松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年4月24日(日)イースター主日礼拝
説教題「復活の挨拶」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: マタイによる福音書 第28章1節〜10節

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

旧約聖書: 詩編 第122編








レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
復活のキリスト(The Resurrection Of Christ) / レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)

復活のキリスト(The Resurrection Of Christ) / レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)
アルテ・ピナコテーク 蔵 (Alte Pinakothek)
(ミュンヘン/ドイツ)
(Munich , Bundesrepublik Deutschland )

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挨拶は人と人との間で交わされる言葉であります。人に出会うと、たいていの場合は挨拶をもって会話が始まります。人と別れるときも、別れの挨拶をいたします。挨拶は人と人とを結びつける言葉であります。

挨拶の言葉にはいろいろありますが、多くの場合、私たちはあまりそれらの言葉の意味を意識せずに使う場合が多いと思います。朝に人と出会えば「おはよう」と言います。昼間ならば「こんにちは」。分かれるときには「さようなら」と言います。何気なく使う言葉かもしれませんが、実は多くの場合、挨拶の言葉には深い意味が込められています。挨拶の由来と言っても構いませんが、それを探っていくと、挨拶の言葉の深い意味にたどり着くことができます。

例えば「おはよう」という挨拶。私たちも今朝、教会にやってきて、この挨拶の言葉を交わしたと思います。この言葉にも深い意味があります。「おはよう」という言葉を漢字で表すと「お早う」になりますが、早く起きて勤勉ですねと相手を称える意味が込められていたり、あるいは早く起きることができるくらい、あなたは健康でよかったですね、という意味が込められているのだそうです。

「ありがとう」という感謝を表す言葉も意味が込められています。これも漢字にしてみますと「有り難う」となります。有り難いこと、つまりあり得ないことが自分に対して起こる。そのあり得ないほどのことをしてくれた相手に感謝を表す言葉として、「ありがとう」という言葉になったのだそうです。

「おはよう」や「ありがとう」という言葉は日本語でありますので、聖書の考え方とは関係がほとんどないかもしれません。しかし外国語の挨拶の場合は、聖書と深いかかわりがある場合が多い。英語で「さようなら」は ”Good-Bye” と言います。これは ”God be with you” を短縮したものであると言われています。神があなたと共におられますように、という意味です。私はあなたと別れの挨拶をして別れるかもしれない。しかし分かれるあなたに神が共におられますように、という願いを込めて、”Good-Bye” と言うのであります。

まだまだたくさん例を挙げることができるかもしれません。実は先週、この説教の準備をするにあたって、いろいろな挨拶の言葉の由来を調べていたのですが、面白くなって止まらなくなってしまいました。たくさんの言葉を調べましたけれども、今はここまでにしたいと思います。しかし何気なく使っている挨拶の言葉には、実は深い意味が隠されていたということは、お分かりいただけたと思います。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、マタイによる福音書の最後の方にある物語であります。今日はイースターでありますので、いつも御言葉を聴いているルカによる福音書からは離れて、主イエスが復活をされた物語をマタイによる福音書から、御言葉を聴きたいと思っております。

この物語の中に、一つの挨拶の言葉が出てきます。復活された主イエスが、二人の婦人に出会ったときに、挨拶をされました。「おはよう」(九節)という言葉であります。「おはよう」という単純な挨拶でありますが、実は翻訳をするのにかなり苦労をしている言葉であります。

聖書には数多くの翻訳があります。新約聖書の元の言葉はギリシア語でありますが、日本語を含めて数多くの言語に翻訳をされています。いったいどのくらいの翻訳の数があるのか、数え切ることのできないほどです。日本語でもたくさんありますし、英語でしたらかなりの数になるのではないかと思います。外国語も含めて、私が持っている聖書を片端から調べてみましたが、だいぶニュアンスの違う言葉にたくさん出会うことになりました。

そのうちのまず一つは、私たちが今、手にしている新共同訳聖書のように「おはよう」と翻訳する言葉です。「おはよう」ではなく「こんにちは」と訳されているものもありました。ギリシア語の元の言葉が、一般的な挨拶を表す言葉でありますから、そのことを考えての翻訳であると思います。この物語は朝の出来事でありました。一節のところに「週の初めの日の明け方に」(一節)と記されています。一般的な挨拶の言葉で、しかも時間は朝でありますから「おはよう」という訳になるわけです。これが一つの考え方です。

しかし主イエスはユダヤ人であります。新約聖書はギリシア語で書かれましたけれども、主イエスはギリシア語を話されていたわけではない。主イエスが用いていた言語で挨拶をするとなると、おそらく「シャローム」という言葉を用いていたであろうと考えられる。

「シャローム」という言葉は、イスラエルの国に旅行をすると、必ず覚えて帰ってくる言葉です。一般的な挨拶の言葉であります。しかしその意味はとても深い。たいていの場合、「平安」ですとか「平和」というように訳されます。しかも単なる争いがないという平和ではなくて、神との関係を含めて、あらゆることが健やかであるという意味のある言葉です。「シャローム」という挨拶は、そのような祝福を祈る意味も込められての挨拶であります。

おそらく主イエスもこの言葉で、二人の婦人に挨拶をされたのではないかと思われます。ちなみにヨハネによる福音書では、復活された主イエスが弟子たちのところに表れたとき、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ二〇・一九、二一)と挨拶をされています。これもおそらく、実際、主イエスが使われた言葉は「シャローム」ではないかと思います。

そうしますと、ここでの翻訳の可能性としては「おはよう」と訳すよりは、「平安あれ」と訳した方がよいということになります。かつての口語訳聖書は「平安あれ」でありました。もっと古い文語訳聖書は「安かれ」であります。「おはよう」ではなく、「平安あれ」「安かれ」。これもなるほどと思わされる翻訳の仕方であります。

もう一つの可能性を挙げたいと思います。先ほど、この言葉はギリシア語の一般的な挨拶であると申し上げました。だから「おはよう」と訳されているわけですが、実はこの言葉は、「喜ぶ」という動詞の命令形であります。「あなたがたは喜びなさい」と、そのまま訳しても差し支えない言葉です。

たしかにこれは一般的な挨拶の言葉ですが、挨拶に喜びの意味が含まれているのです。”Good-Bye”という言葉に「神が共におられますように」という意味が込められていたように、「おはよう」という言葉の裏に「喜び」が込められている。ですから、ここでの挨拶を「おはよう」でも「平安あれ」でもなく、「喜びなさい」と訳しても差し支えないと思います。いや、その方が主イエスの言われている意味がよく分かるとさえ思えます。たとえ「喜びなさい」と訳さなかったとしても、主イエスが言われた挨拶には、喜びの意味が込められているのは確かであります。

私が喜びなさいと訳しても差し支えないと思うのは、理由があります。どうしてかと言うと、二人の婦人はこのとき、喜びだけでなく、恐れにも包まれていたからであります。八節にはこうあります。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」(八節)。婦人たちは主イエスが葬られているはずの墓に行ったのですが、天使たちから主イエスがお甦えりになったことを聞かされました。婦人たちにとっては朗報です。喜びの知らせです。

しかしそれは想定外のことであった。神の圧倒的な力に触れたと言ってもよいでしょう。喜びと同時に恐れも感じてしまった。主イエスが復活されたことに関して、完全に喜ぶことも、また完全に恐れることもできずに、半分が喜び、半分が恐れという状態になってしまった。「恐れながらも大いに喜び」という言葉はそのことを表しています。そんな婦人たちに復活の主イエスが出会われる。挨拶の言葉がかけられる。「喜びなさい」という言葉であります。

この婦人たちは二人のマリアでありました。一節のところにこうあります。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」(一節)。この二人のマリアのことは、第二七章六一節にも記述があります。「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。」(二七・六一)。この二人のマリアはこのとき何をしていたのかと言うと、主イエスが墓の中に葬られる一部始終を見ておりました。

時は夕方でありました。当時の社会では日が暮れると次の日が始まります。次の日は安息日でありました。軽々しく外出することができない日です。二人のマリアも、主イエスが墓に葬られたことを見届けた後に、家に帰ったものと思われます。そして安息日は家で過ごした。しかしそのあとの聖書の記述を見れば分かる通り、安息日の日には番兵たちが墓を見張っておりました。墓の石はずっと封印されていたのです。主イエスのお体は明らかにその墓の中にある、誰もがそう思っていました。

先々週の土曜日、教会員の埋葬式を行いました。お骨をお墓に納める式です。埋葬式では短い礼拝をいたします。讃美歌を歌い、聖書が読まれ、短く説教が語られます。その式の中の説教の後に讃美歌が歌われますが、讃美歌が歌われている間に納骨をします。讃美の声に包まれて、お骨がお墓の中に納められていくのです。先々週の土曜日の場合ですと、お墓に墓石のふたがあるのではなくて、お墓の裏側のところに扉があり、その扉を開けて、そこからお骨を入れることになりました。そういうわけで、説教が終わった後に、みんなでお墓の裏側に回りこみまして、讃美歌を歌いました。

讃美歌を歌うために、歌詞を見なくてはなりませんが、歌詞を横目で見ながら、納骨されていく様子を誰もが見ておりました。一部始終を見たわけであります。そんな私たちは、ああ、あの方はあそこのお墓に埋葬されたということが分かっています。おそらく今もお墓の扉は固く閉ざされていて、あそこにお骨があるということが、私たちの頭の中にある考えです。

これと同じように、二人のマリアにとっても、主イエスのお体があそこにある、それは当然の認識でありました。墓の入り口は大きな石で封印された。そして、この二人以上に、主イエスのお体がそこにあるという証言ができる人はいないと思います。

復活された主イエスが、なぜこの婦人たちに最初に出会われたのだろうかという問いを私たちは抱くかもしれません。弟子たちの前にこそ、最初に現れてもよさそうなものの、そうではなくて最初は婦人たちに出会われた。それはなぜか。もうその理由は明らかであると思います。婦人たちは主イエスが墓の中に葬られたことを確実に知っていたからです。弟子たちは逃げてしまっていたので、主イエスが墓の中に葬られたこと、いや主イエスが十字架で死なれたということでさえ、証言者になることはできなかったのです。

この二人の婦人たちにとって、墓は固く閉ざされている、そのことは自明なことでありました。それにもかかわらずなぜ墓などに出向いて行ったのか。一節にこうあります。「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」(一節)。婦人たちはただ墓を見に行ったのです。

他の福音書を見ると、主イエスのお体を香料で処置をしようという考えがあったようですが、マタイによる福音書にはそのような考えは見当たりません。墓は封印されているかもしれない。けれども、せめて遠くからでも墓を見に行こうと思っただけのことなのです。

墓に到着すると地震が起こります。地震の原因は天使たちでありました。天使たちが墓を固く閉ざしていた石を、まるで石ころのように脇へ転がしたのであります。番兵たちは恐ろしさのあまり震え上がりました。おそらく婦人たちも同じ恐れを抱いていたと思います。しかし天使たちは言います。「恐れることはない」(五節)。

この言葉に始まり、天使たちの言葉が続きます。弟子たちに伝えるべき言葉が七節のところにありますが、弟子たちにこう告げよと天使たちは言います。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(七節)。

「死者の中から復活された」というのは深い意味のある言葉です。死者という言葉は複数形です。「死者たちの中から」と訳した方がよいかもしれません。そして「復活された」というのは、日本語だと分かりにくいのですが、受け身の形です。「復活させられた」と訳した方がよいかもしれません。つまりたくさんの死者たちがいて、その中から、父なる神によって、主イエスは復活させられたのです。

新約聖書の別の箇所を見ますと、主イエスは復活の初穂であると言われています。初穂とは最初の実りです。主イエスは死者たちの中から最初に復活した復活者ということになります。主イエスがお甦りになられた出来事は、最初の実りが実ったという出来事であり、これこそがイースターの出来事であります。

先週一週間は受難週でありました。受難週は金曜日に主イエスが十字架にお架かりになったその日を頂点にして、主イエスの十字架でのご受難を覚える一週間であります。先週の木曜日の夜には洗足木曜日の礼拝をいたしました。金曜日には受難日祈祷会を行った。そのような歩みをしてきた私たちでありますが、受難週が明けて、今日はイースターを迎えることになりました。

受難週が明けますと、「イースターおめでとうございます」という挨拶がなされます。受難週では「おめでとう」という挨拶はしません。しかしイースターの日は「おめでとう」という挨拶を交わし合うことになります。「おめでとう」というのも、挨拶の一つです。やはり先週、「おめでとう」という挨拶に関しても調べてみました。

この挨拶の言葉に漢字をあてるとすると、正式には「愛(め)でる」という漢字をあてるのだそうです。「おめでとう」という言葉をかける相手をいとおしく思う気持ちから、「おめでとう」という挨拶になるのだと思います。しかしこの漢字以外にも当て字がありまして、「お芽出とう」というように書くことができるのだそうです。芽が出るということです。

考えてみますと、「おめでとう」という挨拶の言葉は、結婚や出産、入学や入社といった節目のときにする挨拶です。いずれの場合も、「おめでとう」という言葉をかけたそのときだけよければよいというわけではありません。結婚ならばこれからの二人の結婚生活を、出産ならば生まれた子どものこれからの成長を願って、祝福を祈ってかける言葉であります。その意味で、今、芽が出たかもしれないけれども、これからもその芽が健やかに育つように、そのような願いを込めて挨拶する言葉が「おめでとう」と言うことができるでしょう。

「イースターおめでとうございます」。主イエスという復活の初穂が実りました。しかし、それだけで終わりというわけではありません。やがて続々と実が結ぼうとしています。今はまだ初穂だけかもしれませんが、続きがあるのです。続けて実ろうとしている実は、私たちの実であります。「イースターおめでとう」と挨拶を交わすとき、私たちは続く実りがあることを信じて、挨拶を交わし合うのです。

主イエスが死の力に打ち勝って復活された。神は死をも乗り越えさせてくださる。この可能性にかけることが復活を信じることであり、信仰を持って生きることであり、「イースターおめでとう」という挨拶を交わし合うことであります。

主イエスがお甦りになられて、復活された主イエスは私たちに挨拶をしてくださいました。「おはよう」という挨拶です。「喜びなさい」という挨拶であります。私たちは二人の婦人のように、喜んでよいのか、恐れなければならないのか、どっちつかずの状況で、喜びと恐れの間を右往左往しておりました。

しかし主イエスが「喜びなさい」と言ってくださる。私たちが恐れから解放されて、喜びを抱き、イースターの挨拶を交わすことができる。「イースターおめでとうございます、復活の初穂が実りました。さあ、一緒に喜びましょう」。私たちはこの喜びに生きることができる。今日こそ、この喜びの日なのであります。