松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年6月15日(日)
説教題「神と人に対して、真っ直ぐ生きる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第24章1〜27節

五日の後、大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロという者を連れて下って来て、総督にパウロを訴え出た。パウロが呼び出されると、テルティロは告発を始めた。「フェリクス閣下、閣下のお陰で、私どもは十分に平和を享受しております。また、閣下の御配慮によって、いろいろな改革がこの国で進められています。私どもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて称賛申し上げ、また心から感謝しているしだいです。さて、これ以上御迷惑にならないよう手短に申し上げます。御寛容をもってお聞きください。実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます。」他のユダヤ人たちもこの告発を支持し、そのとおりであると申し立てた。
総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。 神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」 フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。
数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。だが、パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた。さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。

旧約聖書: 箴言 第3章1~6節

先週の礼拝では、使徒言行録とは別の箇所から御言葉を聴きました。今日は二週間ぶりに、使徒言行録から御言葉を聴きます。与えられた箇所は、第二四章の全体です。使徒パウロはこのとき、ローマへの旅の最中でした。旅とは言っても、私たちがするような旅ではありません。パウロは捕らわれの身となり、裁判にかけられ、各地をたらい回しにされていました。このときはカイサリアというところで、裁判にかけられていました。その裁判での話です。

この裁判の裁判官は、フェリクスという人物です。ローマ帝国の地方総督でした。政治家ですが、当時の政治家は裁判まで司ることになっていました。フェリクスはもちろんユダヤ人ではありません。しかしこの地方の総督ですから、ユダヤ人たちの間でなされる裁判にも慣れていたのでしょう。二二節のところには、「フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていた」とあります。「道」という言葉が使われています。一四節には「分派」という言葉もありますが、教会の人たちの信仰のことを「この道」と表現していたのです。フェリクスもこのことに関する知識を持ち合わせていました。

このフェリクスですが、具体的にどんな人物だったのでしょうか。聖書から分かる情報はそれほど多くありませんが、その人物像に迫ってみましょう。フェリクスの人物像を探るために、まず妻のドルシラの話をしなければなりません。「数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。」(二四節)。

ドルシラという人物は、ヘロデ・アグリッパ一世という人の娘です。主イエス・キリストがお生まれになったクリスマスのときに出てくるヘロデ大王の曾孫にあたる人です。ヘロデ大王以降、息子たちの間で領土が分割されて統治がなされていましたが、その子孫の一人がドルシラです。この人は一度、すでに結婚したことがあり、彼女の二番目の夫がフェリクスだったのです。

フェリクスはどうやらこのドルシラのことを、人妻だったときに大変気に入ったようです。そこで何をしたのかというと、魔術師を使って、最初の夫と離別するようにドルシラをそそのかした。その心を惑わし、彼女は結局、最初の夫から離反したようです。つまり、フェリクスは人妻を奪った。ドルシラも最初の正式な夫から離れて行った。二人とも、良心の呵責を感じながら生活をしていたところがありました。

フェリクスとドルシラはこんな人物でありました。今日のこの説教では、使徒パウロと、フェリクスとドルシラを対比させる形で、お話をしたいと思っています。パウロは、神に対しても人に対しても真っ直ぐに生きた人です。それとは反対に、フェリクスとドルシラは神に対しても人に対してもまっすぐに生きることができなかった。そんな人間模様をここに見ることができます。

本日、与えられた聖書の中心的な聖句として、一五節、二五節、一六節を、この順番に味わっていきたいと思います。まずは一五節ですが、こうあります。「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。」(一五節)。

パウロが裁判の席で言った言葉の一部です。正しい者も正しくない者も、みんなが復活するという希望を抱いているとパウロは言います。確かに正しい者が復活するというのは分かります。聖書の中にも、正しい者の復活がはっきりと書かれている聖書箇所が確かにあります。

他方で、正しい者も正しくない者も復活するということが言われている聖書箇所もあります。代表的なのは旧約聖書のダニエル書です。「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く、国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」(ダニエル一二・一~四)。

ここで言われていることは、多くの者が眠りから目覚めることですが、眠りから覚めた後に何がなされるのか。審判がなされます。「終わりの時」という言葉もありますが、皆が裁きを受けるために復活をするということが言われているのです。

私たちが礼拝の中で告白している使徒信条の中にも、このようにあります。「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」。少し古い日本語ですので、理解するのに苦労するかもしれません。「かしこ」は漢字では「彼処」と書きます。彼方の処(ところ)という意味で、自分たち今いる「ここ」ではない所という意味です。つまり主イエスは天に上げられ、今は天におられるわけですが、その天である「かしこ」から来られて、「生きる者と死ねる者」を裁くということが言われています。今、生きている者と、すでに死んだ者の両方を裁く、つまりすべての者を主イエスがお裁きになるということです。一五節のところでパウロが言っているのも、このことに他なりません。すべての者が裁かれるのだと言っているのです。

続けて、二五節に目を留めたいと思います。「しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。」(二五節)。フェリクスはパウロの話を聴いて恐ろしくなってしまいました。一緒にいた妻のドルシラも同じだったと思います。なぜなら、「正義や節制や来るべき裁きについて」語られたからです。やましいことがあれば、当然、恐ろしくなるでしょう。そのように恐れたフェリクスでもありましたが、続く二六節では「パウロから金をもらおうとする下心もあった」とあります。曲がったことをした上に、そんな曲がったことを考えていたと、使徒言行録を書いたルカはフェリクスのことを報告しているのです。

三番目に、少し戻って一六節を見てみたいと思います。「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」(一六節)。フェリクスやドルシラとは違い、パウロは神に対しても人に対しても良心を保つように努めていると言います。良心とは良い心と書きます。神にも人にも自分にも、真っ直ぐに生きる、そのことに努めるとパウロは言っているのです。

これらの三つの聖書箇所から見えてくることは、裁きのことです。審判のことです。神が私たちを裁く。そのことに関して、皆さまはどう思われるでしょうか。ある神学者がこのように言っています。「神の審判ということは、人の心が畏縮しがちな事柄である。われわれはすべて、できるかぎり審判という概念を水でうすめたいのである。しかもなお、審判がキリスト教における不可欠な教理の一つであるという事実は残るのである。」(バークレー『使徒信条新解』、二五四頁)。

もしかすると私たちはあまり裁きや審判のことを考えないかもしれません。あるいは、考えないようにしている、この神学者の言葉を借りれば「水でうすめたい」と思っていると言った方が適切であるかもしれません。自分が裁かれるとなると、どうもフェリクスやドルシラのことを笑えなくなってしまいます。この二人と同じように、良心の呵責があると思ってしまうからではないかと思います。

しかしこの神学者が言うように、裁き、審判というのは、私たちの信仰にとって不可欠なものの一つです。なぜなら聖書にはたくさん裁き、審判のことが書かれているからです。

主イエスも裁き、審判を前提にした話をたくさんお語りになられました。あるときにはタラントンの譬え話をされました。旅に出る主人から、五タラントン、二タラントン、一タラントンのお金を預かる。主人は旅に出て不在になります。五タラントン持っていた人も、二タラントン持っていた人も、それを元にして商売をし、倍に増やしました。しかし一タラントン持っていた人は、土の中に埋めておきました。主人が帰ってきます。自分が不在の間、どう過ごしていたのかが問われます。主人が帰ってきたときに、審判が始まるのです。

パウロが書いた手紙が新約聖書にたくさん収められていますが、パウロも裁き、審判のことをこのように書いています。いくつかの箇所から引用したいと思います。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」(ローマ二・五)。「人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」(ローマ二・一六)。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。…それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」(ローマ一四・一〇、一二)。「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみにだし、人の心の企てをも明らかにされます。」(Ⅰコリント四・五)。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないのからです。」(Ⅱコリント五・一〇)。

このように聖書の中にたくさん裁きや審判のことが書かれています。主イエスもお語りになられていますし、パウロも繰り返しそのことを語っています。その裁きのことを、私たちはどのように受け止めたらよいのでしょうか。私たちは福音を聴いているはずです。福音とはよき知らせです。聖書が語っている裁きや審判を、よき知らせとして受け止めるためには、どうしたらよいのでしょうか。

このことを考えるために、『ジュネーブ教会信仰問答』という本を取りあげます。今から五百年ほど前に、ヨーロッパで教会の改革運動が起こりました。その結果、プロテスタント教会が誕生したわけですが、スイスのジュネーブにある教会を改革したのがカルヴァンという人です。カルヴァンは改革をするにあたり、いろいろなことをしましたが、人々の信仰教育が最も大事であると考えました。その信仰教育をするために作られたのが、『ジュネーブ教会信仰問答』です。問いと答えを重ねながら、信仰の筋道を説いている本ですが、その中に使徒信条の解説が載せられています。裁き、審判に関して書かれているのは、問八六と八七です。

問八六 イエス・キリストがいつの日にか来られて、世をお裁きになるにちがいないということは、われわれに何か慰めを与えますか。
答 はい非常な慰めであります。彼が現われなさるのは、われわれの救いのためにほかならないことを、われわれは確く保証されているからであります。

問八七 それゆえ、われわれは最後の審判を、恐れおののくべきではありません。
答 まったくです。われわれの出頭すべき審判者は、われわれの弁護人であり、われわれの訴訟を弁護するために引き受けて下さった、そのお方以外ではないのでありますから。

問八六の答えで言っているのは、つまりこういうことです。裁かれることは、実は恐ろしいことではないと言います。恐ろしいどころか、慰めであると言います。なぜなら、裁かれる、審判を受けるということは、私たちの救いがはっきりすることだからです。「あなたは負うべき罪なし」「無罪」と宣言されるからです。必ずそう言ってもらえる、そのことが分かっていれば、裁きが慰めになるのだと言うわけです。

続く問八七の答えで言っているのは、私たちに「弁護人」が与えられているということです。このことははっきりとした聖書の根拠があります。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Ⅰヨハネ二・一~二)。

この聖書の言葉が私たちに告げているのは、私たちは確かに曲がった生き方しかできない罪人で、神からの審判のときに「お前は有罪だ」と宣告してしまうかもしれませんが、それでも「弁護者」が与えられているということです。この弁護者は、「私たちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」であると言います。「お前は有罪だ」と言われてしまったとしても、私たちの傍らから「いや、確かにそうかもしれませんが、この者の罪は私が代わりに背負ったから、赦してあげてください」と言ってくださる、そんな弁護者、イエス・キリストが与えられているのです。これが、私たちにとっての何よりのよき知らせ、福音です。

今日はフェリクスとドルシラの姿も考えてきました。曲がった生き方をしていた姿です。しかしそれは私たちの姿でもあります。むしろ聖書は私たち人間すべての生き方が曲がっていると言います。神から「お前は有罪だ」と言われてしまう生き方です。それにもかかわらず、なぜパウロは「私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」(一六節)と言えるのでしょうか。

「良心」という言葉が出てきました。良心とは良い心という意味ですが、辞書を引きますとこうあります。「何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識」(広辞苑)。善悪を判断する、それぞれの人が持っている道徳意識だと説明されています。つまり、自分の心の内にある道徳意識に従って行動することが、良心に従って行動することである。一般の辞書はそのように説明をしています。

しかし聖書が言う良心とは、これと少し違うところがあります。改めて一六節ですが、「神に対しても人に対しても、責められることのない良心」とパウロは言っています。パウロは第二三章の一節のところでも、「良心」という言葉を使ってこう言っています。「あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」(二三・一)。パウロは単に良心という言葉を使うだけでなく、「神に対しても人に対しても」「神の前で」という言葉と共に「良心」という言葉を使います。自分の内にその基準があるのではなく、パウロが持っていたのが神から与えられた基準だったからです。神と人に対する基準を良心としていたのです。

その基準を与えてくださった神が何をしてくださったのか。独り子であるイエス・キリストをお与えになってくださいました。独り子を十字架に架け、私たちの罪を代わりに負わせ、私たちのことを赦すと宣言してくださいました。なぜならイエス・キリストが弁護者だからです。罪を代わりに負ってくださった弁護者が、私たちの罪を弁護し、罪なき者としてくださいました。

だから、私たちのこの基準に従って歩むことができます。罪の赦しの基準に従って生きることができます。神がいつでも私たちのことを見ておられます。私たちを滅びへと裁くために、私たちの悪いところ、曲がったところを捜し出すように、恐ろしい目を見開いて、私たちのことを見ておられるのではありません。そうではなく、まったくその反対です。私たちを赦してくださる、そのまなざしが注がれています。私たちはそのような神の愛のまなざしの中で、安心して生きることができる。それがパウロの生き方であり、私たちキリスト者の生き方なのであります。