松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年6月9日(日)
説教題「人の救いは美しい出来事」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第3章1節〜10節

 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

旧約聖書: サムエル記下 第5章6〜8節

本日の説教の説教題を「人の救いは美しい出来事」といたしました。「美しい」という言葉を使った。本日、私たちに与えられた聖書の箇所の中に、美しいという言葉が出てきます。どこに出てくるのか。二節と一〇節のところに、「美しい門」という門が出てきます。

美しい門であった。そう記されています。エルサレムの神殿には、たくさんの門があったようです。東西南北に門があった。それだけではなくて、神殿内の敷地には区分けがなされていました。この場所はユダヤ人以外の異邦人も入れる場所、ここまではユダヤ人女性が入れるところ、その先はユダヤ人男性しか入れないところ、さらにその先は祭司だけしか入れないところ。その区分けをするために仕切りの壁があり、その壁にはそれぞれ門があったのです。たくさんの門があった。しかし「美しい門」が一体どの門なのかはよく分かっていない。なぜか。「美しい門」というのは、正式名称ではなかったからです。

使徒言行録を書いたルカという人物は、エルサレムにあまり詳しくなかったのではないかと考える人もいます。しかしルカは様々なことを調べ上げていたので、神殿の門の名前くらいは知っていた可能性は高いと思います。仮に知らなかったとしても、ルカは正式名称ではなく、「美しい門」という名前を付けた。ですから後の私たちにとって、一体これがどこの門なのか分からなくなってしまった。なぜ、ルカはこんな名称を付けたのでしょうか。

一つの説としては、この門が本当に美しかったからだ、という説があります。聖書学者たちが、この門が一体どの門だったのか、推測をしています。有力な説としては、これが「ニカノル門」という正式名称が付けられていた門だったのではないかという説です。この門は、ギリシアのコリントという町がありますが、コリントの方式で作られた青銅の門だったようです。たいそう美しかった。金や銀で細工された門に優る、と評価した人もいたくらいです。だからルカは「美しい門」とした。一つの説として、そういう説があります。

もう一つ別の説があります。ほとんどこんな説を唱えている人はいないのですが、なぜ使徒言行録のこの箇所に「美しい門」と書かれているか。それは、この門のところで、美しい出来事が起こったからだ、という説です。ある聖書学者が「最も美しい出来事がこの門のところで起こった」と言っているのです。だからルカは、「美しい門」とした、と言うのです。

著者のルカが本当にそんな意図をもって、この門を「美しい門」と名付けたかどうかは別にして、ここで起こった出来事は、確かにこの聖書学者が言うように、美しい出来事です。それは間違いないことです。一体何が美しい出来事なのか。歩けなかった男が立ち上がって、歩けるようになったことか。そうではありません。むしろ、その後の男の様子です。「躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」(八節)。この人が立ち上がり、歩けるようになり、踊り、讃美し、神殿の境内に入って行ったという歩みです。その歩みが美しいのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、サムエル記下第五章六~八節です。ダビデという王さまが出てきます。イスラエルの中でも優れて強かった王と言われている人です。その王が侮辱された。その侮辱によって、足の不自由な人が神殿のある部分から先は入れないようになった。差別のようなひどい話だと思われる方もあると思いますが、この男も例外ではありませんでした。おそらくこの男は、自分が入ることが許されている領域の境目の門のところにいたのだと思います。

この人は、人の手を借りながら、人通りの多い門のところで施しを受けながら生活をしていました。運んでくれる人がいた。施してくれる人がいた。そのようにして生計を立てていたのです。おそらく、ろくに神を讃美することなどできていなかったでしょう。神を礼拝する生活を整えることもできていなかった。そのような者が美しい出来事を体験する。讃美する者へと変えられるのです。それが美しい出来事です。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所を、愛唱された方がおられました。今年の一月に召された教会員の方です。なぜこの箇所を愛唱されたか。この箇所を愛唱される方は、どちらかと言うと珍しいと思います。なぜか愛唱の聖書箇所となったのかと言うと、この方が洗礼を受けられたときの礼拝で読まれた聖書の箇所が、この箇所だったからです。

この方は九四歳で召されましたが、若い頃に洗礼を受けられた方です。私たちの教会はかつて、専属の牧師がいませんでしたから、洗礼を行うときには外部から牧師を招いていました。そのときは植村環牧師という先生によって、四人が同時に洗礼を授けられました。その礼拝の際に、もちろん説教が語られました。その時の聖書箇所がこの箇所だったのです。残念なことに、どんな説教だったのかは記録がありませんので分かりません。しかしこの方の心に生涯、響くものであったのでしょう。この聖書箇所を愛唱するに足る説教だったのだと思います。

この方が召される数年前から、この方のご自宅に頻繁に訪問しました。訪問すると、必ず讃美歌を歌うことになりました。讃美が好きだった方です。一曲だけでは済みませんでした。「先生、もう一曲いいかね」と言われ、何曲も付き合わされました。晩年、話し声がか細くなられましたが、讃美の声だけは小さくなることはなかった。讃美が好きだった、歌うこと自体が好きだったということもあるかもしれませんが、この方が生涯、讃美に生きられたのは、この聖書の箇所に源泉があったのかもしれません。少なくとも私はそう思っています。

この方は、決して多くを恵まれた方ではありませんでした。お連れ合いを早くに亡くされ、十年以上も一人暮らしをされた方です。それでも最後まで讃美に生きた方です。その生き方は、美しい生き方でありました。

人が美しく生きるためにはどうすればよいでしょうか。この問いを言い換えると、自分の生き方に確信があるかということになるでしょう。このように生きている私をご覧なさい、そう人に言えるかどうかが問われます。現代では、どの世代の人にとっても、どのように生きるのか、その生き方が問題となってきます。

若い人たちは、今の大人たちが考えもしなかったような環境の中に置かれています。就職することができるのか、ということに始まります。結婚も昔とはだいぶ環境が変わりました。働きながら子育てができるのかとか、将来はどうなるのか、老後のことまで考えなければならなくなっています。

現役で働いている世代の方もそうです。今のいる会社や地位に、昔とは違い、いつまでも留まれるというわけではありません。何の保証もない。不安に思っておられる方も多いと思います。

それでも、それなりに現状に満足しておられる方もあるかもしれません。この生き方で問題ない、と。おそらく、この足の不自由な男も、現状に満足しているところがあったと思います。今日の聖書箇所より少し後のところになりますが、「このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた」(四・二二)と記されています。四十という数字は、聖書でしばしば出てくる数字でもありますが、十分長いという意味のある数字です。この人は生まれながら、足の不自由な人でした。四十年以上も、十分すぎるほど長い間、歩くことができなかった。

最初は、歩くことができればどんなによいことか、そう思っていたと思いますが、いつの間にか、物乞いを続けていくうちに、すっかり物乞いをすることが身についてしまっていたと思います。ペトロとヨハネに会ったときも、歩けるようになりたい、という願望は訴えていません。何かをもらえると思っていただけなのです。物乞いでも十分にやっていける。ある意味で現状に満足し、このままでよいと思っていた。

しかしこの男もそうかもしれませんが、いつまでも同じ生活が続くわけではありません。このままでよいと思って現状に満足していたとしても、必ず体が衰えてきます。気力も衰えます。あれをやりたい、これをやりたいと思っても、体や心がついていかないことがあるでしょう。衰えて行く自分をどう受け入れていくのかという課題があります。

人間はいつになっても課題があります。若い人でも、お年を召された方でもそうです。そしていつでも、一つの課題に向き合っていなければなりません。美しく生きているか、自分の生き方に確信をもっているか、という課題です。

この課題を考える際に、一つの鍵となりそうな言葉が、本日、私たちに与えられた聖書の箇所にあります。四節のところです。「わたしたちを見なさい」(四節)というペトロの言葉です。ペトロが言った言葉ですが、ヨハネも一緒にいたので、「わたしたちを見なさい」となっています。

三節から五節のところに、「見る」という言葉が四回も出てきます。「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」(三~五節)とあります。元の言葉では、同じ「見る」でもすべて違う言葉となっています。英語でもseeやlookやwatchというように、同じ「見る」という言葉でも違うわけです。いろいろな見方がある。

その中でも、四節の言葉で「じっと見る」という言葉があります。ペトロとヨハネがこの足の不自由な男をじっと見たのです。この人は来る日も来る日もここで物乞いをしていた人です。おそらくじっと見る人などいなかったでしょう。ちら見、という言葉が現代にはありますが、多くの人からちら見をされていた。ところが、ペトロとヨハネはじっと見たのです。なぜ他の人ではなく、この人をじっと見たのか。理由はよく分かりません。しかし、ペトロとヨハネは、じっと見ることから、この人への伝道を始めたのです。

そして続いて、「わたしたちを見なさい」と言いました。ペトロ一人だけだったら、「わたしを見なさい」ということになるでしょう。この言葉を言えるかどうか。「このわたしをご覧なさい」と人に言うことができる生き方をしているか。ペトロははっきりとそのことが言えました。そのことが言えるかどうか。美しい生き方をしているかどうかを考える一つの鍵になると思います。

誤解をしないでいただきたいと思いますが、ペトロとヨハネは自分たちの力で立派な生き方をしていたから、「わたしたちを見なさい」と言ったのではありません。ペトロが言ったのは「金や銀はない」ということです。続けて言っているのが「持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(六節)という言葉です。イエス・キリストの名というのは、この後も何度も繰り返し出てくる表現です。ひとまずここでは、イエス・キリストの権威によって、と理解すればよいでしょう。

ペトロは主イエスの権威によって生かされていた人です。ペトロはついこの前、大きな失敗をしてしまいました。主イエスの十字架を前にして逃げてしまった。主イエスとの関係を問われたときに、知らないと三度も言ってしまった。そんな人でした。とても胸を張って、「わたしを見なさい」とは言えない人でした。

けれども、ペトロがここで言っているのは、そういうことではないのです。立派な自分を見なさいということではない。そうではなく、ペトロは主イエスの名によって生かされている者です。主イエスの名によって生かされている、この「わたしを見なさい」と、ペトロは言っているのです。

使徒言行録を書いたルカは、このときヨハネも一緒にいたことを伝えています。けれども、ヨハネが表に立って何かをしたような記述はまったくありません。もしペトロが一人だけだったら「わたしを見なさい」と言っていたはずですが、ここではヨハネがいたのです。だから、「わたしたちを見なさい」となっています。教会に生きる者は、いつでもこれと同じことを言うことができるのです。自分一人ではない。わたしもイエス・キリストによって生かされている。しかしそれは自分だけではなくて、あの人もこの人も生かされている。わたしたちを見てください。そしてあなたもわたしたちの中に加わってください。確信をもって、そう言うことができるのです。

ここに美しく生きる生き方があります。教会に生きている者たちは、皆、美しく生きる者となっているのです。私が毎週、説教を語ります。私の説教を聴いて、時々、感想を言ってくださる方があります。いろいろな感想がありますけれども、私が今まで聞いた感想の中で、一番、幸いな感想はこういう感想でした。「ああ、生きていてよかった。こんなに嬉しいことはない」。お年を召された方からの感想でした。神の言葉を聴いて、イエス・キリストに生かされている自分を実感する。ああ、生きていてよかったと思わされる。このように言うことができる生き方は、とても美しい生き方であります。

本日の話は、「美しい門」での出来事でありました。この「美しい」という言葉が、聖書で用いられている他の箇所があります。お開きにならなくても結構ですが、ローマの信徒への手紙第一〇章一五節です。使徒パウロの言葉です。「よい知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。」(ローマ一〇・一五)。よい知らせとは、福音、神の言葉です。神の言葉を聴いて、その言葉を携えて生きる者は、なんと美しいか! パウロはそう言っているのです。

ペトロはこの美しい生き方に生かされた人です。十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストによって生かされていました。だから「わたしたちを見なさい」と言うことができた。この足の不自由な男も、ペトロのその招きに応え、教会の仲間に加わった。こうして美しい歩みに生かされている者が増えていったのです。教会の歩みとはそういう歩みです。今もなお、続いています。今度は私たちの番です。「わたしたちを見なさい」という招きに応える。そして今度は、わたしたちも「わたしたちを見なさい」と言うことができる。私たちも美しい歩みをすることができるのです。