松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年7月7日(日)
説教題「神に根ざして、大胆に生きる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第4章23節〜31節

 さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう。』事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

旧約聖書: イザヤ書 第53章1〜12節

教会はとてもよいところであります。本日、私たちに与えられた聖書の箇所を、この説教の準備のために何度も繰り返し読んでいて、つくづくそのように思わされました。教会に生きる者の幸いを感じたからです。

どういうところに幸いを感じたのか。本日の聖書箇所の最初のところに、「さて二人は」(二三節)とあります。二人が釈放された。二人とは誰のことでしょうか。先週は、使徒言行録から離れ、マタイによる福音書から御言葉を聴きました。先々週のことになりますが、その時は今日の箇所の一つ前のところから御言葉を聴きました。使徒であったペトロとヨハネが、議会で取り調べを、裁判を受ける話です。

ここでの二人とは、ペトロとヨハネの二人です。そうは言っても、ペトロが中心的に語ったり行動していますので、ヨハネはペトロにくっついているだけです。特に何かをしたとは聖書には書かれていません。それではペトロ一人だけなのかというと、まったくそうではありません。ペトロとヨハネの二人だけでもありません。教会の歩みはすでに始まっていました。教会の人たちもいたのです。

使徒言行録の第二章に書かれていることですが、十二人の使徒たちに聖霊が降り、説教が語られます。説教を聴いて、主イエス・キリストを信じる者が起こされた。洗礼を受ける人が現れた。教会が生まれたのです。教会生活をするたくさんの者たちがすでに生まれていたのです。仲間がいた。本日の聖書箇所の最初のところに、「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き」(二三節)とある通りです。

「仲間」という言葉が出てきました。聖書の翻訳によっては、「同信の者たち」と訳されている聖書もあります。「同信」とは、同じことを信じると書く字です。釈放されると、同じことを信じている者たちのところへ帰っていった。なぜ仲間なのかと言うと、同じことを信じているからです。教会とはそういう集いです。私もこの人もあの人も同じことを信じているのです。二四節から、教会の人たちは心を一つにして、祈りをしていますけれども、祈りはこのときに開始されたのではないと思います。ペトロとヨハネの二人が逮捕されてしまった。教会の人たちは、二人のために、ずっと祈っていたのだと思います。ペトロとヨハネは孤独だったわけではない。教会の仲間たちが背後で祈っていてくれたのです。

今日の聖書箇所に、教会の姿が現れていると思います。教会は本当によいところです。幸いなところです。その姿が現れている。教会の人は、決して孤軍奮闘をするのではありません。伝道をすること一つをとってもそうです。牧師一人だけが、がんばっている。それは教会の本来の姿ではない。長老たちだけが、がんばっている。それも違います。子どもたちへの伝道を、こどもの教会の教師だけが担っている。それも教会の本来の姿ではありません。

教会には支えとなる祈りが、背後に必ずあります。表立って行動しているのは、自分だけだと思うときがあるかもしれません。孤独を感じるときがあるかもしれません。しかしその背後には、教会がある。教会の仲間がいる。祈ってくれる人が存在する。私は牧師、伝道者ですが、教会の皆さまの支えは、本当にありがたいものです。いつも祈ってくださったり、お便りをいただいたり、声を掛けていただいたりしています。確かに私一人で、どこかへ赴いたりするようなことはあるかもしれませんけれども、背後には教会の祈りがある。その意味では孤独を感じたことがありません。

これは私だけの話ではありません。皆さまもまた同じです。例えば、自分の家族や友人に伝道をしたいと思う。そのときに、自分一人が孤軍奮闘して、がんばらなければと思うかもしれません。どういう言葉を語るか、いつのタイミングで教会に誘うか、いろいろなことを考えるでしょう。そして孤独を感じるかもしれません。しかし本来の教会の姿はそうではありません。孤軍奮闘しているようでも、背後では教会が祈っている。皆で心を一つにして、一人のために祈る。神に向かって祈る。それが教会です。

教会は決して誰かを孤独にさせることはありません。仲間として、同じことを信じている同信の者として、一緒に同じ神の方を向きます。そして心を一つにして、祈るのです。

教会はそれだけでも、とてもよいところ、幸いなところになるかもしれませんが、それだけではありません。教会の人たちは、この世の中の人たちとは違う生き方をしているところがあります。今日の聖書箇所の言葉で言えば、「大胆さ」がある。そういう生き方をしている。大胆という言葉は、本日の聖書箇所に二度、出てきています。大胆な生き方とはどういうことなのでしょうか。

このとき、教会の人たちは二つのことを神に祈っています。一つは、二九節のところです。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」(二九節)。大胆という言葉も使われていますが、御言葉、神の言葉を語ることができるようにと願っています。もう一つは、続く三〇節です。「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」(三〇節)。主イエスの名によって、癒し、しるし、奇跡を行うことができるように、それによって主イエスが生きて働いておられることを証しすることができるようにと願っています。

この二つの祈りをよく心に留めていただきたいと思います。教会にとっては困難が襲い掛かっていたのです。先々週の箇所になりますが、一八節にこうあります。「そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。」(一八節)。また、二一節にもこうあります。「議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。」(二一節)。教会は、時の権力者たちからの脅しにさらされていたのです。

こういうときに、何を祈るでしょう。普通ならば、この脅しがなくなりますように、と祈るでしょう。あるいは、脅してくる権力者たちの企てが挫かれますように、と祈るでしょう。しかし、このときの教会の祈りはそうではなかったのです。困難はなくならない、そのことを教会は分かっていたのです。むしろ、困難や脅しの中で、自分たちのすべきことをすることができますように、そう祈っていたのです。

私たちも、私たち自身の祈りを省みる必要があるかもしれません。私たち個人として、あるいは教会として、様々な困難に直面します。そのとき、私たちは祈りますが、どのように祈るでしょうか。この困難がなくなりますように、そう祈るでしょうか。しかし考えてみると、この困難がなくなったとしても、また次の困難が現れるのは確実です。困難が一つ去り、また次の困難がやって来る。それが私たちの人生の歩みです。それをわきまえると、祈りが変わらざるを得なくなる。困難はなくならない。それならば、困難を乗り越えることができますように、という祈りに自然となると思います。今日の聖書箇所の言葉で言えば、困難の中でも、大胆に生きることができますように。そのような祈りへと変えられていくのです。

教会は、使徒言行録の時代にその歩みを始めましたが、いつの時代でも、どこの場所においても、困難を極めた歩みを送り続けてきました。順風満帆に思えたような時代も、わずかながらあったと評価できるかもしれません。しかしそれは次なる困難な時代への移行期に過ぎませんでした。むしろ、いつでも荒波の中を、沈みそうになりながら、それでも完全に沈むことなく歩んできた。教会の歴史はそういう歩みであります。そしていつでも、そのような困難な中にあって、私たちが大胆に歩めますように、そう祈ってきたのであります。

なぜ教会の人たちは、こんなにも大胆に歩むことができたのか。その理由を、今日の聖書箇所から考えてみたいと思います。二つ挙げたいと思いますが、一つ目の理由が二四節にあります。祈りの最初の言葉です。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」(二四節)。

これに対比するように、二五節後半から二六節にかけて、詩編第二編が引用されています。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。」(二五~二六節)。地上の王、指導者たちの実際の名前が、続く二七節に挙げられています。「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。」(二七節)。しかしこのような時の権力者ではなく、本当に畏れるべきお方は神であると、教会の人たちは知っています。なぜなら、神が天地の造り主であるからです。

神がすべてを造られたというのは、私たちの信仰にとって、極めて大切なことです。神がこの世界を造られた、そして私たち人間を造られた。それは私たちの信仰の中核であります。先ほど、二五節後半から二六節が、旧約聖書の詩編第二編の引用であると申し上げました。二四節の言葉も、旧約聖書からの引用です。しかしどの箇所からの引用なのかと言うと、実にたくさんの箇所を挙げなければなりません。旧約聖書のどこをとっても、神が天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた、という信仰に満ちているのです。

この信仰が私たちにとっても極めて大事になります。例えば、旧約聖書にアブラハムという人物が出てきます。アブラハムと妻のサラは、もうすでに高齢になっていましたが、神から子どもが与えられる約束がなされます。妻のサラは、そんなことがあるはずがないと、心の中で笑ったほどです。アブラハムも最初はそうだったと思います。しかし神からこの約束をいただいたとき、神はアブラハムを家の外へ連れ出されます。夜でした。たくさんの星が見えます。あなたの子孫はこのようになる。神はただ一言、そう言われただけです。アブラハムは信じた。神の約束を信じました。

なぜアブラハムが信じることができたのか。おそらくこういうことだと思います。アブラハムは満天の星空を見ました。ああ、神がこれらの星を造られたのだ。世界を造られたのだ。その神だったら、高齢の私たちに子どもを与えることがおできになるに違いない。アブラハムはそう思っただろうと思います。神が天地を造られた信仰が、アブラハムに子どもを与える約束をも信じさせたのです。

旧約聖書の別の人物、ヨブも取りあげたいと思います。ヨブを詳しく説明する暇はないのですが、家族や財産も恵まれていた人でした。しかしあるとき、次々と苦難が襲い掛かります。家族は妻以外、死んでしまい、財産のほとんどすべてを失うことになります。なぜ自分の身にこんなんことが降りかかるのか。理不尽ではないか。本当に神は正しいお方なのだろうか。ヨブは苦悩のうちに、その問いの中に置かれます。しかしいくら神に問いかけても、いくら神に祈っても、神から返ってくる答えは、沈黙のみでした。神は一向に答えてくださらない。

そしてヨブ記の最後のところで、ようやく神が口を開かれ、沈黙が打ち破られます。返ってきた答えはこうでした。私は天地万物の造り主、私が世界を創造したとき、お前はどこで何をしていたのか、知っているのなら言ってみよ、そういう答えが返ってきたのです。結局、ヨブはなぜ自分がこのような苦難に遭っているのか、その答えを知ることは最後までできませんでした。しかし、神が天地を造られた、そのことを思い起こし、立ち直ることができました。苦難の直接の理由は分からなくとも、神が造られ、支配されている世界でなされた苦難であるとわきまえたのかもしれません。

アブラハムやヨブという人物を取りあげなくても、あるいはこうも考えることができるかもしれません。イエス・キリストが復活された。私たちが復活をする。復活を信じる際にも、最初はなかなか信じることができなかったという方もおられると思います。まだ洗礼を受けておられない方と話をしていると、私はどうも復活を信じられない、と言われる方もおられます。

しかしその方に、あなたは神が世界を造られ、私たちを造られたことを信じていますか、と尋ねると、そのことは信じているという答えが返ってくる場合があります。神が人間を造ることができたのなら、神が人間をもう一度、造り直すこともおできになるでしょう。そうすれば、復活もまた信じる道が切り拓かれていくかもしれません。実際に、神が一度、人を造ったのならば、二度目に人を造り直すことの方が容易ではないか、そのように議論をしている人もいるくらいです。

このように、二四節の「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」(二四節)という信仰は、私たちの信仰の土台ともなるべきものです。教会の人たちは、このことをまず祈った。この世の権力者たちは、様々な脅しを仕掛けてくるかもしれない。しかし本当の支配者は、天地の造り主である。私たちもその信仰に立つことが大事です。そしてその信仰に立ったときに、大胆に生きる道が拓かれてくるのです。

教会の人たちが、大胆に生きることができた一つ目の理由は、そのような理由でありますが、二つ目の理由に移りたいと思います。二八節にこうあります。「そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」(二八節)。ここで言われているのは、天地の造り主である神が、あらかじめ定めてくださったことがあり、それをすべて行ってくださったということです。具体的には、二七節の後半にありますように「あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。」(二七節)ということです。つまり、主イエスを十字架につけたことです。それがあらかじめ定められた計画であり、もうすでに実現したのです。すでに計画が実現したのか、それともまだ実現を待たなければならないのか。この違いは大きいと思います。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、イザヤ書の第五三章です。イザヤ書には、主の僕の歌というのが四回ほど出てきます。この第五三章が、四回目の歌でありますが、「主の僕の苦難と死」というタイトルが付けられています。「主の僕」という人が苦難を受けて死を迎えるという歌です。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書五三・四~五)。主の僕という人が私たちの代わりに苦しみ、死んでくださって、私たちが代わりに救われるという内容です。主の僕とは一体誰のことなのか、ということが問題になります。

私たち教会の人は、これをもちろん、主イエス・キリストのことだと考えます。私たちの罪を、主イエスが代わりに十字架で引き受けて苦しみ、死んでくださった。それゆえに私たちが救われたと信じています。しかしこのことは、何も突然現れた出来事なのではなくて、主イエスが来られる二千年前よりもずっと以前から、この計画があった。すでに神が立ててくださっていた。それが実現した。二八節の「あらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」とはそういうことです。

神が立ててくださっていた救いの計画は、もうすべて実現している。このことを教会の人たちは知っていました。もう付け加えられるものは何一つありません。人間の歴史においても、イエス・キリストの救いが起こった二千年前から、新しいものは何一つ付け加わりませんでした。まだ神が何かをしてくださるのを待たなければならないというわけではない。あなたのがんばりがさらに必要だというわけでもない。まだ実現していないのではない。もうすべてが実現した。教会の人たちはその信仰に生きています。だからこそ、大胆に生きることができるのです。

教会の人の生き方が大胆である理由を二つ、お話ししてきました。神が天地を造られた信仰に生きていること、神が定めておられたことがすべてもう実現したという信仰に生きていること。その二つです。

「大胆」という言葉を語ってきました。聖書で用いられている「大胆」という言葉の元のギリシア語の言葉は、あらゆることを自由に言える、という意味があった言葉です。そこから大胆という意味になりました。ギリシアの市民は、何でも自由に言うことができる、言論の自由がありました。しかし、何でも言えるからと言って、教会に生きる者たちは、その自由を乱用しません。二九節に「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(二九節)とあります。この祈りに応えるように、「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」(三一節)とあります。

同じ三一節に、その場所が揺れ動いたということも書かれています。実際に物理的に揺れ動いたのかはよく分かりません。旧約聖書にもこのような表現があります。神がその場におられ、祈りがきかれることが示されています。この場合もそうです。神が祈りに応えてくださった。そのことが表わされています。

教会の者たちは、困難な中にあっても、神の言葉をいつでも語れるようにと祈り願います。神の言葉を語る、そのことを難しく考える必要はありません。牧師のように説教を語ったり、聖書を説き明かしたりしなければならないと考える必要はない。神が天地万物の造り主であり、救いのすべてを実現させてくださった信仰に生きることから始めることができます。神が私たちのもすでにしてくださったことがあるのです。そのことをそのまま自然に語ればよい。そのとき、私たちの生き方も、自由に大胆になるのです。