松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年6月1日(日)
説教題「困難を通り抜け、目的地へ前進」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第23章12〜35節

夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。彼らは、祭司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「わたしたちは、パウロを殺すまでは何も食べないと、固く誓いました。ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を設けて、彼をあなたがたのところへ連れて来るように、最高法院と組んで千人隊長に願い出てください。わたしたちは、彼がここへ来る前に殺してしまう手はずを整えています。」しかし、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。それで、パウロは百人隊長の一人を呼んで言った。「この若者を千人隊長のところへ連れて行ってください。何か知らせることがあるそうです。」そこで百人隊長は、若者を千人隊長のもとに連れて行き、こう言った。「囚人パウロがわたしを呼んで、この若者をこちらに連れて来るようにと頼みました。何か話したいことがあるそうです。」千人隊長は、若者の手を取って人のいない所へ行き、「知らせたいこととは何か」と尋ねた。若者は言った。「ユダヤ人たちは、パウロのことをもっと詳しく調べるという口実で、明日パウロを最高法院に連れて来るようにと、あなたに願い出ることに決めています。どうか、彼らの言いなりにならないでください。彼らのうち四十人以上が、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い、陰謀をたくらんでいるのです。そして、今その手はずを整えて、御承諾を待っているのです。」 そこで千人隊長は、「このことをわたしに知らせたとは、だれにも言うな」と命じて、若者を帰した。
千人隊長は百人隊長二人を呼び、「今夜九時カイサリアへ出発できるように、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せよ」と言った。また、馬を用意し、パウロを乗せて、総督フェリクスのもとへ無事に護送するように命じ、次のような内容の手紙を書いた。「クラウディウス・リシアが総督フェリクス閣下に御挨拶申し上げます。この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです。そして、告発されている理由を知ろうとして、最高法院に連行しました。ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。しかし、この者に対する陰謀があるという報告を受けましたので、直ちに閣下のもとに護送いたします。告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出るようにと、命じておきました。」さて、歩兵たちは、命令どおりにパウロを引き取って、夜のうちにアンティパトリスまで連れて行き、 翌日、騎兵たちに護送を任せて兵営へ戻った。騎兵たちはカイサリアに到着すると、手紙を総督に届け、パウロを引き渡した。総督は手紙を読んでから、パウロがどの州の出身であるかを尋ね、キリキア州の出身だと分かると、「お前を告発する者たちが到着してから、尋問することにする」と言った。そして、ヘロデの官邸にパウロを留置しておくように命じた。

旧約聖書: イザヤ書 第30章18~26節

本日、私たちに与えられた聖書箇所の直前にこう記されています。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」」(二三・一一)。これは先週の聖書箇所の最後のところになりますが、ここで出て来るのは主イエスです。

私たちが用いています新共同訳聖書では小見出しが付けられています。この小見出しはいつも申し上げているように、もともと聖書にあった言葉ではありません。便宜上、小見出しを付けているわけですが、このように小見出しを付けるためには、聖書本文をどこかで区切って、小見出しを付けなければなりません。新共同訳聖書では一一節までで一区切り、そして小見出しが入り、一二節が新たな区切りが始まっています。これだと一一節と一二節との間に断絶があるようですが、実際はそうではありません。もともと聖書にこんな区切りなどなかったのです。ですから一二節以下から御言葉を聴く私たちも、一一節を忘れるわけではありません。

一一節では主イエスが出てきます。夜、パウロに語りかけてくださいました。あなたはこれからローマに行かなければならない。先週の説教でもお話をしましたが、必ず行くことになっているという意味です。主イエスがそう約束されました。それならば、いつその約束が実現するのでしょうか。

いつ実現するのか。いつその時がやって来るのか。私たちはしばしば時間の問題を考えなければなりません。どう考えればよいでしょうか。聖書の中にも、時間に関することがしばしば取り上げられています。聖書ははっきりとした考えを持っていて、時間も被造物、つまり神によって造られたものであると考えています。

私たち人間は時間を支配することができません。時間の流れの中に生きており、時間を止めることも、戻すこともできません。時々、時間を買うことができると考えられることもあります。例えば、教会から松本駅まで行くときに、タクシーやバスや徒歩という移動手段が考えられます。教会から松本駅まで行くということだけ考えれば、お金によって時間も買えるのかもしれませんが、しかし根本的に人間に与えられている時間は変わらないわけです。私たち人間は生まれた時から死ぬときまで、時間の中に生きている。時間に支配され、年月を重ねていくのです。

他方で神は時間を造られ、時間の支配者で、時間に束縛されない方です。聖書にもそのような記述がいくつも書かれています。いくつか読んでみたいと思います。「日よ、とどまれ、ギブオンの上に。月よ、とどまれ、アヤロンの谷に。…日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。」(ヨシュア一〇・一二~一三)。太陽がずっと留まり、月が谷底にずっと留まり、ものすごく長い一日がであったことが記されています。

コヘレトの言葉にはこうあります。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時…人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コヘレト三・一、二、九~一一)。神が定められた時があるけれども、私たち人間にはその時をすべて知ることが許されていないと言われています。

イザヤ書には、ヒゼキヤという王が寿命を十五年、延ばしてもらったことが記されています。「そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て、「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』」と言った。ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた。主の言葉がイザヤに臨んだ。「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」ここに主によって与えられるしるしがあります。それによって、主は約束なさったことを実現されることが分かります。「見よ、わたしは日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を、十度後戻りさせる。」太陽は陰の落ちた日時計の中で十度戻った。」(イザヤ三八・一~八)。

新約聖書のペトロの手紙二では、主イエスが再び来られる再臨がなかなか起こらない、そのことをめぐってこう言われています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペトロ三・八~九)。

たくさんの例を聖書から読んできましたが、神は時間の支配者であり、時間に束縛されないお方です。神は御自分の意志で、時間を超えて私たちの間に働かれるお方です。私たちは時間を支配できませんので、しばしば私たちは遅いとか、まだか、などと感じるときがありますが、神の時があるわけです。

ルカによる福音書と使徒言行録を書きましたルカは、時を意識して書いている特徴があります。時の流れに沿った記述になっているのです。主イエスがお生まれになったクリスマスを「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録をせよとの特例が出た。」(ルカ二・一)と書いています。さらに主イエスが公の活動を始められた時期を「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」(ルカ三・一)と書きます。世界の歴史の時の流れの中に、主イエスの物語をしっかりと位置づけようと、時を意識しているのです。

私たちが御言葉を聴き続けている使徒言行録もそうで、時の流れを意識した記述になっています。今日の聖書箇所の冒頭に「夜が明けると」(一二節)とあります。前日は最高法院で裁判がなされました。その裁判が混乱し、夜になってパウロは主イエスの声を聴いた。そして次の日になりました。この日に起こった出来事が淡々と記されていくことになります。パウロに対する暗殺の計画が立てられた。しかしそれがパウロの耳に入り、若者を千人隊長のところへ遣わした。その千人隊長がパウロを守るべく、地方総督であったフェリクスがいるカイサリアへ向けて送り出した。時の流れに従って、ルカはそのように出来事を記していきます。

今日の聖書箇所の朗読をお聴きになられて、皆さまはどのようにお感じになられたでしょうか。ただいま申し上げた通り、出来事が淡々と記されています。ここから一体どのようなメッセージを聴き取ればよいのか、どのような信仰的な示唆を受けたらよいのか、もしかしたら多少、戸惑われた方もいらっしゃるかもしれません。

同じような戸惑いを感じているのは、私たちだけではありません。聖書学者や説教者たちも、戸惑いを感じている人が少なくありません。今日の聖書箇所は、信仰とはあまりかかわりのないような出来事が記されている、一体どんな信仰的なメッセージを汲み取ればよいのか、そう考えている人も多いのです。

そもそもルカはこの箇所において、何が伝えたかったのでしょうか。ルカは時の流れを意識しています。そうすると歴史的な記述を書くことが目的だったと言えるかもしれません。しかしもちろんルカは単に歴史を残しておくことだけが目的だったわけではないのです。やはり、説教の冒頭でも申し上げたように、一一節の記述を忘れるわけにはいきません。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」」(二三・一一)。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の二三節から、パウロのローマに向けての旅が始まっています。今までパウロは三回の伝道旅行をしてきました。今回が四回目ということになります。今回は自由な旅というわけではなく、裁判を受ける囚人として、鎖につながれての旅ということになります。主イエスが約束なさったとおり、自由は少し制限されているかもしれませんが、ローマへの旅が実際に始まって行ったのです。時の流れの中で、ゆっくりと、しかし着実に、少しずつ、ローマ行きが実現していったのです。

松本東教会で行われている集会に、祈りの会があります。水曜日の朝と木曜日の夜に行っています。ここしばらく、ずっと旧約聖書を連続して読んできました。最近はサムエル記上を読み進めています。毎回、一章ずつ、時には二章まとめてのときもありますが、現時点ではサムエル記上の終わりのところに差し掛かっています。いつも聖書を読んで、私が聖書に基づく話をしていますが、少し解説を加えながら、旧約聖書の物語を味わっています。

特に最近のサムエル記上の後半の聖書箇所を読んでいて、強く感じることがあります。それは、物事の進み方が非常にゆっくりであるということです。もちろん人間の目からすればゆっくりであると、私は感じているのです。

どういうことか。具体的にお話ししましょう。サムエル記上の後半は、ダビデという二代目の王になる人が、初代の王であったサウルという人から逃げ回っている話です。妬みに燃えて、サウルはダビデを殺そうとします。その手からダビデが逃げ回る。サムエル記上の真ん中あたりで、すでに神の御心が示されていました。初代の王サウルを退け、ダビデを新たな王に据える。しかしすぐにそれは実現しませんでした。サウルが追いかける、ダビデが逃げる、何度もそんなことが繰り返されます。

ダビデにとっては歯がゆい思いをしていたと思います。出口の見えないトンネルの中にいたかのようだったと思います。ある時は一年四か月も外国の地に暮らすことになります。しかしサウルは最終的に戦争に破れて戦死し、サムエル記下に入ってから、ダビデがいよいよ王になります。ゆっくりとではありましたが、着実に神の御心がなされていったのです。

逃げ回っている時のダビデにとって、いろいろな出来事をしなければなりませんでした。裁判を受けて、エルサレムやカイサリアなど、あちこちをたらい回しにされている時のパウロにとって、いろいろな出来事が起こっていきました。ダビデやパウロほどではないにしても、私たちの日常生活でも、様々な出来事が起こります。一日の終わりに立ち止まって、今日起こった出来事に何の意味があったのか、そんなことはあまり考えないかもしれません。考えたとしても、はっきりとその意味が分かることは少ないでしょう。

いろいろな小さな出来事があった。狭く考えると、この出来事に何の意味があったのか分からず、途方に暮れるようなときもあります。そんなときは、自分を包む大きな出来事に目を留める。聖書は私たちを、その方向へと導いているのです。

六月になりました。今月の二二日に、東京神学大学の芳賀力学長を松本東教会の説教者にお招きする予定です。また午後にも後援会が予定されています。芳賀先生のことに関しては、また改めてご紹介する機会もあるでしょうが、今日は芳賀先生が書かれた本を一つご紹介したいと思います。『大いなる物語の始まり』(教文館)というタイトルが付けられた本です。この本の序文のところに、こんな文章があります。「朝の目覚めから夕べに至る、誰の知る由もない断片と思われる、私だけの小さな物語…。しかし、それは実に、神が綴る壮大な物語の中に包まれていることを、聖書は告げる。今、大いなる物語が、あなたの中でその始まりを待っている。」(一〇頁)。

この本の中で、聖書の大いなる物語のことが語られ、自分の小さな物語をその中に位置づけることの大切さが書かれています。とは言っても、私の小さな物語に何の意味があるのか。何の価値があるのか。私たちはそう考えます。そのことを説明するために、かつてベストセラーにもなりました『ソフィーの世界』という本のことが取りあげられます。ある日、ソフィーという少女のところに、一通の手紙が届きます。その手紙には、たった一言「あなたはだれ?」と書かれていました。その手紙をきっかけにして、わたしっていったい誰なのだろうか、ソフィーの探究が始まります。

芳賀先生はその後で、こういうように書いています。少々、長いかもしれませんが、引用します。「私たちは自分が自分でわからないままに、ただその日暮らしを重ねながら、いつしか年をとって行く。そして、目先のことに気を取られているうちに、自分を取り巻く、狭く小さな世界の作り出す尺度によって物事を判断することに慣れ、本当はもっと豊かであるはずの自分の存在価値を見失ってしまうのである。一度、もっと大きなところから自分を捉え直してみたらどうだろう。あまりにも小さな文脈の中で自分というものを意味づけて終わってしまうのでは、まだ本当の自分が見えてはいない。もっと大きな文脈の中で自分を読み直すことによって、私たちは、自分が考えている以上に大きな道程の上にいる新しい自分を発見する。もっと大きな文脈とはすなわち、これまではまじめに意識したことなどなかったかもしれない、神との関わりの歴史という地平である。人生は、自分を本当に活かしてくれる、より大きな物語といかに出会うかによって決まる。聖書は、この小さな私たちを活かす、より大きな物語を提供しようとしている書物である。私たちがそこで出会うのは、狭い人間の社会が作りだしたのではない、神の大いなる物語である。」(一六頁)。

自分の小さな物語だけを見つめていても、その小ささに埋没してしまうだけである。私たちもソフィーのように探究しなければならない。芳賀先生はそこで、神の大いなる物語の文脈の中に、私たちの小さな物語が置かれたときに、大きな意味を持つようになると言います。裁判所をたらい回しにされていたパウロもそうでした。サウルの追手から逃げ回っていたダビデもそうでした。起こっている出来事一つ一つに目を留めていたとしても、一体何の意味があるのだ、それで終わってしまうかもしれません。芳賀先生によれば、「小さな文脈の中で自分というものを意味づけて終わってしまう」ことになりかねないのです。

そうではなくて、私たちはもっと大きな物語の中に、自分を位置づけることができる。本日、私たちに与えられた使徒言行録の聖書箇所もそうです。ルカがしていることは、時の流れの中でパウロに起こった一つ一つの出来事が、大きな文脈の中に位置づけられているということ。パウロが世界の中心地のローマへ行く。福音が広がる。教会が建てられる。そういう大きな文脈が見えなければ、今日の聖書の話を聴いたとしても、ああ、パウロは苦労しましたね、で終わってしまうと思います。

大きな物語に目を留めましょう。大きな文脈で自分を理解しましょう。聖書が私たちに伝えているのは、神がこの世界をお造りになり、私たちもお造りになったことです。私たちが神に対しても隣人に対しても真っ直ぐに生きることができなくなってしまいましたが、イエス・キリストという救い主が与えられ、私たちは真っ直ぐに生きることができるようになりました。やがてイエス・キリストが再び来られ、神の国が完成されます。これが大いなる物語です。

この神の御業はゆっくりと進展してきました。世界が造られて、イエス・キリストが十字架にお架かりになるまで、一体どれくらい経過したでしょうか。想像もつかないような、途方に暮れるような年月です。教会の歩みが始まってから、どのくらい経過したでしょうか。二千年ほどです。私たちにとって、長すぎるとか、遅すぎるとか、時間がかかりすぎるとか、時間の問題もあるかもしれません。しかし神はいくらでも時間をお持ちであり、時間の支配者です。神の時があります。私たちの目にはゆっくりとでも、少しずつ、しかし着実に神は進めてくださっています。

今日の説教の説教題を、「困難を通り抜け、目的地へ前進」と付けました。困難は確かにたくさんあります。しかし私たちは着実に、一歩ずつかもしれませんが、目的地へ前進していくことができます。私たちは神の大いなる物語という大きな文脈に位置づけられているからです。小さな歩みでも、一歩ずつ進んでいくことができるのです。