松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年6月23日(日)
説教題「人間に従わず、神に従う」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第4章1節〜22節

 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

旧約聖書: 箴言 第9章9〜10節

先週の火曜日になりますが、南信分区教師会が行われました。私たちが属する日本基督教団では、長野県の南半分、南信分区と言いますが、ここには十六の教会があります。全部の教会からではありませんが、牧師たちが集まって教師会が行われました。それぞれの教会の情報交換をしたり、祈り合ったり、分区で話し合うべきことを話し合ったり、学びをしたり、そのようなことを行っています。

この分区の教師会ですが、いつも礼拝をすることをもって始めています。日曜日の礼拝とはだいぶ雰囲気は違います。担当の牧師が説教をしますが、説教を聴いている方もまた牧師です。そうなると、やはり少し語る言葉が変わってきます。私が牧師になる前、神学校にいました。神学校でも、毎日、礼拝がありますが、説教の聴き手はこれから伝道者になろうとしている神学生です。神学校の礼拝もやはり、教会の日曜日の雰囲気とは違う。当然、そこで語られてくることも違ってきます。

先週の火曜日も、ある牧師が説教をしてくださいました。朗読された聖書箇所はペトロの手紙一第三章九節の言葉です。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(Ⅰペトロ三・九)。

その牧師は、この聖書の言葉を読まれ、そしてこう説教を始めました。「私が洗礼を受けてキリスト者になる前、私はイエスさまを侮辱する者でした。イエスさまや教会の悪口を言う者でした。しかし、イエスさまは私に、悪をもって悪を返さず、侮辱をもって侮辱に報いませんでした。私をキリスト者にしてくださり、そして、牧師にまでしてくださった。神さまは本当に深く私を愛してくださいました」。この牧師のその言葉には、説得力がありました。ああ、本当にそうだ。神は本当に愛の深いお方だ。そこにいた誰もが感じたと思います。なぜ、説得力があったのか。説教を語った牧師自身が、神によって変えられていたからです。昔は侮辱し、悪口を言った者が、変えられた。神によって変えられた人が目の前に立っているからです。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所にありますペトロの言葉にも、かなりの説得力があります。ペトロは「大胆」でありました。「無学な普通の人」でもありました。しかも、歩けなかった人が歩けるようになってそばに立っていた。相手は「ひと言も言い返せなかった。」(一四節)とあります。

ペトロとヨハネは、このとき逮捕されてしまいました。なぜ捕えられたのか。「復活を宣べ伝えているので」(二節)とあります。相手方に、サドカイ派と呼ばれるグループの人たちがいました。サドカイ派は復活を否定します。サドカイ派にとって都合の悪いことをペトロが言っていたのです。しかしサドカイ派に限らず、他の者たちにとっても、ペトロたちの行動は面白くないものでした。民衆がみんなそっちに行ってしまっている。なんとかしなければならないと思っていたのです。

そこで逮捕された。もう日暮れであったので、議会での裁判は明日に持ち越しになりました。翌日、議会で裁判がなされました。ちなみに、この裁判の場は、ついこの前、主イエスがここで裁かれた場です。ここで裁かれ、十字架へと向かわれることになりました。その同じ、裁判の場に、ペトロも立たされることになったのです。

ペトロを訴える者たちは、議員たちであります。ペトロとヨハネはその訴えを受けなければなりません。議員たち対ペトロとヨハネ。戦いです。論戦です。もちろん権力は議員たちの側にありました。どちらが勝利を収めたでしょうか。明らかにペトロです。ペトロは自由に大胆に発言をしています。例えば二〇節の「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(二〇節)という言葉は、ペトロが戦いを優位に進めていたことが感じられる言葉です。

それに対して議員たちはどうでしょうか。権力者たちでありましたが、狼狽しています。右往左往しています。ペトロたちを逮捕するところまではよかったかもしれません。しかし議会の裁判で、ペトロに大胆な発言をされてしまう。しかも、足を癒された人がそばに立っている。ますます説得力を増すわけです。彼らは一言も言い返すことができませんでした。仕方なく、彼らは一旦、議会の裁判を閉じて、こっそりと密室で相談します。ペトロたちを黙らせたいのはやまやまでしたが、民衆を恐れて、どう処罰すればよいのか分かりませんでした。そこで、いつの時代の権力者もやるように、ひとまず脅す。今回は大目に見るが、次に同じようなことをしたときには、ただでは置かない。そのように脅したのです。

なぜペトロたちと権力者たちとの間には、こんなにも違いが生じていたのでしょうか。勝利を収めたのはペトロです。なぜペトロは勝利を収めることができたのか。なぜ大胆に、自由に、自分の信じる通りに振る舞うことができたのか。もちろん、ペトロには、裁判を有利に進めるような知恵が備わっていたわけではありませんでした。ペトロよりも、議員たちの方が知恵や知識は明らかに上でした。しかしペトロが知っていた、ただ一つのことがありました。それは、イエスの名です。議員たちは、豊富な知恵や知識はありましたが、イエスの名を知らなかった。そこが大きな違いです。

聖書を読んでいると、名は意外と大切なものだということがすぐに分かってきます。例えば、主の祈りでは、「御名をあがめさせたまえ」と祈ります。神の名をあがめることをお願いしているわけです。日本の言葉でも、「名は体を表す」というように言います。名前はその性質をよく表しているという意味の言葉です。日本でもこのような言葉がありますが、外国ではもっとこのことが顕著です。名は本当にその実体をよく表すと考えるのです。

例えば、今日はペトロが前面に出てきていますが、ペトロという名前は本名ではありません。あだ名です。本名は、ヘブライ語ではケファと言います。聖書の中に、ケファという名前で出てくることもあります。しかしあだ名のペトロと言われる方が圧倒的に多い。ペトロは、ギリシア語の岩、ペトラという言葉に由来します。岩、というあだ名だったのです。なぜ岩なのか。一つには、あるとき、主イエスから「岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ一六・一八)と言われたからです。ペトロが教会の土台のようになった。だからペトロ、岩というあだ名がついたかもしれません。しかしもう一つには、岩のように頑固だったのかもしれません。頑固者だからペトロ。しかしいずれにしても、ペトロという名は体をよく表しているところがあります。だから聖書も、ケファと呼ぶことは少なく、あだ名のペトロを用いているのです。

ここで問題となっている名前は主イエスの名です。イエスという名も、神は救いという意味の名前です。その他に、聖書には主イエスのいろいろな名前が出てきます。「その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ一・二三)。インマヌエルとは、神は我々と共におられるという意味です。主イエスのその名がまさに主イエスご自身の性質をよく表している。また、主イエスはキリストという名前でも呼ばれています。今日の箇所でも「イエス・キリストの名」(一〇節)とペトロが言っています。キリストとはメシア、救い主のことです。イエスはキリスト、救い主、メシアだ、という名前です。

使徒言行録は今までも、このイエスの名がずっと鍵になってきました。ペトロが説教を語って、三千人の人が洗礼を受けましたが、ペトロが説教を語り終わった後に、こう言いました。「悔い改めなさい、めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」(二・三八)。また、足の不自由な男が癒されるときも、ペトロはこう言いました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(三・六)。ずっとイエスがキリストであるという名が、鍵となってきたのです。

ペトロはこの名を知っていたのです。そして、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(一二節)ということも知っていた。足の不自由な男は「四十歳を過ぎていた」(二二節)と記されています。もう十分に長すぎるくらいの期間、歩けなかった。他の名ではこの男は救われなかった。しかしこの男を救う名があった。それが、イエス・キリストという名です。ペトロはこの名を知っていたのであります。

議員たちは、この名を知ろうとはしません。一七節で「今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」(一七節)とあります。「あの名」と言っています。しかも続く一八節で「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」(一八節)とあります。徹底的に、主イエスの名とは反対の方向に行こうとします。

それに対して、ペトロは、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」(一九節)と答えています。「考えてください」とありますが、これは少し柔らかすぎる表現かもしれません。意味としては、判断せよ、判定せよ、判決を下せ、という意味です。裁判用語と言えるかもしれません。神なのか、人間なのか、判決を下しなさい。あなたがたも判断せよ、とペトロは言っているのです。もちろん私ペトロは、神に従う。だからこういう行動を取っているわけです。

この名を知っているか。それとも知らないのか。それが分かれ目になっています。この名を知っていたから、ペトロの言葉に説得力がありました。しかも説得力の増す事実がそばにあった。男がそばに立っていたのです。この男もイエス・キリストの名によって癒された人です。唯一の名であるイエス・キリストを知ればよい。私たちもこの名を知れば、知る者としての違う生き方ができるのです。

それでは、知ってどうすればよいのでしょうか。神の名を知ると、ペトロのように、人間に従わず、神に従う歩みができそうです。人間よりも神の方を優先するだなんて、聞いただけでも難しそうなことを言われているかのようです。私たちもペトロと同じようにすることが、果たしてできるのでしょうか。しかし難しく考える必要はまったくありません。

一九節に「従う」という言葉が出てきました。もともとの意味としては、従うというよりも「聞く」という意味です。「聴き従う」と言えば分かりやすいでしょうか。神に従うことは、神に聞くことです。二〇節でも「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(二〇節)とペトロは言っています。素直に見て、聞いて、それを話せばよいのです。そのようにして生きればよいのです。最も自然で、最も自由な生き方です。議員たちとはまったく違う生き方です。

人間に従わず、神に従うこの自由な生き方をするために、まず、見ること、聞くことから始まるわけですから、信仰の目と耳を養うことが必要です。かつて、こんな話を聞いたことがあります。私の出身の神学校では、毎年九月に「青年の集い」というものを行っています。文字通りの会ですけれども、各教会から、様々な青年たちが集まってきます。もうすでに伝道者としての志が与えられている人もいれば、そんなことをまったく考えていない人もいます。話を聞いたり、小さなグループに分かれて話し合ったりします。そしてその会のプログラムの中に、牧師による「献身のすすめ」という時間があります。献身とは、身を献げることですが、伝道者になって身を献げることを牧師が奨める時間があります。ある牧師がその話で、こういうように言っていました。「牧師は、神さまがなさることを、特等席で見ることができます。牧師はそういう務めに召されています」。

私がその話を聞いたのは、私がすでに神学校に入っていた時でありますが、神学校を卒業し、牧師になった今、その牧師の言葉は、ああ、なるほど、と思わされるところがあります。確かに、私もこの松本東教会におきまして、数多くの神の御業を見てきました。洗礼を受けたいと言われる方があれば、その方と共に歩き、救いの確かな出来事である洗礼を施すことも許される。愛する家族が召されると、悲しみのうちに置かれているご家族に寄り添い、慰めを語る。その他にも様々な例を挙げることができます。すべて神がなさったこととして、その出来事を見ることができる。聞くことができる。

しかしそれは牧師だけの話ではありません。誰もが神の出来事を見ることができる。聞くことができる。最初にご紹介した牧師自身もそうです。かつては教会の迫害者だった。それが今や牧師になっている。神がなさった出来事です。洗礼を受ける人が現れ、洗礼式がなされる。それも神の出来事です。その他にも、ほんの些細な出来事もそうです。私たちの人生で起こる出来事、教会の内外で起こる出来事、信仰の目と耳をもって物事を見ると、違うように見えてくるのです。

信仰を持って生きるとは、本当に単純なことであると言えるかもしれません。肩に力を入れて、神を信じる、神に従う、そういう生活をするのではありません。神がなさったことを見る、聞く。その見たこと、聞いたことを、ごく自然に話せばよいのです。肩に力を入れない最もシンプルな生き方です。そのように生きる生き方が説得力を生みます。そうすると、不思議と、自然に神に従う生活にもなっていきます。生き方自体も整えられていくのです。