松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年8月25日(日)
説教題「キリストに倣いて」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第7章54節〜8章3節

 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。

旧約聖書: 詩編 第31編2〜7節

今月の八月七日から八日にかけて一泊二日で、こどもの教会の夏期キャンプが行われました。この夏期キャンプではいろいろなことを行いますが、一番のメインは劇を行うということです。毎年、テーマと聖句を決めます。今年のテーマは、「聖書、わたしたちを命に導く神のことば」というテーマでした。このテーマをもとに、どの聖書箇所がよいだろうかということを検討しましたが、今年は主イエスの種を蒔く人の譬えを聖句に据えることにしました。その聖句をもとに、こどもたちが楽しく、内容のある劇をしてくれました。

主イエスはたくさんの譬え話をお語りになってくださった方です。真理をそのままずばりと語られたのではなく、多くの譬えでお語りになってくださいました。譬えであるがゆえに、どれも私たちの想像力を膨らませる、とてもイメージ豊かな譬えになっています。この種を蒔く人の譬えもそうです。

この譬え話では、四つの土地に蒔かれた種が語られます。良い土地以外に蒔かれた種は、実を結ぶことなく枯れてしまいます。しかし良い土地に蒔かれた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結びます。このように多くの実を結ぶことになる種ですが、よく考えてみると、その種は蒔かれたからには、種自体としては死ななければなりません。イエス・キリストもあるときこう言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ一二・二四)。

ここで言われている「一粒の麦」とは、イエス・キリストのことです。主イエスが十字架で死なれる。そのことを一粒の麦が地に落ちて死ぬ、と表現されているわけです。しかし死んで終わりではありません。多くの実を結ぶ結果となる。イエス・キリストの十字架の死とは、そういう結果をもたらすのです。

私たちもイエス・キリストを信じる者です。キリスト者です。イエス・キリストの十字架での死によって生じた、多くの実りのうちの一つです。私もそう。皆さまもそうです。そして、私たちが御言葉を聴き続けている使徒言行録に出てくる登場人物たちもまた、主イエスの十字架の実りなのです。今日の話に出てくるステファノもまたそうであります。

先週、私たちに与えられた聖書の箇所は、この一つ前のところです。裁判の席での話です。ステファノが無実の罪で訴えられてしまいました。その訴えに対して、ステファノに弁明をする機会が与えられました。ステファノはそこで説教を語ります。先週はずいぶんと長い箇所の聖書朗読をいたしましたが、使徒言行録第七章二節から五三節の終わりまでがそうです。

ステファノが説教で言っていることを、ここで繰り返すことはできませんが、要するにステファノが言っていることはこういうことです。神はかつて、モーセ、そしてその後も多くの預言者たちを、イスラエルに送り続けてくださった。しかしイスラエルの人たちは、その都度、神からの遣いを拒否し続けました。そしてついに神が独り子、イエス・キリストを送られる。しかしそのイエス・キリストも、イスラエルの人たちは十字架につけて殺してしまいました。その罪をステファノが指摘をします。はっきりと、遠慮することなく罪を指摘します。その結果、ステファノは人々の怒りを買い、殺されてしまうわけです。

イエス・キリストの十字架の際には、一応ではありますが、きちんと裁判の手続きが行われました。当時のユダヤ人たちはローマ帝国の支配下にありましたから、人を死刑に定めるためには、ローマの総督、ポンテオ・ピラトの許可が必要でした。しかしステファノの場合はどうでしょう。あまりにも大きな怒りを買ったのかもしれません。裁判も省略されてしまいました。そのまま、直ちに殺されてしまう結果になってしまいました。

その点はステファノと主イエスの違いが生じたかもしれませんが、ステファノの死は、どこか主イエスの十字架の死と似ている点があると思います。一体どんな点が似ているのでしょうか。いくつか指摘できると思います。

まずは一つ目、五九節のところで、ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(五九節)と言っています。今日の旧約聖書の箇所にも、同じような言葉が記されていましたが、主イエスも十字架にお架かりになった際に、最後の言葉として、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ二三・四六)と言われました。ステファノは主イエスの最後の言葉を思い起こして、同じように言ったのかもしれません。

二つ目に、六〇節のところで、ステファノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言っています。これと同じようなことを、主イエスも十字架の上で言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ二三・三四)。自分に手を降している者たちのことを覚えて、主イエスもステファノもこのような執り成しをしています。ステファノは主イエスに倣ったのだと思います。

三つ目に、主イエスは十字架で死なれ、墓に葬られ、陰府に降り、三日目に復活されています。ステファノも死んで、葬られました。「しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。」(八・二)とあります。ステファノは三日目に復活したわけではありませんが、主イエスの後をたどる者として、「眠りについた」(六〇節)とあります。復活したところまで同じとは言えませんが、少なくとも、殺されて、葬られたところまでは主イエスと同じです。

今日の聖書箇所は、ステファノの死の場面ですが、このように主イエスと似ているところがあります。ステファノが真似たのです。もちろん、ステファノは死のときだけ主イエスの真似をしただけではなく、すでにキリスト者になったときから、主イエスを真似て歩んでいたのだと思います。そうでなければ、最期の時にそのような言葉など出て来ないと思います。

キリスト者は主イエスを救い主であると信じ、洗礼を受けた者です。洗礼を受けたからには、その人の生き方が変わってきます。洗礼を受けて何が変わるのか。いろいろな言い方をすることができますが、一つ言えるのは、キリスト者はイエス・キリストの真似をする者になる。聖書の言葉に照らし合わせて言うならば、イエス・キリストに倣う者になる。使徒パウロもこのように言っています。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(Ⅰコリント一一・一)。パウロはキリストに倣う者。パウロの手紙を受けた者たちはパウロに倣う者。そのようにして、皆がキリストに倣う者になっていくのです。

「キリストに倣う」、このことに関して、キリスト教会の二千年の歴史にわたって、いろいろなことが語られてきました。その中でも最も有名なのが、トマス・ア・ケンピスという人が書いた『キリストに倣いて』という本です。世界中で最もよく読まれた本はもちろん聖書でありますが、聖書に次いで読まれた本が、この『キリストに倣いて』という本です。

この本を書いたトマス・ア・ケンピスという人は、どういう人だったのでしょうか。この人は一三八〇年頃に生まれたと言われています。一四七一年まで生きましたから、九二年の生涯ということになります。そのうち、七一年にわたって、修道院で生活をした人です。この著作を完成させたのが、彼が六一歳の頃であると言われていますが、三〇年ほどの歳月をかけて、この本を執筆していきました。

この本にどういうことが書かれているのか。基本的には、修道での生活の心得が書かれています。たくさんの短い章から成る本になっていますが、章ごとに見出しが付けられています。「修道院の生活について」というような見出しもありますし、「私たちは自己を捨て、十字架によってキリストにならうべきこと」というものや、「この世では誘惑から無事であることはできないこと」、「他人の欠点を堪え忍ぶべきこと」というものまであります。修道生活に限定されるものではなく、キリスト者としての生き方全般に及んでいます。だからこそ、聖書に次ぐベストセラーになったのだと思います。

このようにいろいろなことが書かれているわけですが、トマス・ア・ケンピスは、結局のところ、この本で何を書きたかったのでしょうか。この本を日本語に訳した訳者が、このように解説をしてくれています。「本書が人間の書いた書物の中で最も美しい書物であると評せられているのは、それが聖霊の絶えざる導きによって書かれたことを示唆するからである。トマスがここで語ろうとしたのは、神への畏敬の伴わない知の空しさと、神への愛のない生の空しさについてである。…〔そうではなく〕こころを天なる主に向けることが、トマスの本書を書いたいちばん深い願いであった。」(『キリストにならいて』、岩波文庫の訳者解説)。

心を高くあげよう。この言葉は、教会の長い歴史の中で、大事にされてきた言葉です。今日は歌いませんでしたが、讃美歌第二編の一番「心を高くあげよう」という讃美歌があります。この讃美歌は一節から四節までありますが、それぞれの最初に、「心を高くあげよう」と歌います。心を天に向けて、高くあげようという意味です。

教会の長い歴史の中でも、この言葉が礼拝で用いられてきました。最も古い記録は、三世紀のローマにおいて、司教であったヒッポリュトスという人が書いた『使徒伝承』という書物の中に記されています。礼拝で聖餐が行われるときに、このような言葉のやり取りがなされました。司祭が「心を高くあげよう」と言います。会衆は「私たちは主に心を向けています」と答えます。続けて司祭が「主に感謝をささげよう」と言います。それに対して会衆は「それはよいことであり、正しいことです」と答えます。そしてパンとぶどう酒の聖餐に与るのです。

このローマの司教であったヒッポリュトスという人も、やがて殉教することになりました。ステファノと同じです。ヒッポリュトスもステファノも、心を高くあげる人でありました。ステファノは石を投げつけられましたが、石を投げる人には目を向けなかったようです。「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。」(五四~五五)と記されている通りです。

ステファノとヒッポリュトスの中に、トマス・ア・ケンピスも加えることができます。トマスが『キリストに倣いて』の中で一番言いたかったことは、心を天に向けるということです。心を天に向けて、高くあげよう。心を天に向けると、それにふさわしい生き方になってくる。トマスはその考えを土台として、具体的な生活のことを書いています。

トマス自身が、『キリストに倣いて』の一番最初のところで、このように言っています。「私に従うものは暗(やみ)の中を歩まない、と主はいわれる。このキリストのことばは、もし本当に私たちが光にてらされ、あらゆる心の盲目さを免れたいと願うならば、彼の生涯と振舞とにならえと、訓(おし)えるものである。それゆえキリストの生涯にふかく想いをいたすよう、私たちは心をつくして努むべきである。…たとえ聖書のすべてを外面的に知り、あらゆる哲学者のいったことを知るとしても、神の愛と恵みがなければ、その全てに何の益があろう。…天国に向かうこと、これが最高の知恵である」。

心を天に向けること、このことはステファノも、ヒッポリュトスも、トマス・ア・ケンピスもしたことです。なぜそこまで天にこだわるのでしょうか。ステファノもヒッポリュトスも天に命を懸けて殉教した人です。トマスも殉教こそはしていませんが、やはり心を天に向けることには変わりはありませんでした。この三人だけでなく、代々のキリスト者もまたそうであります。なぜそれほど天にこだわるのでしょうか。

天とは私たちが死んだ後に行くところだから、そのように答えることももちろんできるでしょう。しかし理由はそれだけではありません。天は、今、イエス・キリストがおられるところだからです。

先ほど、使徒信条を告白いたしました。その中で、「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」と言います。使徒信条は、私たちキリスト者が信じていることが端的に表された言葉になっています。イエス・キリストが、天に昇られ、今、父なる神の右におられることも、私たちが信じていることの一つです。なぜ左ではなく右なのか。旧約聖書のいろいろなところに出てくる表現ですが、ある人の右にいるというのは、物理的なことよりも、その人と同じ権威を持っているということです。主イエスが天の神の右におられるというのは、神と同じ権威を持っているということになります。

主イエスが天におられることによって、私たちにとって、とてもよいことがたくさんあります。主イエスはもう時間や場所に拘束されることのないお方になりました。地上の生涯を歩まれたときは、二千年前のある期間だけ、イスラエルの地におられました。時間も地域も限定されていました。しかし天におられるということは、もうその限定は解除されます。ステファノも地上を歩みながら、天の主イエスとの交わりを得ました。私たちもそうです。主イエスはいつでも、どこででも、私たちとかかわりを持ってくださるお方になりました。地上にある私たちが、天におられる主イエスと共に歩むことができるのです。

私たちはこのような信仰に生きる者たちです。天に顔を向ける生き方をします。新約聖書の中で、最もよくこのことを表しているのは、次の箇所でしょう。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を惹かれないようにしなさい。」(コロサイ三・一~二)。地上を歩みながらも、その先の天を見据えての歩みを送ることができる。それが「キリストに倣う」生き方なのです。