松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年7月14日(日)
説教題「神を欺かない生き方」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第4章32節〜第5章11節

 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

旧約聖書: レビ記 第19章11〜12節

松本東教会では最近、使徒言行録を少しずつ区切りながら、御言葉を聴いています。こういう説教のスタイルを、連続講解説教と言います。連続講解説教として、毎週のように連続して一つの書から御言葉を聴くのか、それとも連続ではなく、毎回違う聖書の箇所から御言葉を聴くのか。どちらかだけが正しいやり方というわけではありません。

連続講解説教のメリットとしては、連続していますので、物語の流れをつかみながら、物語全体を味わうことができることがあると思います。反対にデメリットは、途中を飛ばすことができないということです。これは説教者にとってのデメリットと言えるかもしれませんが、この箇所はどうも説教がしにくい、何を語ったらよいのか分からない。そういう場合でも、連続に行わなければなりませんから、飛ばすわけにはいきません。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所も、多くの人が説教をしにくいと思っています。説教をするからには、この聖書箇所に書かれていることを説かなくてはならないわけですが、説く以前に、そもそも理解しがたいと思っている人が多いと思います。ある説教者が、半分冗談めいて、自分は使徒言行録から連続講解説教ができない、と言っていました。なぜかと言うと、今日の聖書箇所でありますアナニアとサフィラの話があるからだ、その人は苦笑しながら、そう言っていました。

説教者といえども、この箇所から説教するのに、多くの人が苦労をしています。皆さまも、説教をするということではなくても、誰かから聖書のこの箇所に書かれているアナニアとサフィラの話は一体どういう意味があるのか、そう尋ねられたら、おそらく困ってしまうと思います。なぜこの二人は直ちに息絶えてしまったのか。どんなところが悪かったのか。このようなことは今でも起こるのか。そんな質問攻めにあったら、誰もが困ってしまうと思います。

ここに書かれている話としては、とてもシンプルで分かりやすいと思います。アナニアとサフィラという人がいた。はっきり書かれていませんが、おそらく教会のメンバーに間違いないと思います。直ちに死ななければならないような悪い人たちだったのかと言うと、まったくそんなことはありません。むしろ、よいことをしようとしていた人たちでありました。

第四章の終わりのところに、バルナバという人が出てきます。「たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ―「慰めの子」という意味―と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフ」(三六節)。いろいろな情報が記されていますが、この人はその後、バルナバという名前で頻繁に登場します。パウロと共に、ユダヤ人以外の異邦人伝道に携わった人です。この箇所で、土地を売ってその代金を献げたことが記される。そして今度は自分の体を献げるようにして、伝道者になった人です。

このバルナバをはじめとして、何人かの人たちが、このように土地を売って、その代金を教会に献げるということが行われたようです。もちろん教会の全員がそうしていたわけではありません。自発的に、自由な思いからそのように行う人たちがいた。バルナバもその一人でした。アナニアとサフィラの夫婦は、そういう人たちが現れたので、それでは自分たちもやってみようと思ったのかもしれません。実際に同じことを行う。土地を売る。代金を得る。そこまではよかったのです。

この二人はバルナバの真似をして、土地を売って、その代金の全額を教会に献金をしたのかと言うと、そうではありません。代金の一部だけを献げました。一部だけにもかかわらず、それを全額だと偽ったのです。しかも二人で示し合わせて、そのことを行ってしまったのです。

アナニアとサフィラの二人は、私たちと遠い話ではないと思います。財産を売って教会に献金をする。そういう話は今でもないわけではありません。そのようになさる方もおられる。しかしそこまで大きな話ではなかったとしても、献金一つを献げる場合でも、この話と同じようなことが問われる可能性が大いにあると思います。果たして、私たちの献げ方が、アナニアとサフィラのようになってしまっていないだろうか。その問いから誰もが免れないと思います。

今日の聖書箇所で、「欺く」という言葉が何度か使われています。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。」(三節)。もう一つは続く四節の後半の箇所です。「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(四節)。献金は自由な思いから、喜んで、感謝して献げるものです。しかしアナニアとサフィラはこのとき、何らかの思いに囚われていました。おそらく、神の目よりも人の目が気になるということだったのだと思います。土地を売って、その一部だけを献げるのでも、十分、立派なことでした。この二人は全部を献げていないことが間違いだったのではありません。そうではなく、本当は一部しか献げていないのに、全部だと偽ってしまったことが間違いでした。そしてそれは、神を欺いたことだと言われてしまったのです。

私たちにも、思い当たるところがあると思います。本当に私たちは自由な思いから献げているか。何らかの思いに囚われていないか。人の目を気にしていないか。不自由なところがあると思います。神に欺くことなく献金を献げているか。神に後ろめたくなく生きているか。私たちもそのことが問われています。

今日の聖書箇所が私たちを困らせる最大の理由は、安心感がないからだと思います。なぜアナニアとサフィラが直ちに息絶えてしまったのか。その理由がはっきりしません。逆に、アナニアとサフィラに相対して立っているのがペトロです。ペトロはなぜ生かされているのか。ペトロは、ついこの前、主イエスが十字架にお架かりになったとき、見捨てて逃げてしまった男です。お前もあの男の仲間だろう、と問い詰められたとき、あの男のことなど知らないと三度も主イエスを否定してしまった。そのペトロの罪の方が大きかったような気がしないわけでもありません。なのに、なぜそのペトロが生かされているのか。その理由もまたはっきりしません。

アナニアとサフィラは、直ちに息絶えなければならないような、ある一線を越えてしまったと言えるかもしれません。しかしその一線が何であるのか、それもはっきりしない。言い換えると、どういう罪を犯したら死に至る罪で、どういう罪であれば死に至らない罪なのでしょうか。私たちもその明確な線引きを知りたいと願います。なぜ知りたいのかと言うと、安心したいからです。自分が大丈夫なのか、駄目なのか、はっきりと知って、大丈夫な領域の中に留まって、安心をしたいからです。

この聖書箇所を、多くの説教者が説教をし、多くの聖書学者が解説をしてきました。私もいくつかそれらを読みました。合理的な説明をしようとしている人もいます。アナニアとサフィラは、こういう理由から死んでしまったのだ。逆にペトロはこういう理由から死なずに済んだのだ。しかし私はそれらを読んでも、どうも説得された気がしませんでした。なるほど、アナニアとサフィラが死んでしまった理由は、今日の聖書箇所に書かれているように、聖霊や神を欺いたからだと言えると思います。そんなことをしてしまった罪によって息絶えたのだ。しかし、聖霊や神を欺くとは一体何か。どんなことをしたら、聖霊や神を欺くことになるのか。やはり分からないのです。

最も基本的なところに立ち返って、考えてみたいと思います。そもそも、人の裁きは神がなさることです。人間がすることではありません。そのことは、皆さんも納得していただけると思います。けれども、私たちは人間の領分を超えて、神の裁きの法則を知りたいと望んでしまいます。罪の色分けをしたがるのです。この罪は、限りなく白に近い罪、赦される罪だと判定したい。この罪は、限りなく黒に近い、だから赦されないかもしれないと判定したい。この罪は、完全に黒の罪、絶対に赦されることはないと判定したい。私たち人間は、どうしても神の領域に立ち入って、このように考えたくなってしまいます。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、こういうことを教えてくれるものではありません。なぜアナニアとサフィラが息絶えてしまい、なぜペトロが生かされているのか、その明確な答えを教えてくれるわけではありません。あなたもこの一線を超えなければ大丈夫、その一線が何であるのかを教えてくれるものでもありません。そういうメッセージを伝えるために書かれた話ではないのです。

そうではなくて、この聖書の箇所がまず私たちに伝えていることは、教会全体に恐れが生じたということです。この箇所には、使徒言行録では初めて「教会」という言葉が出てきます。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。」(一一節)。献金に関する問題だったわけですが、教会の中で初めてトラブルが生じた話でもあります。また、教会の信徒の中で、初めて人が死んだときの話でもあります。初めてづくしの話なのです。

それだけに、教会に大きな衝撃が走りました。恐れが生じた。今日の聖書箇所の五節、「そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」(五節)と一一節の二箇所に「恐れ」という言葉がありますが、この言葉は使徒言行録の中でも重視されている言葉です。何度かこの言葉が用いられています。使徒言行録の一つの特徴です。本当にここに神がおられるのだという恐れです。

私たちも言うまでもなく、この恐れと無関係なわけではない。私たちもアナニアとサフィラと変わるところがほとんどありません。いつでもアナニアとサフィラのようになり得る可能性があります。サタンに心を奪われ、人間を欺いただけのつもりであっても神を欺いてしまっていた。聖書ではそのことを罪と言います。私たちも、この罪と無関係でいられるわけではありません。

罪はいつでも私たちをすぐに倒すことができます。アナニアとサフィラは、自分たちの罪の重さに耐えられなくなって倒れました。ペトロの魔術的な力によって倒したわけではありません。ペトロはアナニアには「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(四~五節)と言っただけです。アナニアが倒れるなどとは一言も言っていません。この言葉を言うやいなや、アナニアが直ちに倒れた。ある聖書学者も言っていることですが、ペトロ自身もこのとき、非常に驚いたと思います。

ところがサフィラの場合は話が違います。ペトロはサフィラに対して、「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」(九節)と言っています。はっきり倒れることを予告しています。アナニアと同じ罪なのだから、サフィラの場合も同じ結果を招くことが分かっていたわけです。だからサフィラの場合は、あらかじめ倒れることが分かったのだと思います。

私たちがアナニアとサフィラと同じであるならば、私たちもいつでも倒れて、息絶えてしまうかもしれません。自分の罪の重荷に耐えられなくなって、いつでも倒れてしまう可能性があるのです。神はいつでも、その気にさえなれば、私たちの罪のゆえに、私たちを倒すことがお出来になる方です。

しかし、私たちは今日も生きています。倒れることなく生きています。礼拝に来ています。いつも献金を献げていますし、今日もこれから献金を献げます。今日も神は、私たちを倒すことなく、生かしていてくださっています。

なぜ私たちは倒れないのでしょうか。私たちが罪を犯さないからではありません。私たちは罪を犯します。アナニアもサフィラも、ペトロも私たちも罪を犯します。それは誰もが変わるところはありません。しかし罪を犯す私たちに、罪を赦される恵みがあるのです。もちろん、罪を犯さないようになることができれば、それに越したことはありませんが、それができない私たちです。それならば、私たちは神に赦していただくしかありません。

この赦しがあるのか、ないのか、そのことは私たちの生き方を左右するとても重大なことです。この赦しを信じているのか、信じていないのか、そのことが生き方を左右するのです。この赦しを信じている者がキリスト者です。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にお架かりになり、罪を背負ってくださったことを信じています。キリスト者になれば、罪を犯さないようになるわけではありません。そうではなく、この赦しがあることを知っているのがキリスト者です。

この赦しのもとで、私たちは神を欺かない生き方をすることができます。神を欺かない生き方とは、罪を犯さない生き方ではありません。私たちは罪を犯します。キリスト者もそうでない方も罪を犯します。しかし罪を犯したときが問題です。「私は罪人です。あなたに赦していただかなくてはなりません」と、正直に神の前に言うことが、神を欺かない生き方です。

ペトロはこの赦しに生かされていた人です。主イエスを知らないと言ってしまった罪を犯したペトロが、使徒として、倒れることなく立っていたのは、赦されたからです。アナニアとサフィラは倒れて息絶えてしまいました。しかし主イエスは十字架で、アナニアとサフィラの罪をも背負ってくださったと言えるかもしれません。主イエスを裏切ったユダの罪をも、主イエスは背負ってくださったと言えるかもしれません。しかしそのことは神のみぞ知ることです。私たちの領域には属さないことです。私たちが確かに知ることができるのは、私たちに罪の赦しがあることです。赦しがあるからこそ、私たちは自らを神に欺くことなく、神と向き合うことができる。神が私たちを赦してくださいます。その赦しに生きることが、神を欺かない生き方なのです。