松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20120909

2012年9月9日(日)教会設立記念礼拝
説教題「教会の門は天国への入口」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: マタイによる福音書 第16章13節〜20節

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

旧約聖書: 詩編 第122編







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
ペトロに鍵を渡すキリスト ( Jesus Handing the Keys to Peter ) / ペルジーノ (Pietro Perugino)

ペトロに鍵を渡すキリスト ( Jesus Handing the Keys to Peter ) / ペルジーノ (Pietro Perugino)
システィーナ礼拝堂 (Sistine Chapel)
ヴァチカン(Vatican)

クリックすると作品のある「wikimedia」のページにリンクします。

本日の礼拝は、週報にも記されていますように、教会設立記念礼拝であります。私たちの教会の歩みは、今年で八八年を数えます。八八年前の一九二四年九月一三日のことになりますが、日本基督教会というグループに属する教会として、正式に発足いたしました。一九二四年九月一三日、この日は金曜日だったようですが、建立式(こんりゅうしき)が行われました。ですから、毎年の九月のこの日に一番近い日曜日に、教会設立記念礼拝を行っております。

今から八八年前に教会が設立されたわけですが、これは教会が「正式に」設立された日付になります。実はこれよりも前に、正式な教会ではなかったかもしれませんが、私たちの教会はすでに歩み始めていました。一体いつから歩み始めていたのか。一番の初めは、一九一六年六月四日のことになります。正式な教会として発足するよりも、さらに八年、遡ります。この日に何が行われたのかと言いますと、第一回目の聖書研究会が行われました。学校の先生たちが中心になって、聖書研究会がもたれたのです。

文字通り、聖書の研究の会であったようです。聖書には何が書かれているのか、聖書のこの箇所の意味は何か、そのようなことが、教会の記録によると、講義形式で行われることが多かったようです。時々、各自の信仰についての発表や談話、感話の時間が持たれることもあったようですが、基本的に行われていたのは、聖書の研究でありました。

聖書には、もちろんいろいろなことが書かれているわけですが、主イエスがあるときに言われたように、「聖書はわたしについて証しするもの」(ヨハネ五・四〇)、つまり主イエスのことが書かれています。聖書を読んでいると、主イエスとはどのようなお方であるかが分かってくる。そうすると不思議なことかもしれませんが、聖書を研究するだけでは済まなくなります。このことは私たちの教会の歴史が示しています。最初は、単なる聖書研究会だったのです。聖書のことを学んでみたい学校の先生たちの集まりでした。ところが聖書を読んでいく、研究をしていく。そして主イエスがどのようなお方であるかを知る。そうすると、聖書研究会を始めてから八年後に、正式な教会となっていたのです。教会が誕生していたのです。

私たちの教会の歴史をひも解くときに、とても難しいのは、教会の出発点をいつに設定するかということだったと思います。正式な教会としては、一九二四年の九月に発足した。しかしその八年前から、教会となる予兆はあった。すでに教会としての芽は出ていたのであります。出発点を、正式な教会が発足した日とするのか、それともその前のときを含めるのか、それは教会によって様々ですけれども、私たちの教会が、聖書研究会から教会になっていった歴史を忘れるわけにはいきません。聖書の研究では済まなくなり、神を礼拝する教会となったのであります。

本日、教会設立記念礼拝の日に、私たちに与えられた聖書の箇所は、マタイによる福音書第一六章一三~二〇節の箇所であります。先ほどの聖書朗読をお聴きになられて、お気づきになられたと思いますが、「教会」という言葉が出てきます。主イエスが「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(一八節)と言われたのです。

ここでおや、と思われる方もあるかもしれません。キリストの教会は一体いつ生まれたのか。「教会の誕生日」ということを知っておられる方もあるでしょう。よく言われることですが、教会が誕生したのは、今日の箇所よりもずっと後のことです。主イエスが十字架にお架かりになって、三日目にお甦りになり、そして天に挙げられた。弟子たちが地上に残されたわけですが、その後しばらくして、弟子たちに聖霊が降りました。そして神の言葉、つまり説教が語られました。この出来事はペンテコステ、聖霊降臨日として知られています。このときが教会の誕生日であると言われています。説教が語られて、礼拝がなされたのです。ですから、このペンテコステの日が教会の誕生日であって、それよりも前には教会はなかったのではないか、そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。

確かにその通りであります。主イエスはここで「教会」という言葉を使われていますが、ずいぶんと気の早いことだ、ということになります。しかし私たちの教会の歩みを振り返ったときに、正式には教会として生まれていなかったけれども、教会の芽がすでに出ていた期間があったわけです。その後の正式な教会となるまではまだ時間がかかるかもしれませんけれども、やがて教会となったわけです。主イエスがここで言われたことも、そのように理解することができると思います。まだ誕生日を迎えてはいないかもしれないけれども、すでに「教会」を建てると、ここで言われたのです。

主イエスはどういう意図で、ここで「教会」という言葉を使われたのでしょうか。「教会」と言いますと、私たちは教会の建物のことを考えてしまうかもしれません。私たちの教会は三二年前に教会堂の建物が与えられました。それまではいろいろなところを転々としていたわけですけれども、それでも「教会」でありました。建物はなくても「教会」だったわけです。主イエスがここで用いられた言葉も「教会」という建物を指す言葉ではないのです。ニュアンスとしては、「共同体」とか「集い」を表す言葉です。つまり主イエスはここで、「わたしはこの岩の上にわたしの『共同体』を建てる」と言われたのです。

それでは、主イエスはどのような共同体が建てると言われたのでしょうか。この場面が、どのような場面だったかを思い起こすとよいでしょう。主イエスたちはフィリポ・カイサリア地方と呼ばれる場所に来ていました。弟子たちが主イエスと一緒に歩み始めてから、かなりの日数が経っていたと思います。主イエスがお語りになるたくさんの言葉を耳にしました。主イエスがなさる数々の行為を目撃してきました。

それだけではありません。主イエスの周りに集まってくる人たちの様子も目の当たりにしました。いろいろな人たちがいたでしょう。主イエスはこのとき、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(一三節)と尋ねられました。人の子とは主イエスがご自身を指して使われる言葉です。人々の評価としては「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」「預言者の一人」だというものでした。預言者とは、神の言葉を預かって、それを伝える人のことです。特別な使命を与えたられた人かもしれませんが、いずれも人間です。主イエスのことを、人間であると評価をしているわけです。

続けて主イエスは、弟子たちにも同じ質問をされます。その問いに対して、ペトロが弟子たちを代表して答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(一六節)。場面としては、このような状況の中で、主イエスが教会を建てると言われたのです。ペトロのこのような告白をしたのを受けて、主イエスは教会を建てると言ってくださったのです。

今日の聖書の箇所の最初のところに、小見出しが付けられています。いつも申し上げていますが、小見出しは聖書にもともとあった言葉ではありません。その箇所のだいたいの内容が分かるように、付けられているものです。今日の箇所の小見出しは「ペトロ、信仰を言い表す」となっています。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(一六節)と言ったことが、信仰告白であるのです。人々は主イエスのことを正しく告白することができませんでした。ペトロは主イエスを正しく告白したのです。言い換えると、主イエスがどのようなお方であるのか、正しく分かっていたのです。ペトロは主イエスがメシア、つまり救い主であり、神の子であると正しく認識することができました。あなたは私を救ってくださる救い主なのだ。それがペトロの信仰であり、信仰の告白だったのです。

ペトロは正しく主イエスを認識し、告白することができましたが、主イエスは続けて言われます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(一七節)。ペトロは主イエスと共に長い間、一緒に歩んで、ようやく主イエスのことを正しく認識することができたのではありません。そうではない、と主イエスは言われます。ペトロ、あなたは信仰を告白することができた、私のことが救い主だと分かったかもしれないけれども、あなたにそのことを示したのは、私の天の父なのだと主イエスは言われるのです。

ここで「人間」という言葉が使われています。かつての口語訳聖書では「血肉」となっていました。元のギリシア語の言葉では「肉と血」という言葉です。人間に備わっているものです。ちなみに「シモン・バルヨナ」というのも、「ヨナの息子、シモン」という意味です。シモンというのはペトロの本名ですが、ヨナの息子であります。お父さんのヨナという人から、いわば「血と肉」を受け継いだのです。

しかし主イエスは、人間がいくら「血と肉」を受け継いだところで、正しく私のことを認識することができないと言われるのです。天の父が教えて下さらなければ、絶対に分からないと言われる。ペトロは主イエスと長い間、一緒に過ごしたから告白することができたと思われるかもしれませんが、そうではなく、父なる神が示して下さったから、正しく告白することができたのです。

教会は、この告白をする人たちのところに生まれるのです。私たちの教会もそうでありました。最初は聖書を研究していただけかもしれない。しかし主イエスのことが分かってくる。いや、自分たちで分かったというよりも、父なる神が私たちの教会の先達たちに示して下さった。主イエスがメシアである、それも私の救い主であるということが分かってくる。そうすると、信仰を言い表す人たちが現れます。そしてそこに、教会が誕生するのです。

今日の説教の説教題を「教会の門は天国への入口」といたしました。私たちの教会の門は、木にガラスのサッシが入れられている扉です。ガラスでありますから、閉じられていても中の様子が少し見えるかもしれませんが、日曜日などはなるべく開けておきたいと思っています。真冬は無理かもしれませんが、なるべく戸を開いておき、多くの方をこの門の中へと招きたいと思っています。なぜかと言うと、この教会の門が天につながっている、天国への入口だからであります。

主イエスは続けて一九節のところでこう言われています。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(一九節)。ヨーロッパを旅行すると、ペトロの絵画や彫刻をたくさん観ることになると思いますが、他の弟子たちと見分けがつきにくいこともあります。そんなときに、すぐに見分けることができる方法は、鍵を持っている人を探すことです。鍵を持っている人がペトロです。聖書のこの箇所に由来します。天の国の入口の扉の鍵がペトロに委ねられたわけですけれども、地上でつなぐことが天上でもつながれ、地上で解くことが天上でも解かれると言われています。

つなぐ、解くというのはどういうことでしょうか。つなぐというと、紐のようなものを結ぶというイメージがあると思います。言い換えると縛ることです。束縛することです。束縛してできないようにする、つまり禁止することを意味しています。解くというのはその反対です。紐のようなものを解く。言い換えると解放する、つまり許可するということになります。地上の教会で禁止されたり許可されたことは、天上においても有効であるのです。つまり、地上の教会でなされたことを、改めて天上において再び行う必要がない。教会でなされることが、そのまま天に直結している。だから「教会の門は天国への入口」という説教題も成り立つのであります。

教会が行う最も大切なことは、洗礼を授けることであります。洗礼を授ける式を洗礼式と言いますが、教会によっては洗礼入会式と言っています。洗礼を受けることによって、教会に入ることを明確にしている名称です。私たちの教会では洗礼式と言っていますが、教会に加えられることも大切にしたいと思っています。そして何よりも、単に地上の教会に加えられるだけでなく、教会は天国への門でありますから、天に加えられることであります。地上の教会で洗礼を受けた。教会に加えられた。そのことが天国に加えられたことに直結しているのです。教会があなたは教会の中に加えられたと宣言すれば、地上でなされることが天上でなされたことに等しいのですから、もう天国に加えられたことになるのであります。

今年のイースターに洗礼を受けられた方がありました。そして次のクリスマスの洗礼を目指しておられる方も与えられています。私が一緒に準備会をいたします。具体的には何の準備をするのか。それは信仰を告白するための準備です。先ほど、この礼拝の中でも使徒信条を告白しました。具体的には、使徒信条の学びが中心になります。使徒信条は父なる神、子なる神、聖霊なる神がどのような神であるかが告白されています。「あなたはメシア、生ける神の子です」、この信仰告白よりも少しボリュームのあるものになっていますが、ペトロの短い信仰告白をもう少し丁寧に言い表したのが使徒信条です。教会の歴史の中で、少しずつ発展していきました。ボリュームは少し違うかもしれませんが、本質的には同じ信仰の告白であります。

使徒信条の中で、主イエスが十字架にお架かりになり、陰府に降り、三日目にお甦りになったことが言われています。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しましたが、具体的にはどんなメシア、救い主なのかということが、使徒信条では丁寧に言い表されています。私たちの救い主は、私たちの罪のために十字架にお架かりになってくださったのです。罪と死に打ち勝ってお甦りになってくださった。このお方を信じることで、私たちの罪が赦されて、永遠の命が与えられます。ただこの救い主を信じる信仰によって、私たちは救われるのです。

主イエスは救いの「共同体」である教会を建てると言ってくださいました。救いの入口を用意してくださいました。私たちの教会も主イエスの宣言によって建てられた教会です。天国への入口があります。この入口から教会に加えられることが、天に加えられることになります。教会が罪の赦しを宣言すれば、私たちの罪も赦されるのです。それは天においても有効です。教会は天と地の結び目です。主イエスがメシア、救い主である、そのことを信じ、告白する群れである教会に私たちがいることが、私たちの確かな救いなのであります。