松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2014年7月6日(日)
説教題「キリスト者になる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第26章1〜32節

アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」
「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」
「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。 そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」
パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。 彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。

旧約聖書: イザヤ書 第42章5~7節

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、使徒言行録の第二六章です。話としては先週の続きの箇所になります。このとき使徒パウロは、地方総督フェストゥスによって裁判にかけられていました。正確に言うと、裁判がひとまず終わり、パウロは皇帝に上訴しましたので、次の裁判の舞台はローマになります。パウロのローマ行きが決定していました。

しかしフェストゥスは地方総督として、責任をもってパウロをローマへ送り届けなければなりません。パウロのことをもう少し調べて、皇帝への手紙を持たせなければならなかった。そのため、地方の王であったアグリッパとも面会をさせている。今日の話はフェストゥスも一緒にいましたが、アグリッパ王が前面に出てくる話になっています。

第二六章の一節にこうあります。「アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。」(一節)。弁明の最初の言葉はこうです。「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。」(二節)。

一節から二節にかけて、「弁明」という言葉が出てきます。パウロがここで語っているのは、確かに弁明の言葉でもあります。自分が裁判にかけられたわけですから弁明しなければなりません。しかし弁明だけに終始しているかというとそうではありません。パウロがここで語っているのは、回心体験です。

使徒言行録の中で、パウロの回心の出来事が書かれているのは、三箇所あります。一箇所目は、パウロの実際の回心の出来事のときです。第九章一節から記されています。教会の迫害者だったパウロが、主イエス・キリストと出会い、文字通り心を正反対に回して、教会の伝道者になります。二箇所目は第二二章一節からです。「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」(二二・一)。パウロはこのときも弁明をしなければなりませんでしたが、弁明を語っているようで、実際に語ったのは自分がどのように回心したのか、そのような回心体験でした。そして今日の聖書箇所が三箇所目ということになります。

パウロがこの弁明、回心体験を語っている間、そのわきで地方総督のフェストゥスも聞いていました。しかしフェストゥスがパウロの言葉を遮ります。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」(二四節)。しかしパウロはめげずに続けます。パウロが語った相手は、フェストゥスではなくアグリッパ王でした。「王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」(二六~二七節)。この言葉から、パウロが特に語った相手はアグリッパ王であることが分かります。アグリッパ王に対する伝道説教を語ったとも言えるのです。

このような問いかけを受けて、アグリッパ王はどうしたのでしょうか。こう答えました。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」(二八節)。「キリスト信者」という言葉が出て来ています。キリスト者、クリスチャンということです。パウロは「信じておられますか」という疑問形で聞いています。ですから答えとしてはYESかNOという答えになるはずです。しかしアグリッパ王の口からは、YESともNOとも出てきませんでした。

アグリッパ王はこの地方を治める王です。地方総督フェストゥスの下で治めるという条件付きですが、一応は王です。特にユダヤ人たちをうまく治めなくてはなりません。アグリッパ王にもいろいろな思惑があったようです。

もしもパウロの問いに対して、YESと答えるならば、パウロの話の流れに乗らなければならなくなります。二二節に「預言者たち」という言葉も出て来ていますが、旧約聖書の預言者たちの言葉が、イエス・キリストによって実現したのだ、という話の展開になります。YESと答えれば、「キリスト信者」になっていく道が、どんどんと拓かれることになります。

それとは逆に、NOと答えるならば、どうなったのでしょうか。ユダヤ人たちはもちろん預言者を信じていました。イエス・キリストを信じないユダヤ人たちから、パウロは反感を買っていましたが、そういう人でも誰でも預言者は信じているのです。アグリッパ王としてはNOと答えるならば、ユダヤ人から反発されてしまうわけです。それも困ったことになってしまう。

アグリッパ王の本心はよく分かりませんが、しかしYESともNOとも、はっきりと答えることができませんでした。ある意味ではごまかして答えている。そして三〇節のところですが、「そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。」(三〇節)とあります。パウロの問いにはっきりと答えることはせずに、逃げるように立ち去ってしまうのです。

アグリッパ王のような答弁の仕方は、アグリッパ王に限った話ではないと思います。よく考えてみると、私たちの周りに実に多いと思います。私たちの周りだけでなく、私たちもまた同じような答弁をしているかもしれません。

二五節のところで、パウロは「真実で理にかなったことを話しているのです」(二五節)と言っています。元の言葉では「真理と理性ある言葉を語っている」となっています。真理を語っているとパウロは言っている。アグリッパ王を真理と向かい合わせて、YESかNOか、はっきりさせようと思っている。けれどもアグリッパ王はYESともNOとも言わない。ごまかす。真理に向き合おうとしない態度なのです。

私たちも人生の根本的な問いと向き合う必要があります。この世の中を生きていく上で大事な問いと向き合わなければならないときもあります。そのときには私たちは真理と向かい合って答えなければならない。「なぜ自分は生きているのか」、「この世はどうあるべきなのか」、これらの問いを真理と向かい合って、はっきりと答えを出すことが大切なことになります。

これらの問いをどのように考えればよいでしょうか。真理は難しいものではありません。とてもシンプルに考えることが大事です。先週は様々な重大ニュースがありました。日本の国が数十年間の方針転換をするようなニュースです。私たちにとっては非常に残念なニュースであります。テレビや新聞では、いろいろと難しい議論もなされていました。政治家たちも難しい議論をしています。

けれどもここでもやはり単純な問いが大事です。戦争にYESなのか、NOなのか。こう単純に聞かれたならば、誰もがNOと答えます。戦争はない方がよいに決まっている。軍隊も武器も持たない方がよいに決まっている。先日、ある人がこんなことを言っていました。「私たちがどのような問題を考えるにせよ、考え方は非常にはっきりしている。自分の子どもに何を残すのか、何を残さないのか。そう考えれば、答えは自ずと明らかになる」。なかなか説得力のある考え方だと思います。子どもに何を残すか残さないか、次世代の人たちに何を残すのか残さないのか。このように単純に考えればすぐに答えができます。

しかし、残念ながらそうはならない。そう単純に考えられない。何かが邪魔をする。戦争はNOだと思っている。でも…、という言葉が後に続いてしまう。こういう状況なのだから、いざという時には武器を手にすることができるようにしておいた方がよいのではないか、だから条件付きでYESという答えが出てしまう。シンプルに考えればすぐに答えがでるのに、いろいろなものが邪魔をしてしまう。そういう考えに陥ってしまう。旧約聖書のコヘレトの言葉でも、真理をついた言葉が記されています。「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。」(コヘレト七・二九)。

真理と向かい合うことをしない。YESかNOか、はっきりと答えることをせずに曖昧にしてしまう。日本人は特にそういうところがあると思います。真理を追究することが苦手である。しかしそれは日本人だけの問題ではありません。アグリッパ王だけの問題でもありません。私たちの問題です。はっきりとせずに、ごまかしてしまう。その結果、おかしなことが生じてしまうのです。

その点で、パウロという人は、非常にはっきりとした人です。パウロは回心しました。回心体験を語りました。文字通り、百八十度、方向転換をした人です。最初は断固としてNOと言っていました。イエスという男が救い主だなんて、断固NOである。そのイエスという男を信じている者たちも断固NOである。そう考えて教会を迫害していたのです。ところが回心をしてYESになった。YESでもNOでもない、そんな曖昧なところにパウロはいたことがありません。今日の聖書箇所の一八節に「闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ」(一八節)とある通りのことが起こった。その中間はありません。

一四節のところに、「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(一四節)とあります。これは主イエスからの直接の声です。他の回心体験の箇所でも「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」(一四節)というような言葉はありましたが、「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(一四節)というのはここだけに出て来る言葉です。一体どんな意味があるのでしょうか。

とげの付いた棒というのは、牛を畑で働かせるときに用いられていたものです。牛にとっては動いて畑を耕さないと、とげの付いた棒で叩かれるわけですから、とても嫌なものです。嫌だからといってその棒を蹴っ飛ばしてしまうと、余計ひどい目に遭ってしまうことになります。ひどい目に遭いますから、とげの付いた棒をけるようなことはしなくなる。そもそも抵抗しても不可能だという意味の言葉です。

パウロとしては断固拒否、NOでした。キリスト者を迫害していました。しかしそれは、結局は無駄な抵抗でした。神に逆らいながらも、結局はまったく無駄な抵抗をしていた。主イエスと出会うことによってそのことに気付く。そしてNOからYESとなったのです。

私たちにとって、問われている信仰の問いは、イエス・キリストを私の救い主であると信じるか、信じないかという問いです。その問いに対してYESと答えるかNOと答えるか。ただそれだけです。信じてYESと答え、洗礼を受け、キリスト者になります。

キリスト者になりますと、いろいろな特権が与えられます。その特権には、いろいろな特権があります。自分はもう救われたとはっきりと言うことができる。救われるのか、救われないのか、そんな曖昧な中に立たされるのではない。私は救われた、YESであるとはっきり言えます。それだけではありません。神に愛されていると言うことができる。イエス・キリストに倣って生きることができる。そんな特権もあります。そしてもう一つの特権を、ここで挙げたいと思います。「わたしのようになりなさい」と言うことができる、そういう特権です。

今日の聖書箇所の二九節にこうあります。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」(二九節)。アグリッパ王よ、あなたも私のようになりなさいとパウロは勧めています。

この箇所だけではありません。パウロが書いた手紙の中にも、そのことが幾度となく出てきます。「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」(Ⅰコリント四・一六)。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(Ⅰコリント一一・一)。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(フィリピ三・一七)。

「倣う」という言葉を手掛かりにして聖書の箇所をいくつかお読みいたしました。神に倣う、主イエスに倣うという表現も出てきますが、パウロは何度も自分に倣う者となりなさいと、手紙の読者たちに語りかけているのです。

これはパウロだけの話ではありません。キリスト者ならば、誰もがこういうことができる。私に倣いなさい、私の真似をしてごらんなさいと言うことができるのです。もちろん、私に倣いなさい、真似をしなさいというのは、立派な私に倣いなさいということではありません。生活が整っている私の真似をしなさいというのでもありません。行いが清く正しい私でも、強い信仰を持っている私でもありません。

そうではないのです。パウロもそんな私に倣いなさいと言っているのではありません。そうではなく、イエス・キリストと出会い、回心した者としてパウロは言っているのです。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にお架かりになり、復活をしてくださったことを信じる。その信仰によって罪を赦され、救われる。そのことを信じている「私のようになりなさい」、「私に倣う者となりなさい」と言っているのです。

イエス・キリストを信じるのか信じないのか、YESなのかNOなのか。いろいろな条件を付けて、時には考えてしまうようなことがあるかもしれません。本当はYESなのだけれども、今の状況からするとYESとは言えない。しかしNOとも言えない。どうすればよいのか。シンプルに考えればよいのです。神があなたのために主イエスを救い主としてお与えになった、そのことを信じるのか。その問いにYESと言うだけです。他の言葉を加える必要はありません。

私はYESと言った、ただそれだけです。何か立派なことをしたわけではありません。だからあなたもYESと言ってごらんなさいと言うことができる。パウロと同じように、「私のようになりなさい」「私に倣いなさい」と言うことができるのです。キリスト者になることができる、キリスト者であることができるのです。