松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年6月30日(日)
説教題「私が揺らいでも、教会は揺らがない」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: マタイによる福音書 第16章13節〜20節

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

旧約聖書: 創世記 第3章8〜10節

ここしばらく、松本東教会の礼拝にご出席の方はご存知の通りですが、私たちは使徒言行録からみ言葉を聴き続けています。使徒言行録の前は、ルカによる福音書からみ言葉を聴きました。使徒言行録を始める際にも申し上げたことですが、ルカによる福音書も使徒言行録も、同じルカが書いたものです。ルカは第一部として、イエスとはどのようなお方かということを、ルカによる福音書に書きました。イエスとはキリスト、メシア、救い主であるということです。第二部は、そのイエスをキリストと信じたものたちが、その後どういう歩みをしたのか、ということをルカは書きました。教会の歩みです。先週は使徒言行録の第四章の前半部分からみ言葉を聴きました。使徒言行録からみ言葉を聴くにあたり、私が特に願っていることは、教会とは何か、そのことを私たちが心に刻みたいということです。

私たちの教会には、いろいろな方がおられます。昔から教会に生きてこられた方も多くおられます。最近、教会に生き始めた方もおられます。また、嬉しいことですが、教会に生きることを決心されて、その準備を始められた方もおられる。まだ迷いの中におられる方もあるでしょう。そんな私たちにとって、教会とは何か、そのことを心に刻むことはとても大事なことです。

そんな私たちにとって、きょうは使徒言行録から離れて、マタイによる福音書からみ言葉を聴くことになりました。なぜか。先週の週報にも書きましたが、先週の月曜日から木曜日にかけて、名古屋で行われた説教塾セミナーに出席をしてきました。説教者のためのトレーニングのセミナーです。実際に聖書箇所が与えられ、説教を作成します。そのセミナーで与えられた箇所が、マタイによる福音書のこの箇所だったのです。

この箇所であることは、だいぶ前からすでにわかっていたことでした。セミナーの申し込みをする際、かなり迷ったことがありました。二四日から二七日までがセミナーで、次の日曜日は三〇日です。三〇日の日曜日に、マタイによる福音書のこの箇所から説教をするか、それともいつも通り、使徒言行録の続きをするか、だいぶ悩みました。祈りました。そして先週の週報に予告を載せた通り、今日はマタイによる福音書から説教をすることにいたしました。

セミナーに出席をし、この箇所にまず私自身が耳を傾けることから始めました。人が書いた黙想の文章を読みました。その中で、私が得た一つの確信があります。私たち松本東教会が耳を傾けるべき言葉がここにあるという確信です。今日の箇所に、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(一八節)とあります。これは主イエスの約束の言葉です。他の誰の教会でもない。ペトロの教会でもない。私たちの教会でもない。主イエスご自身の教会を建てると約束をしてくださったのです。その約束の実現こそが、私たちがみ言葉を聴き始めた使徒言行録に他なりません。使徒言行録の前半部分はペトロが中心的に出てきます。ペトロへのこのときの約束が実現していく。キリストの教会が始まる。使徒言行録全体を根拠づけるのが、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」という主イエスの言葉なのです。

主イエスの言葉が教会を生んだ。主導権を握っておられるのは主イエスです。ペトロとのやり取りでイニシアチブを取られているのも主イエスなのです。このことは、聖書が伝えている記事の中でも珍しいことであるかもしれません。質問をする。それに答える。大抵の場合は、質問をするのは、弟子たちか、主イエスを陥れようとする論敵たちです。主イエスが質問をされる。主イエスがそれに答える。大抵の場合はこうです。しかしこの箇所は違います。全く逆です。主イエスが質問をなさる。弟子たちが答える。最初から最後まで、主イエスがイニシアチブを取られるのです。

まず、主イエスがたずねておられることは、一三節にあります。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。弟子たちの答えは一四節です。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。主イエスという人物がどのような人であるか、人々はあれこれといっている。いつの時代でも、今日においても、イエスとは誰か、人々がいろいろな考えを持っています。

当時の人々が考えていたのは、預言者である、ということです。洗礼者ヨハネも預言者です。エリヤもエレミヤもそうです。預言者とは文字通り、神から言葉を預かって、それを人々に伝える役目をしていた人です。例えば、旧約聖書にたくさん記されていることですが、預言者が、神は言われる、と言って、神の言葉を伝えています。あるいは、預言者が伝えたもう一つのことは、救い主、メシア、キリストが来られるということです。今がまだ来ていない。しかし将来、来られる。預言者はそのことを伝えました。つまり、神は今ここにはおられないけれども、あっち側におられる神を預言者は指し示したのです。

続けて主イエスは、一五節のように問われます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。それに対して、ペトロは 答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」。(一六節)。人々の答えと、ペトロとの答えの違いを、よく心に留めていただきたいと思います。ペトロは、あなたこそキリスト、生ける神の子と答えました。目の前におられる方を、あなたはメシアだ、 キリストだ、救い主だ、しかも今生きておられる神の子だと答えたのです。

ペトロは、どのくらいの期間になっていたか分かりませんが、イエスという男と一緒に生活をしていました。その目の前にいた生身の男が、ああ、あなたこそキリスト、生ける神の子だったのですね、と答えているわけです。ペトロは驚いてびっくりしました。しかしそれ以上にペトロが口にしている言葉は驚くべき言葉です。イエスという男がキリストだった。イエスとキリストが初めて結びついた。その出来事がここで起こったのです。

主イエスがイニシアチブを取られて、ペトロのこの答えを引き出しました。主導権は主イエスの側にあくまでもあります。そのことがよくわかる言葉が、続く一七節にあります。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。人間ではなく、と主イエスは言われています。人間という言葉は、元の言葉では、血肉、血と肉という言葉です。人間がいくら血と肉を受け継いでも、駄目なのです。人間いくら知恵や知識を重ねても、駄目なのです。人間は今まで、ペトロがここで口にした言葉を、口にしたことがなかったのです。そうではなくて、天の父が示してくださったことなのです。主イエスが誰であるか、人間の知恵や知識によってはわからなかったのです。

ときどき教会の方から、聞かれる声があります。主イエスのことを、私は理解していないのではないかという声です。確かに、私は頭ではよく理解していますが、どうも心の底から本当に理解しているのかと言われると、途端に自信がなくなってしまう。すでに洗礼を受けた方からの声ですけれども、正直にそのように言っていただいたことがあります。

私たちが洗礼を受ける時に、大切になってくるのが、ペトロと同じ言葉を告白することです。洗礼を受ける時には学びをします。個別に学びをします。人それぞれ、学ぶペースも違えば、学ぶ内容も微妙に異なるかもしれません。しかし誰もが共通に学ぶことがあります。使徒信条の言葉です。この信仰の言葉の中に、イエスとは誰か、という言葉も含まれています。信仰を言い表して洗礼を受けるとき、私たちはペトロと同じ告白をするのです。

主イエスが誰かということを告白したにもかかわらず、その主イエスが本当の意味でわからなくなることがある。先程の方はそう言われたのですが、確かにそうであるかもしれません。私たちの血肉では理解不能なのです。知恵や知識では、把握できないのです。もしも私たちの力で把握できてしまったとしたら、人間が把握できたものは、もはや神ではありません。神は私たちの理解を超えた方です。その意味で、神は未知なるお方です。全てをつかみ損なっている。

しかし、本来ならば未知だったお方が、今、ペトロの目の前におられる。そのお方を、あなたこそキリスト、生ける神の子ですと告白させていただいた。血肉からではない。父なる神が示してくださったことによって、告白することができた。これは人類史上の中で最も驚くべきことです。神と人間が最も接近した時であると言ってよいと思います。

ペトロがここでこのように告白をさせていただきました。主イエスに導かれて、父なる神に示していただいて告白できました。このことは、ペトロのその後の歩みの中で、決定的な意味を持ちました。私たちは使徒言行録から、ペトロの足跡をたどっていますが、おそらくペトロはその歩みの中で、何度も何度も、このときの出来事を思い出したと思います。

今日の箇所の最初のところに、地名が出てきます。フィリポ・カイサリアという地名です。これが一体どこにあるのか、聖書に関する地図を開いてみると、イスラエルの中でもかなり北にあることがわかります。主イエスが行かれた北限ではないかと考えられます。このフィリポ・カイサリアという地名は、聖書の中は、ここだけにしか出てきません。一度限りです。なぜこの地名がわざわざ記されているのでしょうか。

先週のセミナーの中で、ある人が書いた黙想の文章を読みました。その中に、こういうことが書かれていました。場所は記憶と結びつくということです。例えば、私たちにもいろいろな思い出があると思います。楽しかった思い出を思い出してみると、それは必ずある場所と結びついています。どこどこでの思い出、心に残る記憶となります。必ず場所に結びつくのです。その黙想書いた人は、ペトロにとって、フィリポ・カイサリアが重要な場所だったと言うのです。ペトロは何度もその場所に結びつけて、記憶を思い起こした。おそらくペトロは、何度も何度もフィリポ・カイサリアでの出来事を思い起こし、それを語ったのだと思います。だから聖書のこの箇所に、フィリポ・カイサリアという地名が記された。人類史上、最初にイエスをキリストだと告白した場所、それがフィリポ・カイサリアだったのです。この場所が原点なのです。

私たちがみ言葉を聴き続けている使徒言行録の後半では、パウロがでてきます。この人も、場所と記憶を結びつけて語った人です。パウロは教会の迫害者でした。ある時、なおも迫害しようとしてダマスコという街に向かいます。ところがその旅の途上で、主イエスと出会う。回心をする。使徒として召され、伝道者になります。これが使徒言行録の第九章に書かれていることです。そのパウロが後日、自分の回心をした時の体験を語っているところがあります。使徒言行録の第二二章と第二六章です。やはりダマスコという地名が出てきます。パウロにとっての原点はダマスコだったのです。

ペトロはフィリポ・カイサリア、パウロはダマスコ。私たちはどうでしょうか。私たちにとっても、そのような場所があります。私たちの人生において、決して揺らぐことのない場所があるのです。それは私たちが洗礼を受けた場所です。その教会です。そこで私たちも、ペトロと同じように、告白をいたしました。主イエスに導かれて、信仰を言い表すことができたのです。松本東教会がその場所だという方もあるでしょう。別の教会だという方もあるでしょう。その場所で起こった出来事は、私たちの人生にいかなることが起こったとしても、決して揺らぐことのない出来事なのです。

信仰を言い表して、洗礼を受けるとは、生きておられる方との交わりに入ることです。目の前にその生きておられる方がおられます。その方と言葉を交わし合うことができるのです。

ペトロもこの時、主イエスと言葉を交わし合っています。「あなたはメシア、生ける神の子です」とペトロは言いました。それに対し、主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(一七~一八節)と言われました。あなた、わたしという言葉が多用されています。両者がその場に居合わせるからこそ、成り立つ言葉です。あなたこそキリストと言ったペトロの言葉に応え、主イエスがペトロの名を呼んでくださいます。存在を認めてくださいます。ここで約束が交わされました。教会を建てる約束です。ペトロはその教会に生きる者となりました。

ペトロに限らず、教会に生きる者は誰でも、自分の救いの確かな場を持ちます。生ける神の子への告白をした場です。生ける神との接点を持った場です。たとえ自分が揺らいだとしても、決して揺らがないお方と結びつきを持ったのです。このお方が私たちをキリストのものにしてくださる。私たちはこのお方を主とすることができるのです。

教会に生きる者は、いつでもキリストへの信仰に戻ります。ここに原点があるからです。以前、ある方から相談を受けたことがありました。今、自分は迷っている。Aをすべきか、Bをすべきか、その迷いの中にあるという相談です。私はまず、その方の語る言葉に耳を傾けました。その方も、自分の迷いを語っているうちに、だんだんと答えが見えてきたようでした。その後、私はこう言いました。Aを選んだにせよ、Bを選んだにせよ、神様に対して、顔を向けられる生き方をしてください。

その時の私の頭の中にあった聖書の言葉は、本日、私たちに合わせて与えられたき旧約聖書の創世記の言葉です。アダムとエバが、とって食べてはならないとお命じになった木からとって食べてしまった後の出来事です。神に従わず、罪を犯してしまいました。そこへ主なる神が近づいて来られる。あなたはどこにいるのか、と問われます。神の前にすぐに出て、わたしはここにいます、と答えるのが最も自然なことだったでしょう。しかしアダムとエバは、主なる神の顔を避けてしまいました。罪ゆえに、神に顔向けできなかったのです。

私たち人間は誰でも、アダムとエバのようなところがあります。神に対して後ろめたいことなく、最も自然に生きられれば良いのに、それがなかなかできません。そんな罪人の私たちのために、主イエスがキリストとして、私たちの目の前に来てくださいました。罪につながれた私たちのために、罪から解き放ってくださった。主イエスが イニシアチブを取られて、私たちをキリスト告白へと導いてくださいます。私たちは罪を悔い改める、いつでもこの告白へと戻って行く。イエスがキリストだと告白する生き方ができるようになるのです。神に顔向けできる生活ができるのです。

使徒言行録はそのような教会に生きる者たちの物語です。どんどんそのような者たちが増えていきます。時間も、場所も、広がって行きます。今の私たちの松本東教会まで広がってきました。主イエスが私たちと生ける神として出会ってくださいます。私たちを教会に生かしてくださいます。今日のこの日も私たちは礼拝で、イエスこそキリスト、生ける神の子と告白しています。これからも私たちは使徒言行録からみ言葉を聴きます。イエス・キリストの告白が続いていきます。使徒言行録では終わらない告白です。私たちの教会で、なおも続いているのです。