松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年8月11日(日)
説教題「賜物を生かす交わり、教会」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第6章1〜15節

 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

旧約聖書: 民数記 第27章18〜23節

松本東教会では、使徒言行録から御言葉を聴き続けています。五月から始めて、今日は第六章に入りました。この章から、使徒言行録は新たな展開を迎えます。どういうところが新たなのか。本日、私たちに与えられた箇所に、「十二人」(二節)とあります。これは言うまでもなく十二使徒のことです。特にペトロを中心とする十二人が教会の働きを担ってきました。

ところが、本日、私たちに与えられた箇所以降、十二人以外の活躍が目立ってきます。今日の聖書箇所で七人の人が選ばれていますけれども、その先頭に出てくるステファノは、来週以降も引き続き登場します。二番目のフィリポも、この後、まもなく登場します。そしてこの七人以外に、使徒言行録の後半に活躍するのは、あのパウロです。もちろん、この後も十二人のうちのペトロなどは登場しますが、だんだんと影が薄くなってきます。今日の聖書箇所は、使徒言行録で一つの転換点となっている箇所と言えるでしょう。

今日出てくる七人は、どんなふうに登場してくるのでしょうか。それは、教会の中にある問題が生じてきたからです。教会はこのときすでにかなりたくさんの人たちが集まるようになっていました。いろいろな人たちがいます。「ギリシア語を話すユダヤ人」、「ヘブライ語を話すユダヤ人」(一節)と記されています。同じユダヤ人でも、話す言語が異なるグループが存在していたようです。

ユダヤ人たちは、もちろんイスラエルの地にも住んでいたわけですが、様々な事情から外国に住んでいる人たちも多くいました。外国暮らしが長かった者たちが、故郷に戻ってくる。しかしその人たちは母国語のヘブライ語がほとんど話せません。当時は世界共通言語がギリシア語でした。ヘブライ語は話せないけれども、ギリシア語ならできる。そんな人たちがいたのです。ちなみに新約聖書も最初からギリシア語で書かれました。ユダヤ人だけでなく、世界のみんなに信仰を伝えるためにです。この事実からも、いかにギリシア語が世界中に広がっていたかが分かります。

このように、教会内にも違うグループの人たちが混在していました。母国語を話せるユダヤ人と母国語を話せないユダヤ人との間に問題が生じます。夫を失ったやもめが軽んじられていたのです。母国語をうまく話せずに、軽んじられていたのかもしれません。やもめは社会的弱者です。旧約聖書にも手厚く保護しなければならないと教えられています。しかしそれが起こったのが教会内であった。教会内でそのような問題が生じてしまったのです。

教会は信仰者の集まりです。信仰を持って教会生活をしていれば、教会には何の問題ももめ事も生じないと思うかもしれません。しかしそんなことはないのです。聖書は人間をそんなに楽観的には見ません。人間は罪人です。人を傷つけ、人から傷つけられます。神にも人にも負い目を持って生きています。聖書ではそんな人間を罪人であるとはっきり言います。その人間の集まりが教会です。問題を引き起こすのも人間です。聖書は隠すことなく、はっきりとその事実を書きます。最初期の教会が、何の問題もない理想的な教会だったというのは幻想です。このような問題が生じていたのです。

しかしそこで大事なのは、どういうふうに問題を解決するかということです。教会として、何らかの手を打たなければならない。何らかの制度を整えていかなければなりません。先週、八月の第一週でありましたから、いつものように長老会が行われました。長老会では、最初に学びをしています。ここしばらく読み続けているのが、『教会と長老』という小さな本です。以前から、読み続けていましたが、長老会のメンバーが新しくなったということもあり、もう一度、最初から読み直しています。毎回、少しずつ読み進めていますが、先週読んだところは「教会の制度」というところでした。教会には制度があります。本日、私たちに与えられた聖書箇所にも制度が整えられていっていることが記されていますが、なぜ制度が必要なのかということが丁寧に書かれています。

教会の制度と聞くと、皆さまはどのように思われるでしょうか。制度というと、少し堅苦しいような思いを抱かれる方もあると思います。特に教会という所はそうかもしれません。信仰と聖書さえあればいいではないか。聖書を学び、礼拝し、そこに集まる人たちで親しくしていればそれでいいではないか。何も制度のような堅苦しいものを整えなくてもいいではないか。そのような考えもあるかもしれません。しかし、制度なしの教会ですと、すぐに不都合が生じてしまいます。

例えば、教会には教会員がいます。どうやったら教会員になれるのでしょうか。自分で名乗りをあげれば教会員になれるのでしょうか。それとも、みんなの前で自分の立派な信仰を表明して、それが認められれば教会員になれるのでしょうか。そうではありません。教会員になるために、洗礼を受ける、あるいは他教会から転入するわけですが、それにはきちんと手続きが定められています。制度が定められているのです。教会員ではなく、牧師の場合はどうでしょうか。どうやったら牧師になれるのでしょうか。私が牧師だ、そう名乗りをあげればよいのでしょうか。そうではありません。やはり牧師になるための手続き、制度もあるのです。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所には、制度が整えられていく話が記されています。問題が生じ、制度が整えられる、その流れがあります。まずは問題が生じます。やもめが軽んじられているという苦情が出る。そうすると、教会としては何らかの対処がなされなければなりません。対応を協議します。提案がなされます。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」(二~四節)。その提案が承認されます。「一同はこの提案に賛成し」(五節)と記されているように、全員が賛同したようです。七人が何らかの方法で選出されます。そしてその奉仕に当たるに際して、祈って手を置くということがなされます。

一つ一つの手順を踏んで、制度が整えられていく様子が分かると思います。ここでの奉仕者はやがて「執事」と呼ばれるようになります。日本の教会でも、比較的大きな教会などでは「執事」を立てている教会もあります。教会の役職の一つです。今日の話は、こういう制度が整えられていった話なのです。

言うまでもないことですが、制度を整えることが、主目的なのではありません。問題が生じてしまったときに、どのように解決するかが大事になるわけです。解決策はいろいろとあるはずです。しかしどの方法で解決したらよいでしょうか。何を基準とすればよいでしょうか。やはり絶対的な基準となるのは神です。神がどのような解決策をお望みになられているか、神が教会に何をせよと言われているか、そのことを絶えず問う必要があります。それを問いつつ、解決策を考え、制度を整えていく。

制度は人間が決めて、人間の手によって整えられているように見えるかもしれません。確かにその一面はありますが、それだけではないのです。自分たちがしていることは、果たして信仰的に正しいのだろうか。聖書的に間違っていないだろうか。そのことを絶えず問いながら、問題を解決していく。このことは教会だけでなく、私たち個人の場合でも同じです。信仰的に、聖書的に、そして神の前に一体何が正しいのか。このことが教会の判断基準であり、キリスト者の判断基準でもあります。

その結果、教会でこういうように対処しようということになる。教会でこういう人を立てようということになる。問題に対処するために、結果的に制度が整えられていくようになるのです。七節に「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」とあります。「こうして」というのは「そして」「そのようにして」ということですが、制度が整えられ、問題が解決し、教会が広がっていったのです。いつでも神の御心を問い、教会を整えていくのです。

このようにして、ステファノたち七人が、教会の特別な務めに立てられることになりました。ステファノに関しては、来週以降の聖書の箇所に話が続いていきます。そしてその後、二番目に名前が記されていますフィリポの話も出てきます。七人のうち、実際にその活躍が記されるのは二人だけですが、それぞれの人たちの働きが、教会内外でなされたのだと思います。

使徒言行録を読んでいますと、すぐに気が付くことは、次々と人が出てくることです。使徒言行録は何よりも人の働きが大切です。聖霊を受けた人たちの働きです。イエス・キリストを信じる信仰が伝えられてきます。人から人へと伝えられていくのです。聖書という書物があって、それを読んだ者に自動的に信仰が生じる話は一つも記されていません。

例えば、この後フィリポの話が出てきます。エチオピアの宦官に洗礼を授けますが、この人は馬車の中で聖書を読んでいました。ところがその内容が分からなかった。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」(八・三一)と言っています。フィリポに手引きを求め、フィリポが説教を語り、信仰が伝えられていくのです。人から人へ、伝わっていく。二千年経った今でも、そのことは変わりがありません。

ステファノたちはどのような人物だったのでしょうか。「評判の良い人」(三節)とも言われていますが「“霊”と知恵に満ちた」(三節)と記されています。さらに一〇節でも「彼が知恵と“霊”とによって語るので」(一〇節)と記されています。ステファノたちは優れた人物だったのでしょうか。なるほど、そうであるかもしれません。しかし聖書にはそのようには書かれない。「“霊”と知恵に満ちた」と記される。これは神からいただいた賜物です。賜物は神からの授かり物です。ステファノにはその賜物があったのです。

聖書は、一方では、人間を罪人であると考えます。しかし他方では、罪赦されて、神から賜物を与えられたとも考えます。教会で起こった問題の解決のためにどうするか。イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会に加えられ、罪を赦された者たちが用いられます。過ちを犯す人間です。罪人です。それゆえに、教会にも問題が生じることもありますが、その問題がやはり神から賜物が与えられた者たちによって解決されます。教会は罪人の集まりでもありますが、それ以上に、神からの賜物が与えられた者たちの集まりでもあるのです。その賜物が磨かれ、発揮され、用いられ、教会が整えられていくのです。教会とはそういうところです。

ステファノたちが立てられるとき、十二人の使徒たちは祈って、七人に手を置きました。手を置くという記述は、案外、使徒言行録に多く出てきます。使徒言行録だけでなく、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所にも出てきます。モーセからヨシュアへ、指導者の引き継ぎが行われます。任職をする際に、モーセの手がヨシュアに置かれます。

使徒言行録にも、同じような記述が記されています。例えば、パウロとバルナバの二人が職に任じられるときに、このようになされます。「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」(一三・二~三)。このように手が置かれたのは、パウロとバルナバに特別な務めが与えられたからだと思われるかもしれません。

しかしこのような記述もあります。「人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。」(一九・五~六)。特別な職に任じられる人たちだけではなく、洗礼を受けた者たちに手が置かれます。そうするとその人たちに聖霊が降る。それぞれに賜物が与えられる。皆が霊的な賜物をいただくのです。特別な人たちだけでない。教会に集っている私たち皆に、このような賜物が与えられているのです。

教会にはいろいろな人がいます。当時の教会もそうでした。御言葉を語る十二人の使徒たちがいます。食事の分配をする七人がいます。献金、献品をする多くの人がいます。それを受け取るやもめもいます。受ける人、与える人、管理する人、教える人、いろいろな人がいます。少し前に聞いた話ですが、受けるというのも立派な賜物です。若い頃は教会のために働いて、与えることには慣れているけれども、年老いて、受けるばかりになってしまい心苦しい。時々、そのような声が聞かれることがあります。しかしそのように思われている方は、ぜひ受け上手になっていただきたいと思います。受けることは、与える人を立ち上がらせることだからです。受ける人が誰もいなくなったら、与える人もいなくなるのですから。

受ける人も、与える人も、管理する人も、教える人も、皆が賜物の持ち主です。神から与えられた賜物です。それぞれの賜物が輝いている。喜びの教会生活がある。それが教会なのです。