松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年10月6日(日)
説教題「教会の基礎固め」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第9章19b〜31節

 サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。
かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。
サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

旧約聖書: ヨシュア記 第2章1〜24節

新約聖書の使徒言行録から御言葉を聴くのは、久しぶりのことになります。今年の五月から、使徒言行録の最初から少しずつ区切りながら、御言葉を聴いてきました。三週間前になりますが、今日の箇所の直前にあります使徒言行録第九章から御言葉を聴きました。先々週は逝去者記念礼拝、先週は私は別の教会に出掛けていましたので、間が二週間空きました。使徒言行録から御言葉を聴くのは三週間ぶりになります。

今日は第九章でありますが、ここまで使徒言行録から御言葉を聴いてきて、使徒言行録の特徴を少しずつ把握できるようになってきた方もおられるでしょう。使徒言行録には、二千年前の最初期の教会の様子が記されています。もし使徒言行録がなかったとすれば、その頃の私たちの知識はかなり乏しいものになっていたでしょう。それだけ生き生きと教会の人たちの様子を伝えてくれます。

使徒言行録は、あまり説明をしてくれません。事実のみを伝えていきます。こういう出来事があった。あんな出来事があった。そのように事実がそのままストレートに記されていきます。使徒たちに聖霊が降って外国の言葉で説教を語ったとか、生まれてこのかた足の不自由な人が癒されて歩けるようになったとか、主イエスが復活したということも、その事実を伝えているだけです。教会の迫害者だったパウロが、主イエスの声を聞いて目が見えなくなり、目からうろこのようなものが取れて見えるようになり、回心して伝道者になったとか、そういう事実を次々と記していきます。

本当かしら、と聖書を読んでいる人は思うかもしれません。しかし使徒言行録は、あまり合理的な説明はしてくれません。あまりどころかほとんどしてくれません。誰もが納得する説明や証明の類はないのです。主イエスが復活したということを使徒たちが宣べ伝えた。パウロが信じられないような仕方で回心した。ただその事実だけを伝えていくのです。

私がこのことに特に気づかされる出来事が先週ありました。先週の月曜日から火曜日にかけて、東海教区の伝道協議会が行われ、私はそこに出席をしてきました。伝道協議会ではまず開会礼拝が行われます。開会礼拝では、使徒言行録の第四章が取り上げられました。使徒たちが主イエスの復活を宣べ伝えている。しかし復活の説明をしているのではなく、復活の事実だけを伝えている。説教の中でそんなことが語られました。今、使徒言行録を連続して説教している私も、なるほどそうだと思わされました。

そしてその夜、伝道報告という時間がありました。別の牧師がご自分の伝道報告をしてくださった。今、伝道牧会にあたっている教会で、高齢者への伝道に関する話でありました。その話が終わって、最後にその牧師が祈りをされた。そして祈り終わって、すいません、もう一つ話したかったことを今、思い出したので話をさせていただきたいと言われ、話を再び始められました。

その話とは、開会礼拝を受けての話でありました。開会礼拝で、使徒言行録は事実のみが伝えられている、そういう話でありましたが、この牧師はこんな話をされました。数字は正確ではないかもしれませんが、こんな話です。自分が今の教会に赴任して、十年と少しが経った。自分が赴任してから、教会で逝去された方が三十数人おられる。また、教会の籍を別のところに移した転出者が十数人おられる。合計すると五十名以上です。赴任した当初、教会のメンバーはおよそ五十人。つまり、ここ十年で数字上はゼロになるということになります。しかし現時点での事実はどうか。現時点でもやはり五十名ほどのメンバーがいる。そんな事実がある。そんな話でありました。

この事実をどう受け止めるかということが問われるのです。五十名いて、五十名がいなくなったけれども、別の五十人がどこから降って沸いたように現れた。そんなのは偶然そうなったと片付けるのか。それとも、この事実を神が新たに五十人を与えてくださった事実として受け止めるのか。事実の受け止め方に、私たちの信仰がかかわってくるのです。

このことは、私たちに信仰にとって大事なことであると思います。私たちの身近には、様々な出来事が起こっています。過去に起こった出来事がある。現在、起こっている事実がある。将来はどのようになるかは分かりません。少なくとも、過去と現在のことは私たちには分かるわけです。それをどう受け止めるか。

先日、ある方と話していたときに、信仰者は前向きに物事を受け止めるのですね、と言われていましたが、まさにその通りです。信仰を持っていても、持っていないとしても、いろいろな出来事が起こります。それは変わりません。しかしその受け止め方が変わってきます。神がおられ、過去に起こったことと今起こっていることは、何らかの意味があるのではないか。これからも神がよきように導いてくださるのではないか。それが信仰です。

それに対し、神などいない。偶然、たまたま、過去にも現在にもこんな出来事が起こった。将来もどうなるか分かったものではない。神になど頼らず、自分でなんとかしなくては。そういうように受け止めるのは、信仰を持たない者の考え方です。同じ出来事が起こったとしても、受け止め方がまるで変ってくるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所に書かれていることも、このことと同じことが言えるだろうと思います。今、目の前で起こっているこの出来事をどう受け止めるか。ここに出てくる人たちはそのことが問われていたのです。

サウロという名前になっていますが、後にパウロと呼ばれる人です。パウロはかつて教会の迫害者でした。それが、第九章の最初のところで、主イエスに出会い、一八〇度方向転換をして回心します。今やパウロは教会の伝道者です。そしてパウロが何をしたか。二〇節にこうあります。「すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。」(二〇節)。人々はこの事実をどう受け止めたのか。これは一体どうしたことかと多くの人々は驚き怪しんだのです。あのパウロという男は、教会の迫害者だったのに、今や伝道者となってしまった。人々はその事実を受け止め損ねてしまいました。パウロに陰謀の手が伸びてきます。殺されそうになる。そこでパウロは、ヨシュア記にも記されている昔ながらの方法で、夜の間に町の城壁づたいに逃げなければなりませんでした。

他方で教会の人たちはどう受け止めたのでしょうか。二六節にこうあります。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」(二六節)。無理もないことだったと思います。あの恐ろしい迫害者のパウロが、自分たちのところに来ている。しかも驚くべきことに、教会の仲間に加えて欲しいと言っている。これは一体どうしたことかと思ったでしょう。スパイではないかとか、信じているふりをしているとか、新手の迫害方法かもしれないと思ったのかもしれません。教会の人たちも、最初はパウロが回心したという事実を、なかなか受け止めることができませんでした。

しかしそこでバルナバという人物が登場しています。このバルナバが執り成しをして、助け舟を出してくれました。バルナバが言っていることは、二つの事実です。パウロが主イエスに出会ったこと、そしてダマスコで大胆に宣教をしたこと。その二つです。事実をそのまま伝えます。ついでに申しますと、バルナバという人は、その後、パウロと同労者になりました。一緒に伝道をすることもあったのです。バルナバという名前には、慰めの子という意味があります。パウロはどちらかと言うと、気性の激しい人であったようです。バルナバはおそらく冷静なところがあったと思います。同労者として、補い合えるような二人だったのでしょう。

話しを元に戻しますと、教会の人たちはバルナバから知らされた事実を加えて、判断しなければなりませんでした。パウロが回心したらしい。主イエスと出会ったらしい。ダマスコで大胆に宣教したらしい。そして今、教会に加わることを求めている。判断を迫られました。その結論が、二八節に記されています。「それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。」(二八節)。教会は様々な事実をもとに、パウロを受け入れたのです。

私はこの聖書の箇所を読むと、教会の長老会で行われる試問会を思い起こします。試問会というのは、洗礼を志願されている方への面接のときです。長老会で行われます。試問会が行われるのは、洗礼式が行われる一週間前です。この人に洗礼を授けてよいか。言い換えると教会のメンバーに加えられてよいか。そのことを牧師も長老も判断しなければなりません。

何をもって判断するのでしょうか。受洗志願者が最初に教会に来たときは、何気ないきっかけだったかもしれません。しかし礼拝に出席していくうちに、十字架にお架かりになって死なれた主イエスが救い主であると信じるようになる。だんたんその思いが高まり、洗礼を受けることを求めるようになる。そして牧師と学びを続け、その思いが深まり、受洗志願者となり、試問会に臨むようになります。「なぜあなたは信仰を持つようになったのか。合理的に説明してください」と長老が質問したら、受洗志願者は困ってしまうと思います。「わたしの心にそのような思いが与えられたのです」としか答えようがないと思います。

長老会は判断をしなければなりません。以前はまだ信じていなかった。けれども今は信じている。その事実をどう受け止めるかです。神がこの人に信仰を与えてくださっている。長老会もそう信じて、洗礼を授けることを決めます。本日、私たちに与えられた聖書箇所に書かれていることも、同じことであります。

パウロは教会に加わるということを、とても大切にしています。今までは迫害者でしたから、当然ながら教会に加わることの困難が予想されます。教会に行っても相手にされないのではないか。加えられる可能性などないのではないか。そうパウロは思っていたかもしれません。しかしそれでもパウロは教会を求めた。パウロは信仰を得て、根無し草になろうとしたのではないのです。一匹狼でもなく、一人で伝道をしようとしたのでもありません。教会にきちんと根ざすことを求めた。教会はパウロに起こった出来事を、神がしてくださった出来事だと信じ、パウロを教会に加え入れたのです。

今日の聖書箇所の最後の三一節にこうあります。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」(三一節)。この箇所もまた、事実をそのまま告げている箇所です。教会に平和、かつての聖書の言葉では平安ですが、平和、平安があった。教会の者たちは主を畏れていた。聖霊の慰めを受けていた。教会に与えられていた事実がそのまま書かれています。

あの迫害者であったパウロが回心をして伝道者になり、今や教会に加えられている。敵の中の敵だと思っていた人が、今や味方になっている。そういう事実がある。この事実をどう受け止めるか。人間の力によるものではないことは明らかです。神がそうしてくださったとしか考えられないことです。

迫害がこのとき少しは止んでいたのかもしれません。教会に平和があった。パウロを回心させてくださる、そんなことをしてくださった神への畏れがあった。聖霊による慰めがあった。そのような事実を、使徒言行録は数えあげているのです。

私たちのこの教会にも、また私たち一人一人にも、それぞれいろいろな出来事が起こります。過去に起こったこと、現在起こっていること、これから起こっていくこと、いろいろな出来事があります。私たちにとって良い出来事が起ころうとも、悪い出来事が起ころうとも、主イエスを救い主と信じている私たちは前を向いて歩むことができます。なぜなら、主イエスが私たちの罪を背負って十字架にお架かりになり、私たちの罪を赦してくださったからです。神がそのように救いの道を用意してくださった。だから、あらゆる出来事を、私たちは神を信頼して受け止めることができるのです。