松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年12月25日(日)
説教題「神は我々と共におられる」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: マタイによる福音書 第1章18節〜25節

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

旧約聖書: イザヤ書 第7章14節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
神は我々と共におられる ( The Dream of St Joseph ) / ラ・トゥール (Georges de La Tour)

神は我々と共におられる ( The Dream of St Joseph ) / ラ・トゥール (Georges de La Tour)
ナント美術館 (Musée des Beaux-Arts)
ナント(Nantes)/フランス

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クリスマスを迎えました。教会では毎週日曜日、礼拝を行っていますが、今年は一二月二五日が日曜日になりました。ということは、今日はクリスマスであり、今年最後の礼拝でもあります。来週の日曜日はもう二〇一二年です。一月一日の元日の礼拝となります。そう考えますと、今日はクリスマスの祝いの礼拝でもあり、今年の五二回目の礼拝、つまり最後の礼拝にもなります。

年末ということもあって、年末ならではのニュースが私たちの耳に飛び込んできます。数週間前のことになりますが、今年一年を最もよく表す漢字が発表されました。今年は「絆」という文字でありました。震災がありましたから、「災」、「震」、「波」などのもっと悪い言葉になるのではないかという予想もありましたが、私たちの心を少しでも明るくするような言葉を選ぶという配慮もあったのでしょうか。「絆」という文字が選ばれました。

この絆という文字を表すかのような出来事ですが、先日、ニュースを観ていましたら、あるアンケート結果が発表されていました。それは、年末年始に何をするかということを聞いているアンケートです。その結果によれば、帰省をするというのが第一位であったようです。帰省をして、年末年始、家族と一緒に過ごす。多くの人がそう考えているようです。

また、先日、新聞を読んでいましたら、こんな記事が書かれていました。今年はおせち料理が大変よく売れているのだそうです。売れていると言うよりは、予約がたくさん入っているということですが、年末年始、家族で過ごす機会が増えるわけですから、おせちを予約しておく人が増えているのだと思います。この新聞の記事で初めて知りましたが、円高になると、おせちが売れなくなるのだそうです。円高になると海外旅行に安く行けるわけですから、海外に多くの人が出かける。そうするとおせちが売れなくなるわけです。今年は超円高と言われていますが、それにもかかわらず、おせちの予約が好調なのだそうです。これも絆を大事にしようとする人の表れかもしれません。

また、これは年末だけの話ではありませんが、震災後、まだ結婚をしていない人が、真剣に結婚を考えるようになったという話も聞きました。震災が起こったとき、家族のある人はすぐさま、実際に連絡が取れたかどうかは別にしても、安否を確認しました。ところが家族のない人は、安否確認をする必要がない。大きな災害が起こったときに、本当に心配し合える存在が欲しいという思いから、結婚を考える人が増えたというニュースも聞きました。

今年の一年間を振り返ります時に、日本の社会全体として考え方を変えざるを得ないような大きな出来事が起こりましたが、様々なニュースに見られますように、私たち個々の人にとっても、考え方を変えようと思った方も多いでしょう。ある牧師は、震災が起こってから、もっと真面目に生きようと思ったと話しています。もちろんそれまで不真面目だったというわけではなくて、自分の身近にある小さなものに目を留めて、真剣に生きようということでしょう。私たちも私たちの周りにある、ほんの小さなことも大事に受け止めたいと思います。

クリスマスの今日の日に、私たちに与えられた聖書の箇所は、マタイによる福音書の箇所になります。これもまた、一つの小さな家族の話であります。いや、すでに家族というよりは、これから家族になろうとしていたと言った方がよいでしょう。どこにでもいるような、ごくありふれた二人でありました。特に地位が高かったとか、偉かったとか、立派だったというわけではない。どこにでもいるような平凡な二人に起こった出来事であります。

いつもですと、松本東教会ではルカによる福音書から御言葉を聴いています。ルカによる福音書にも、マタイによる福音書同様にクリスマスの出来事が記されています。聖書の中で、クリスマスの出来事が記されているのは、マタイとルカの二つの福音書においてです。マルコによる福音書とヨハネによる福音書には記されていません。ただ、マタイとルカでまったく同じ書かれ方をしているかと言うと、そうではありません。マタイならマタイの、ルカならルカならではの書き方があるのです。

先々週の土曜日、こどもクリスマスが行われました。たくさんのこどもたちがこの教会に集まって、クリスマスの祝いをしました。こどもたちがクリスマスの劇を演じてくれました。そのクリスマスページェント劇ですが、劇の最初の場面はマリアのところに天使たちが登場する場面です。「恵まれた女よ、おめでとう!」。天使のその言葉によって劇が始まります。マリアは最初、そのことが分からなく「私には分かりません」と言うわけですが、最終的には「神さま、ありがとう」と言って、最初の場面が閉じられます。

この最初の場面は、聖書の記述とそっくりそのまま同じというわけではありませんが、ルカによる福音書の箇所が元になっています。ルカによる福音書に記されている受胎告知の話。天使がマリアのところに来て、救い主の誕生が予告される話です。この受胎告知の話もそうですが、ルカによる福音書はどちらかと言うと、マリアの角度からクリスマスの出来事を見ています。

これに対し、マタイによる福音書では、ヨセフの角度からクリスマスの出来事を見ています。今日の聖書箇所でも、天使がヨセフの夢の中に現れました。その後、ヨセフは二度にわたって夢を見ます。ヨセフが夢を見て、何らかのことを命じられて、ヨセフがその通りに実行していく。これが三度にわたって繰り返されます。今日の聖書箇所はその最初の夢です。マタイによる福音書はヨセフの角度から見たクリスマスの出来事なのです。

そんなこともあって、今日はヨセフからの角度を中心にして、クリスマスの出来事を味わっていきたいと思いますが、ヨセフが夢の中で天使から知らされたことは、自分の婚約者であるマリアが妊娠しているということでありました。もちろん、ヨセフには身に覚えのないことであります。これから結婚をしようとしている、ごくありふれた、平凡な二人に、とんでもない出来事が起こったのです。ヨセフとマリアのそれぞれに、別々の仕方で、とんでもない話が飛び込んできたのです。

とんでもない話と申し上げましたが、本当にとんでもない話でありました。結婚前に他人の子を身籠ってしまう、当時の法によると、石打ちの刑で殺されてしまう可能性がありました。だからヨセフは「表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(一九節)のであります。また、誰の子だか分からないのに、自分がその子の父親になることもできませんでした。ヨセフは「正しい人」(一九節)だったからです。ですから、ヨセフにできる最良の選択は、ひそかに縁を切ることだったのです。

そのようにしようとしている時に、ヨセフは夢を見ました。マリアの子は「聖霊によって」(二〇節)、つまり神の力によって宿ったことを知らされました。「イエスと名付けなさい」(二一節)とも言われました。実際にヨセフは、その夢で天使に告げられた通りに行動していったのです。

皆さまはこのヨセフという男に、どのような印象を持たれるでしょうか。強くて勇ましいなどとはあまり思わないと思います。マタイによる福音書のクリスマスの話は、ヨセフが中心になって書かれていると申し上げましたが、そうは言ってもヨセフの言葉はまったく記されていません。三度にわたって夢を見ていますが、沈黙を貫いて、言われた通りにそのまま実行しているだけです。

マタイによる福音書のこの箇所もヨセフは沈黙していますが、聖書全体でもヨセフの言葉はまったく記されていません。母マリアの言葉はクリスマスのときも、その後も何度か記されていますが、ヨセフの言葉は皆無です。言葉どころか、その存在すら忘れられてしまったかのようです。母マリアは主イエスの十字架のときも傍らにいたことが記されていますが、父ヨセフのことはまったく記されていません。主イエスの十字架の時にはすでに亡くなっていたのかもしれませんが、いつ亡くなったのか、それすら聖書には記されていません。

またこんな出来事もありました。あるときに、主イエスが成人してからのことですが、礼拝が行われる会堂の中で、主イエスが聖書の言葉を読まれ、みんなの前で話をする機会がありました。その話を聞いた者たちは、主イエスの口から出る恵み深い言葉に驚いて、こう言いました。「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ四・二二)。もしもヨセフが立派な人だったら、あのヨセフにしてこの子あり、ということになったでしょう。親が立派だから、子も立派なのだ、ということです。しかしそうではなく、あのヨセフの子に過ぎないのに、なぜこのような立派なことを語ることができるのかと、人々は驚き怪しんだのです。

このように考えますと、ヨセフは実際のところ、あまりパッとしない男だったようです。強く勇ましい父親であるというよりは、何事に対しても受け身で、どちらかと言うと弱い父親であったようです。聖書の中でも、発言することが許されておらず、その存在もやがて忘れられていくような人だったのであります。

私がこの説教の準備のために読みました一冊の本があります。竹下節子さんという方が書かれた『弱い父ヨセフ』(講談社選書メチエ)という本であります。竹下節子が書いたこの本は、文化や歴史的な側面からヨセフのことを綴っているものです。私が普段の説教準備のために読む本とは少し特色が違うかもしれませんが、ヨセフのことに関して多くを学ぶことができました。

カトリック教会では洗礼を受けるときに、洗礼名を付けます。自分がこれから信仰の歩みをしていくのにあたり、自分の導きになるような人を選んで、その人の名前を付けるのだと思いますが、昔はヨセフという洗礼名を付ける人はほとんどいなかったようです。一四世紀にカトリック教会の中心である教皇庁から出された手紙を調べた人がいます。全部で一五万通の手紙にあたったようですが、その中でヨセフという名前の人に宛てて書かれた手紙は、わずか一〇通だけだったようです。この時代はほとんどヨセフに対する人気はなかったのでしょう。

聖書の中でもその存在が消えていき、教会の歩みが始まってから、一千数百年にわたってほとんどスポットライトを当たられることのなかったヨセフでありますが、近代になって、だんだんとヨセフのことが再認識されるようになったようです。一八七〇年一二月八日、当時のローマ教皇であったピオ九世が、ヨセフのことを「守護聖人」であると宣言しました。ピオ九世は「聖ヨセフこそが現代社会の救済だ」と言ったそうです。忘れ去られたはずのヨセフが、現代においてはとても意味のある存在になったのです。なぜでしょうか。

竹下節子さんも書いていることですが、ヨセフという人は父の匂いがします。家庭の匂いがします。主イエスと母マリアと父ヨセフという家庭の中で、最も目立たないかもしれませんけれども、悩んだり苦悩したりしながら、父としての役割を果たした人です。雄々しく勇ましくありたい人ならば、ヨセフという洗礼名など絶対に付けないでしょうけれども、新たな父親像を探る近代や現代においては、ヨセフに魅力を感じる人が増えたのかもしれません。

ヨセフはなぜこのように受け身でいることができたのでしょうか。本人の性格的なこともあったでしょうけれども、果たしてそれだけでしょうか。本日、私たちに与えられた聖書箇所では、ヨセフは夢で言われた通りに実行しています。しかし、この福音書を記したマタイは、ただそのことだけを書いたのではなくて、間でコメントを書いています。二二節と二三節のところですが、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(二二~二三節)。ヨセフの夢は、二一節のところで終わっています。そして夢から覚めた後のことは、二四節以降のところです。つまり、この二二~二三節は、マタイが記したコメントになるわけですけれども、ヨセフもこのことを気付いたかもしれません。

本日、合わせて旧約聖書のイザヤ書の箇所を朗読いたしました。二三節の言葉とほとんど同じです。それもそのはずで、古くに書かれた聖書の言葉が、今ここに実現したとマタイは書いたのです。ヨセフも聖書に親しんでいたはずです。ヨセフは正しい人であったわけですが、これは聖書の言う正しさです。神の言葉に従って生き、聖書にも親しんでいたはずです。夢の中で言われたことが、聖書のイザヤ書の箇所にあると思ったかもしれません。

「インマヌエル」と呼ばれる。マタイによる福音書でも、イザヤ書でもその名を告げています。これは二三節に記されている通り、「神は我々と共におられる」という意味です。私が牧師なることを志し、神学校に入学しました。そしてそこでの学びを終えて卒業するときに、卒業生全員に対して教授たちからの寄せ書きが贈られました。

今でも私の書斎に飾られていますが、旧約聖書のある教授が寄せ書きの言葉として、「インマヌエル」という言葉を書いてくださいました。旧約聖書の元の言葉であるヘブライ語の原語で書いてくださったのですが、その下に続けて日本語でこのように書かれていました。「この約束こそ、伝道者を根拠づける福音です」。つまり、このインマヌエルという約束があるから、あなたたちは伝道者としてやっていけるのだ。だからこの約束を信じて精いっぱいやりなさい、ということでしょう。

このインマヌエルという約束は、何も伝道者だけに限ったことではありません。ヨセフにとっても、マリアにとっても、またすべての者にとっても、これ以上はない大きな約束です。ヨセフもこの先どうなるかよく分からなったでしょう。これからの生活に不安を抱いたでしょう。実際に次の夢を見たときに告げられたことは、幼子の主イエスと母マリアを連れて、エジプトに逃げなさいということでした。不安な状況の中でも、ただ一つの福音がインマヌエルということだったのです。受け身のヨセフにとって、とても大きな約束の言葉になったと思います。

その名はインマヌエル、一方ではこのような名前が与えられ、他方では「その子をイエスと名付けなさい」(二一節)と天使から命じられました。同じことをマリアも天使から命じられていました。実際にヨセフとマリアは、言われた通りにイエスという名前を付けたのであります。

イエスという名は、「主は救い」という意味のある言葉です。当時の名前としては、ごくありふれた名前であったようです。旧約聖書にヨシュア記という聖書の箇所があります。この人はエジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民のリーダーになって、エジプトの地から人々を導いてきたモーセの後継者になった人です。このヨシュアをはじめとして、イスラエルにはヨシュアと名が付いた人がたくさんいたようです。このヨシュアという名前を、ギリシア語の読み方にすると、イエスになります。つまり、インマヌエルなる救い主が、ごく普通の名前が付けられて、私たちの間に生まれてくださったのであります。

ある説教者が、「どの父親と母親でもするような、子に名前を付けるということをここでもさせてくださっている」と言っています。世界の救い主がお生まれになった、私たちの救い主がお生まれになった、だからもっと華々しくお生まれになって下さってもよさそうなものです。普通の人間とは違うような仕方でお生まれになれば、もっと人々の目に留まったかもしれません。しかし神はごく普通の、どこにでもいるようなヨセフとマリアを用いて、誰にも目を留められないようなところから、救いの出来事を行ってくださいました。

今日、私たちに与えられた聖書箇所は、ヨセフにとってのクリスマスの出来事でありました。神がヨセフのところを訪れてくださった。このヨセフのように、そしてまたマリアのように、神は私たちの日常の中に入り込んで来られます。私たちがごく普通だ、ごく平凡だ、あまりパッとしないと思っているところに、神が訪れてくださいます。私たちのごくありふれた日常的な営みの中に、神が入り込んでくださる。そして神の出来事が行われます。私たちがそのために用いられます。ヨセフとマリアのように、皆さまのところにも神の訪れがあり、今年のクリスマスがかけがえのないクリスマスとなりますように!