松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年8月18日(日)
説教題「神に逆らう人間でも、神は愛される」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第6章1〜15節

 大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、 その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。
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旧約聖書: アモス書 第2章10〜12節

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、ステファノの演説が記されています。ステファノという人物は、先週の聖書箇所になりますが、教会の「食事の世話」(六・二)、つまり執事という職に任じられた人です。そのステファノが語った演説です。説教と言ってもよいかもしれません。

先ほど、聖書朗読をいたしましたが、ずいぶんと長く朗読をいたしました。聖書のページで言うと、四ページにもわたっています。使徒言行録の全体の二〇分の一のボリュームがあると言われています。通常の聖書朗読のボリュームから考えると、もう少し短くした方がよかったのかもしれません。もう少し短く区切って御言葉を聴くならば、より深く味わえるのかもしれませんが、説教には流れがあります。その説教を区切るのは、どうも水を差してしまうような気がしてしまい、結局、最初から最後まで読むことにいたしました。

ステファノの説教は、なぜこんなにも長くなっているのでしょうか。この説教の中で、何が言いたかったのでしょうか。今日は細部までこだわることはできませんが、まずは見通しをつけたいと思います。今日の聖書箇所の最初のところで、「訴えのとおりか」(七・一)と大祭司が言っています。ステファノが裁判にかけられて、訴えられてしまったのです。どういうふうに訴えられてしまったのでしょうか。

先週の聖書箇所になりますが、こうあります。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」(六・一三~一四)。訴えの内容としては二点です。「聖なる場所」、つまりエルサレムの神殿をけなしていること。もう一点は「モーセの慣習」、つまりモーセを通して神から与えられた律法を軽んじていること。この二点です。いずれもイスラエルの人たちにとっては大事な点でありました。

この訴えは、ある意味では当たっているところがありました。主イエスもこのように言われたことがありました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネによる福音書二・一九)。この言葉の真意が、続けてこのように記されています。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(ヨハネ二・二一)。主イエスのお体が十字架で架けられ、三日目に復活されることが、このように表現されているのです。

また、主イエスはあるときこう言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ五・一七)。主イエスのこれらの言葉と同じような発言をステファノもしたのかもしれません。しかしいずれにしても、主イエスもステファノも、エルサレムの神殿や律法を軽視したわけではありません。そうではなくて、今までにはない新しい理解を示したのです。けれどもその新しさが、多くのユダヤ人たちには理解されなかった。だからこそ、ステファノはこのようにして訴えられてしまったのです。

ステファノの説教は、この訴えられた内容に基づく説教です。まずステファノが語っているのは、旧約聖書の最初の方に出てくるアブラハムという人です。アブラハムを語り、そのひ孫のヨセフのことを語ります。このヨセフの頃に、イスラエルの人たちはエジプトへ移住しました。世界に食糧難が襲い、エジプトにはたくさんの食べ物がったからです。

エジプトに移住した頃、イスラエルの人たちはまだ小さな家族でした。「七十五人の親族一同」(一四節)と記されています。その少なかった人数が、やがてエジプトで増えていきました。エジプト人たちは脅威に感じます。このままでは乗っ取られてしまうのではないか。そう考えたエジプト人たちは、イスラエルの人たちを奴隷にします。そのようにして、エジプトでの奴隷生活が始まりました。

そこで登場したのがモーセです。二〇節のところから登場します。「このときに、モーセが生まれたのです。」(二〇節)。この節以降、モーセの生涯が長々と語られていきます。モーセの生涯は一二〇年です。その一二〇年は、四〇年ごとに三つに区切ることができます。ステファノの説教も、そのような区分になっています。モーセの生い立ちから最初の四十年が、二〇~二二節です。

そして「四十歳になったとき」(二三節)と記されていますが、この段落に書かれていることが、続く四十年の間で起こった話です。四十歳のとき、モーセはエジプト人から虐げられている同胞のユダヤ人を助けようとして、エジプト人を殺してしまいます。翌日、今度はユダヤ人同士の争いをモーセは仲裁しようとします。ところが「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか」(二七~二八節)と言われてしまいます。ユダヤ人から拒否されて、モーセは四〇年にわたって逃亡するのです。

さらに四十年経ったとき、つまりモーセが八〇歳になったとき、モーセがイスラエルのリーダーとして立てられることになりました。エジプトでの奴隷生活を抜け出し、故郷のイスラエルに帰るために、民を率いるリーダーです。けれども、リーダーとして、モーセは絶えず逆境に立ち向かわなければなりませんでした。「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」(三五節)と四十年前にも言われてしまいましたが、その後も同じような状況が続きました。「けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い」(三九節)とステファノが言っている通りです。

神がモーセをイスラエルの中にお立てになりましたけれども、イスラエルの人たちはその都度、受け入れることをしませんでした。ステファノは説教の結論部分のところでこう言っています。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。」(五一~五二節)。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所でも、預言者に預言することを禁じているイスラエルの人たちの姿が描かれていますが、神がモーセをはじめとする預言者たちを送ってくださったにもかかわらず、あなたがたイスラエルの人たちはいつも逆らったではないか。ステファノはそういうことを語っているのです。

もう一つ、ステファノが言っていることは、四四節以下のところです。エルサレムの神殿に関することです。エルサレムの神殿は、もちろん最初からあったわけではありません。モーセの時代、エジプトを脱出する旅をしていましたから、移動式のテントがありました。それが「幕屋」(四四節)です。時代が流れ、ダビデ、ソロモンという王さまが登場するようになります。ソロモンの時代に、ようやくエルサレムに神殿が築かれます。もちろん可動式ではなく、固定式の建造物です。一度、破壊されましたが再建されます。ステファノの時代に建っていたのは第二神殿です。

イスラエルの人たちは、目に見えるこの神殿に過度に依存しすぎているところがありました。けれどもステファノは、それは間違っている、と言っているのです。「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。」(四八節)。このようにイスラエルの過ちを指摘し、五一節以下の結論を言っているのです。

ステファノの説教は激しい説教です。厳しさがあります。説教を聴いている人たちの罪を、ずばりと指摘します。遠慮はしていません。なぜ、これほど厳しいことははっきり言うのでしょうか。ステファノは、来週の聖書箇所になりますが、石を投げつけられて殺されてしまいます。教会の最初の殉教者となるのです。しかし語る内容をもう少し考えれば、そのような結果は招かなかったかもしれません。

ステファノの説教で一つ特徴的なのは、「わたしたち」「あなたがた」という言葉が頻繁に使われているということです。説教の冒頭は「兄弟であり父である皆さん」(二節)という呼びかけになっています。それにすぐ続いて「わたしたち」という言葉が出てきます。この「わたしたち」という言葉は、その後も数回にわたり出てきています。最後に出てくるのは四四節です。「わたしたちの先祖は…」(四四節)。

ところが、これ以降はもう出て来ないわけですが、五一節のところにこうあります。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。」(五一節)。ここで言葉が変わります。「わたしたち」ではなく「あなたがた」です。ステファノは自分を含めないのです。「わたし」と「あなたがた」は違うと言うのです。区別をはっきりとさせるのです。

この区別とは一体どんな区別でしょうか。教会の人たちとユダヤ人たちとの区別と言ってよいでしょう。この区別は最初期の頃はまだ曖昧でした。最初の教会はユダヤ教の一派と考えられていました。しかしだんだんとそうではないということが内外にもはっきりと分かってきました。ステファノのその線引きははっきりとしています。

しかしもっとはっきりした線引きがあります。ステファノの説教が、かなり厳しく罪を指摘しているものであることを、すでに見てきました。問題はその罪をどうするかです。その罪を悔い改めるのか、それとも罪を悔い改めないのか、その線引きがかなりはっきりしているのです。

先週の木曜日は八月一五日でした。終戦記念日でした。一九四五年の八月一五日に戦争が終わって、それ以来、戦争をしていないので、この日が終戦記念日になります。新しく戦争を始めてしまえば、この記念日はなくなるわけですが、この終戦記念日をいつまでも終戦記念日にしなくてはなりません。

毎年、八月一五日に、全国戦没者追悼式というものが行われています。毎年、首相が追悼の言葉を述べていますが、今年の言葉には、アジア諸国への反省やおわびの言葉がなく、不戦の誓いという言葉もなかったことが、ニュースでも取り上げられています。どうやら、政治的な思惑があったようです。

今日の聖書箇所でステファノが言っていることも、過去をどのように受け止めるかということにかかわるわけですけれども、私たちの国が過去をどう受け止めて、将来につなげていけばよいのか、首相も追悼文の中で、ごく短くこのように述べています。「私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切り拓いてまいります」。どのように過去を受け止め、どのように未来を切り拓いていくのか、まったくよく分かりませんが、危惧を抱いておられる方も多いと思います。過去を悔い改めないところに、本当に未来があるのだろうかと思わされます。

最近では、日本が犯した過去の過ちを曖昧したり、開き直ったりするような発言も見られるようになりました。スピード違反をしたのは日本だけではない。世界各国もしているではないかというような発言です。そんな発言をして、世界からますます白い目で見られてしまう。そんなところに本当の未来があるのだろうかと思わされます。

しかし聖書では、こういう考えとはまったく別の考えをしています。聖書が一貫して、はっきりと言っていることがあります。それは一つには罪の指摘です。聖書は遠慮をしません。ステファノの説教もそうです。罪をはっきりと言う。神が何度も預言者を送ったのに、その都度、預言者を拒否してしまう。ついに神の独り子、イエス・キリストが送られたのに、イエス・キリストまでも十字架につけて殺してしまう。その罪を曖昧にはしません。日本人は水に流すという言葉が好きですが、聖書はそうではありません。水に流したとしても、また水に流さなければならないような事態が生じてしまうからです。罪をはっきり指摘すること、それが聖書の一つの特徴です。

しかしもう一つの特徴があります。過ちを犯すのは、人間である以上、誰もが避けられないことです。人間は皆、罪人。しかしその罪をどうするのか。人間としての生き方が問われることです。そして聖書は、罪を悔い改めよと言います。旧約聖書の言葉では、立ち返れと言われていますが、本質的には同じ意味です。悔い改めよ、立ち返れ。罪を悔い改めるのか。それとも悔い改めないのか。そこに「わたしたち」と「あなたがた」の違いが生じるのです。

神は正しいお方です。神は罪を曖昧のままにしておかれません。曖昧にしてうやむやにしてしまうのも、一つのやり方と言えばそうかもしれませんが、それでは何の解決にもなりません。罪は必ず裁かれなければならない。別の言葉で言えば、罪は罪として処理されなければなりません。そうでないと、罪がなくなることにはならない。罪を放置することや水に流すことは、結局、誰のためにもならないことなのです。

神は人間の罪を裁くために、処理するために、どのようにされたか。人間が罪を犯したのですから、人間自身に裁きを下すというのが、最も筋の通ったやり方だったと思います。しかし神はそうはされませんでした。人間に罪の責任を負わせるのではなく、神の独り子、イエス・キリストに負わせられました。それがイエス・キリストの十字架です。聖書が強調しているもう一つのことは、イエス・キリストによって、私たちが赦されるということです。つまり聖書は、人間の罪を厳しく指摘しますが、悔い改めよ、イエス・キリストによる赦しがある、そのことを私たちに伝えているのです。

今日の聖書箇所には、ステファノの説教が記されています。七章の最初のところに小見出しがありますが、ここにも「ステファノの説教」と記されています。しかし一つの疑問があります。本当にこれが説教に値するのでしょうか。イエス・キリストが出て来ていないからです。来週の聖書箇所には出て来ていますが、今日の箇所では出てきません。

説教とは、聖書の説きあかしです。罪の赦しの宣言だと言う人います。それに対して、ステファノの説教は罪の赦しの宣言どころか、ユダヤ人たちの罪を断罪して終わっています。あなたがたは逆らっている、で終わっているのです。もしかしたらステファノは、この後、さらに説教を続けるつもりだったのかもしれません。イエス・キリストによる赦しと悔い改めを告げるつもりだったのかもしれません。しかしその前に、反感が極みに達してしまい、石を投げつけられてしまったのかもしれません。そのように考えている説教者もいます。

真意のほどは分かりませんが、いずれにせよ、教会の説教が私たちに告げているメッセージは、罪の赦しです。その宣言です。イエス・キリストによる赦しがある、だから悔い改めよ、聖書はそう私たちに告げます。悔い改めない「あなたがた」になるのではなく、悔い改める「わたしたち」に加わりなさい。「わたしたち」の教会に加わりなさい。そう告げるのです。これが私たちを救う道です。私たちばかりでなく、この国も、この世界も、本当に救われる道がここにあるのです。

神は何度も繰り返し預言者を送って遣わしてくださいました。ついには神の独り子、イエス・キリストをお遣わしくださいました。その結果がイエス・キリストの十字架の死です。神は私たちのことを決してあきらめることはなさいません。私たちを取り戻すために、情熱を注ぎ、罪を赦し、悔い改めの道を切り拓いてくださいました。神の痛いほどの愛が注がれています。この神の愛を信じるか、私たちに問われているのは、そのことです。神の愛に応え、悔い改め、罪を赦していただく。そのことが私たちを本当の正しい道へと導くことなのです。