求められていることになります。この違いは大きな違いですが、しかしそれ以上に、どちらとも、難しい教えであるようにも思えます。はたして私たちは、どれほど自分自身のことを愛することができているでしょうか。そしてまた、私たちは他人との関係の中で、どれだけ相手を自分の期待に当てはめることなく、また相手の態度に揺さぶられない仕方で、「互いに」愛し合うことができるでしょうか。

さて、二つ目の違いは何でありましょうか。それは、「古い掟」と「新しい掟」でそれぞれ教えられる隣人愛をなしてゆく際、ここにはその愛し方の違いだけではなく、実際に人を愛することができるようになるための根拠や土台というものが、両者では異なる仕方で記されていることに気づきます。レビ記では、「わたしは主である」という宣言がいわば暗黙の土台とされているのに対して、ヨハネ福音書の方では、「わたしがあなたがたを愛したように」という、主イエスの愛が根拠となっているのです。

この「わたしは主である」ということと、「わたしがあなた方を愛したように」という表現。この違いが、「古い掟」から「新しい掟」への転換をもたらすものとなっています。実は、人を愛するという一つの掟をめぐる古さと新しさというのは、その愛し方をめぐる違い以上に、この、私たちが真に人を愛することができるようになるための根拠が、決定的に明らかにされたという真実を指し示しているものなのです。

神が真の神、主であられること。それは雲の上だけの話に留まるのではありません。神が真に主であるということ。それは、神が真に私たちの命と共にあるということに他なりません。そして、この神の強いご意志、その貫かれた愛は、天から地上に差し込まれるようにして、御子イエス・キリストの御体に宿されました。貧しき馬小屋に生まれしあの幼な子主イエス。私たちの罪のとげによって満身傷だらけとなったあの十字架の主イエス。しかし死と罪の闇から甦られた後、再び弟子たちの前にお姿を顕しになられた主イエス。この主イエスから注ぎ出される愛が、真の神の愛として私たちを包み込むときに、私たちは「自分を愛するように」、そしてまた「お互いに」、人を愛し合うことができるようになるのだと、聖書は祝福の道を示しています。

こうして、主イエスの愛によって新しくされた掟。しかしこの「新しい掟」が、今や再び「古い掟」に成り下がってしまった現実というものが、私たちの聖書には包み隠さず記されています。それは、主イエスの亡き後の時代、主イエスが天に昇られてから100年もしない内に、たくさんの手紙が書かれたことからも分かります。危機感に突き動かされ、真の正しい福音を知らせるために、多くの手紙が書かれてこの聖書には収められることになりますけれども、ヨハネの手紙もその一つに数えられます。そしてこの危機的な状況は、二千年近くたった現在でも、変わっていないと言えるのかもしれません。否、むしろますます深刻な状況にあると言うべきかもしれません。

新しくされたはずの掟が、古きものとされてゆく現実。時代を経ても、絶えず光を放ち続けるような「古典」とはなり得えない現実。7節には「既に聞いたことのある言葉」という表現で、その新鮮さがとっくに失われている現実が指し示されています。そしてこの掟がすさむということは、掟だけの問題ではありません。それは、私たち自身が互いに愛し合わなくなるということであり、また、自らの存在を過った仕方で蔑んだり、あるいは偏狭な自己愛に至らせたりすることにも繋がります。

しかしだからこそ、このヨハネの手紙の著者は再び立ち上がります。8節「しかし、わたしは新しい掟として書いています」。そして続けます。「そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」。

古びてしまった愛の掟を、再び取り戻す決意。その決意は、しかし著者においては、何か別の所からその根拠を引っ張ってこようとするものではありません。自らの努力でその戒めを果たそうとするのでもありません。そうではなく、「既にまことの光が輝いている」真実にあらためて目を留めるという仕方です。それは主イエスにとっても、そして私たちにとっても、既に真実であり、その真実なる光を再発見するということでもあります。

私たちが真実なるキリスト、光なる主イエスに捕えられて、キリストの真の命を歩むようにされること。このことは既に起こっていることであります。しかしそのことが過去のものとして留まるか、あるいは絶えず今を生きる私たちの命を育み、未だ来たらぬ死に向かって、世の終わりに向かって、歩む私たちの希望となるかどうかは、極めて大切な問題です。

しかしだからこそ、この手紙の著者は、そして神ご自身は、私たちを励まします。12節以降で繰り返し呼びかけがなされています。「子たちよ、父たちよ、若者たちよ」。そして再び「子供たちよ、父たちよ、若者たちよ」と。そう呼びかけて、既に私たちが神を知り、罪赦され、悪いものに打ち勝っており、もう十分に強くされている真実を呼び覚まそうとしています。そして興味深いのは、既に示されたこの真実の中で、極めて具体的な愛の戒めを、私たちに説いているということです。それは9~11節に記されている「兄弟を愛する」という戒めです。私たちが神に愛され、主イエスの光の中を歩む者とされているという真実は、決して漠然とした抽象論ではありません。それは、他者を愛するという生活の現実を引き起こします。しかも「兄弟を愛する」という極めて身近な現実です。聖書が教える隣人愛は、「敵を愛しなさい」とか「自分の命を友のために捨てること、これ以上に大きい愛はない」などと、一見、私たちの現実感覚からするととても遠くて、難しい教えのように聞こえます。しかしここでは、兄弟愛が教えられています。なぜならば、血の通った家族、いつも共に暮らす家族の間で愛し合うということが、どれほど難しい現実であるかということを、聖書自身がよく知っているからです。家族なのだから自動的にうまく愛し合えるというわけではないのです。これは兄弟関係だけに限らず、親子関係、夫婦関係にも当てはまります。

この身近でありながら最も難しいとも言える兄弟愛。また家族愛。けれどもこの愛の戒めを、私たちはただ我武者羅に実践することを求められているのではありません。「わたしがあなたがたを愛したように」と仰った主イエスの言葉が再び鳴り響きます。主は最後の晩餐の日、弟子たちの足を洗ってその愛をお示しになりました。弟子たちが優れていたからではありません。最後まで無知で、裏切る存在でありました。にもかかわらず、愛し通しました。愛とは、好ましい条件がそろって初めて可能となる業ではありません。むしろその逆で、「……にもかかわらず、愛する」関係を言います。

この手紙の目的は、「交わりを持つようになるため」だとありました(1:3)。それは元の言葉(コイノーニア)を辿れば、「共有する」こと。しかも異質な者同士、相容れない者同士が互いに越境し、その場を共有するという意味合いです。この交わりが、隣人愛の姿です。しかしこの水平方向の交わりに先立って、そこには神ご自身と御子イエスとの交わりがあります。私たちはその交わりに招き入れられています。この招きに喜び、押し出されながら、今日も新しく愛し続ける者とされたいと願います。