松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年5月25日(日)
説教題「キリストを証しして生きる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第22章22〜第23章11節

パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだったので、千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るため、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。千人隊長が、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言うと、パウロは、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言った。そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。
翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。 そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

旧約聖書: 詩編 第71編

牧師として歩む中で、私にたくさんの大切な務めが与えられます。その中で大切な務めの一つでありますが、まだ洗礼を受けておられない方を導くという務めがあります。まだ洗礼を受けておられない方を求道者と言いますが、その求道者の方々から、たくさんの質問を受けます。その質問に答えながら、聖書を開きながら、その方を神が導いてくださるように祈るのです。

最近もたくさんの質問を受けましたが、その中から二つの質問を取りあげたいと思います。一つ目の質問は、キリスト者は人の罪をどう考えるか、という質問です。自分が罪人だということもなんとなく分かるけれども、他人の罪が目に留まることがある。自分の身近な人もそうであるし、新聞やテレビのニュースにもたくさんの罪人が出てくる。その罪人をキリスト者はどう考えているのかという質問です。

私はこう答えました。キリスト者はそのような罪人が目に留まったとき、決してその人が自分と違うと考えたり、その人を直ちに断罪したりするようなことはしない。むしろ、自分の中にも同じ罪があると考える。新聞やテレビのニュースに出てくる人は確かに一線を越えてしまったけれども、自分も状況がそうではなかっただけで、一線を越える可能性はいくらでもある。人の罪を他人事として見るのではなく、自分も同じ罪人であると考える。そう答えました。

私が受けましたもう一つの質問は、こんな質問です。教会では罪ばかりが強調されるが、それは一体どうしてか、という質問です。その質問をされた求道者自身の話ではありませんが、知り合いが何度か教会に通ってみたけれども、毎回のように「あなたは罪人です」と言われる。それに嫌気が指してしまった、ということのようです。

私も少々困まってしまい、こう答えました。それは牧師、説教者の責任かもしれません。確かに聖書には人間の罪を覆い隠すことはせず、はっきりと罪を指摘しています。しかし聖書がもっと強調していることは、その罪がイエス・キリストによって赦されたということ。牧師、説教者が後者を強調するのではなく、つい前者を強調してしまった結果ではないか。本当ならば、罪の赦しの恵みこそが強調されるべきであった。自己反省も含めて、そう答えました。

これら二つの問いを合わせて考えてみますと、キリスト者はこのように考えることができます。まずは、自分も他人も皆が罪人であるということ。これに例外はありません。しかしキリスト者はその罪が赦されている。これにも例外がありません。このことだけは、皆が共通なのです。人それぞれ、洗礼への導かれ方や、教会生活など様々であるかもしれません。しかしこれらの共通点がある。それもまた事実です。

使徒言行録から御言葉を聴き続けています。もう終盤です。使徒言行録の中盤から後半にかけては、使徒パウロが多く出てきます。パウロのことを、皆さんは身近に感じるでしょうか。特別な務めが与えられていますので、ずいぶん遠い人だ、そう思われている方も多いと思います。しかし同じキリスト者として考えるならば、そうではないのです。パウロも罪人。そしてその罪を赦されて、恵みに生かされている。その点はパウロも、私たちも、キリスト者であるならば誰もが共通なのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、パウロが逮捕されてしまったときの出来事が記されていますが、しかしそれに負けない力強い歩みが記されています。けれどもパウロだけの強さとしてこの聖書箇所を読むのではなく、キリスト者としての誰もが共通に持っている歩みを読むことができます。

パウロはここで二つの知恵を用いて、この困難なときを乗り越えています。一つ目の知恵は、第二二章二五節のところです。「パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」」(二二・二五)。パウロは鞭で打たれそうになって、自分がローマ帝国の市民であることを明かしているのです。

当時のローマ帝国の市民には、様々な特権が与えられていました。市民であれば、ローマ皇帝の保護の下に置かれていることになります。何か問題が起こったときに、ローマ皇帝の裁判を受ける権利がありました。パウロはその後、この特権を用いて皇帝に上訴し、ローマへいよいよ行くことになります。

そしてもう一つの別の特権は、裁判なしで鞭打ちなどの拷問を受けないというものです。それゆえ、ここでは鞭打ちを免れることができたのです。千人隊長は「多額の金を出してこの市民権を得たのだ」(二二・二八)と言っています。ある程度、兵役に就けば、市民権を得られたそうですが、「金を出して」というのはどうやら賄賂のようです。それほど苦労して得たものなのに、パウロは「生まれながらローマ帝国の市民」(二二・二八)であると言っています。この効果によって、パウロは鎖を解かれたのです。

しかし千人隊長はそれでもパウロをすぐに自由にさせるわけにはいきません。自分が管理する領内で騒動が起こっては困るのです。パウロがなぜユダヤ人たちからこんなに非難を受けているのか、その理由を知りたいと思いました。そこで最高法院という議会を招集したのです。ユダヤ人たちの間で議論をさせれば、その論点が見えてくるだろうと考えたのです。

最高法院の議長は、大祭司であるアナニアという人物です。この人はあまり評判がよくなかったようです。聖書以外の他文献からにも、そのような評価が書かれています。パウロは「白く塗った壁よ」(二三・三)と言っています。聖書の中にも似たような表現があって、例えば主イエスも「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」(マタイ二三・二七~二八)と言われています。

さらに旧約聖書のエゼキエル書では「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。豪雨が襲えば、雹よ、お前たちも石のように落ちてくるし、暴風も突如として起こる。壁が崩れ落ちれば、『先に施した上塗りはどこに行ったのか』とお前たちは言われるに違いない。」(エゼキエル一三・一〇~一二)と記されています。つまり、白く塗るとは、本来ならば悪いものにもかかわらず、うわべだけを繕う。偽善ということです。大祭司に対して大胆にもそう言っているのです。

その最高法院での審議も進んでいきました。パウロが用いたもう一つの知恵は、第二三章六節のところです。「パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」」(二三・六)。「死者が復活する」、忠実に翻訳すれば「死者たちが復活する」ということです。死んだら終わりではない。イエス・キリストが復活したように、私たちも復活する。私たちキリスト者の信仰をストレートに表わしている言葉です。

なぜこんなことをパウロが言ったのか。その理由も使徒言行録を書いたルカが残してくれています。「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。」(二三・六)。パウロは自分が裁かれていたわけですが、議会を二分していたファリサイ派とサドカイ派の相違点を持ち出し、その二つのグループの争いにしてしまったのです。その結果、議会は収拾がつかなくなりました。パウロの裁判をするどころの話ではなくなってしまったのです。

パウロはこういうようにして、この事態を乗り越えていきました。同じような状況に立たされたとき、私たちはどんなことを語るでしょうか。何を語ればよいのでしょうか。パウロの状況は、私たちが直面するような状況とかけ離れている、そう思われるかもしれません。しかし、相手に対して、どう弁明しようか、どう説得しようか、その状況には変わりはありません。

先週の説教でも学びましたように、パウロは積極的に弁明や説得はしていません。その代わりに、自分の回心の体験を話しています。つまりキリストを証ししているわけですが、信仰をストレートに言い表しているのです。今日の聖書箇所の最後のところにも、こうあります。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」」(二三・一一)。主とは主イエスのことですが、主イエスがパウロに対してこう言われたのです。ここエルサレムであなたは確かに私のことを力強く証しをした。パウロは自分の回心体験を語ったり、死者が復活する望みを語ったりしただけですが、主イエスはそれが証しであると認めてくださったのです。

さて、それでは私たちが証しをするにはどうすればよいか、そのことを考えてみたいと思います。そのために一冊の本の紹介をいたします。アメリカで書かれた本ですが、日本語に翻訳がなされ、『教会を必要としない人への福音』(ウィリモン、平野克己・笠原信一訳、教団出版局)というタイトルが付けられた本です。少しチャレンジングなタイトルの本であると思います。

この本はアメリカの教会の現状をよく表している本です。アメリカはキリスト教国として知られていますが、教会にかつてほどの勢いがなくなってきている。なぜかと言うと、教会から離れる者が多くなっているからです。けれども教会から離れると言っても、離れて行った人が信仰を失っているかと言えば、どうもそうではないようです。教会で幼児洗礼を受ける、教会で結婚式を挙げる、教会で葬式を行う。そういうことは普通になされています。人々が神を信じなくなったのではなく、神は信じている。けれども教会に来ない。そんな状況が増えているようです。

この本が書かれたのには、明確な意図があります。この本の序のところにこうあります。「私は牧師として、満ち足りていて幸せそうに見える人びとに会うことがよくあります。そのような人たちは、金持ちであることもありますし、貧しいこともあります。ビジネスや専門職の世界でリーダーとして活躍している人もありますし、どちらかと言えば控えめな役割で自分の仕事に励んでいる人もいます。しかし、私がお話ししようとしている人たちには共通した特徴があります。それは成熟しており、個人としての強さを備えている、という点です。…私の経験によれば、このような人たちは教会とよい関係にはありません。…実際には、こうした人たちは教会に対して、「ありがとう。けれどもお断りします。私は教会なしにやっていけますから」と答えます。そのことを責めることはできないと思います。」(四~五頁)。

この本を書いたウィリモンという人はこう言っているわけですが、このような教会なしでやって行ける、私の生活に教会は特に必要ないと思っている人に対して、どう語りかけていくのか、それがこの本の一大テーマです。

ウィリモンは教会の問題点を指摘していきます。教会でしばしば「証し」というものがなされます。その証しがしばしばワンパターンになっていて、それが問題になっていると指摘するのです。「私は惨めな人間でした。そのとき私は主イエスを見出しました」。この証しの問題点がお分かりになるでしょうか。ウィリモンは牧師が語る説教も問題だと言います。「あなたには問題(罪)があります。その解決策が福音を受け入れることです」。

ウィリモンは自分もこういう説教をしてきたという反省をしながらも、自分にはこのようなパターンの証しはできないと言います。自分には人に話せるような劇的な体験はなかったし、むしろ信仰のぬるま湯に浸ってきた。そこで、ウィリモンはあえて自分が今までしてこなかった証しを本の中に書いています。抜粋をして、ご紹介します。

「私が生まれたのはそれなりに幸せな家庭でした。私は…祖母の大切にしていた銀製の鉢によって洗礼を授けられました。…あるとき祖母に、ぼくはキリスト者なの、と尋ねたことがあります。祖母は答えてくれました。「もちろん、あなたはそうよ」。その答えは、自分にとって適切だし、自然に感じたのです。…私にも反抗のようなことをした時期がありました。高校生の頃、聖書と信仰についてたくさんの疑問を持ったことを思い出します。…善良そうな信徒たちが…残酷なことをするのを見て、幻滅したこともあります。…〔しかし〕数々の経験が、信仰という元の場所に連れ戻してくれました。…私たちの信仰は、生きている間、つま先立ちになって眺めをよくし、首を伸ばして少しでもよく見えるようにすることだけで十分であることがわかったのです。…簡単に言うならば、私は何の用意もないままで、信仰に捕えられたのです。キリスト信仰の言葉のなかに、それまでの私が聞きたいと望んでいた強靭なチャレンジ、高いところから来る呼びかけ、強い声を聞き取り、私は驚かされたのです。」(二六~二九頁)。

ウィリモンがこの証しの中で言っているように、一方的に信仰に捕えられた。気が付くと神を信じ、キリストと結ばれていた。私が選び取ったのではないということです。「私は惨めな人間でした。そのとき私は主イエスを見出しました」という証しでもなく、「あなたには問題(罪)があります。その解決策が福音を受け入れることです」でもないのです。惨めさや問題を抱えて自分が選び取ったのではなく、むしろ神に捕えられたというのが、適切な証しであり、適切な説教であると言うのです。

パウロもそうでした。清く正しく、そして人一倍熱心に生きていると自負していました。イエス・キリストを信じるキリスト者など、自分が歩んでいる道から外れている、その者たちを許すことができなかった。それゆえ回心前は迫害に熱心だったのです。キリストと出会う前、パウロに惨めさがあったとか、満ち足りていなかったとか、パウロはそんなふうには思っていなかった。

実際にパウロが書いたフィリピの信徒への手紙の中で、パウロはこう言っています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ三・五~八)。

パウロはキリストをお迎えする準備など、何一つしていなかったのです。それはパウロだけではなく、ペトロも他の弟子たちもそうでした。ザアカイもそうでした。けれどもキリストが捕えてくださった。それが私たちの本当の証しであり、教会が伝えるべき本当のメッセージなのです。

たとえ私たちがどのような歩みを送っていようとも、キリスト者である限りは共通点があります。罪人であり、しかしその罪が赦されているという共通点です。キリストが私たちを捕らえてくださいます。力強く私たちを導いてくださるのです。

最後に、再び第二三章一一節の主イエスのお言葉に目を留めたいと思います。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(二三・一一)。「ローマで証しをしなければならない」と主イエスは言われます。「…しなければならない」という言葉は、元のギリシア語では、新約聖書の中で一〇一回も使われています。その中でルカが書きましたルカによる福音書と使徒言行録の中で、四〇回も用いられています。ルカが好んで使った言葉というわけです。

例えば、ルカによる福音書第一九章にありますザアカイの話。主イエスはザアカイに言われます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ一九・五)。実はここにも「…しなければならない」という言葉が使われています。しなければならない、することになっている、必ずそうなる、という意味です。神の意志が、主イエスの熱意が込められているのです。キリストに捕えられ、キリストによってローマへと連れて行かれるパウロです。パウロが知恵を用いて乗り越えているようですが、しかし実は乗り越えさせてくださったのは、キリストの熱意なのです。

このパウロと同じように、私たちも証しをすることができます。毎週、夕礼拝が終わった後に、私がしている作業があります。それは私の説教の原稿を発送する作業です。もちろんこれは単なる作業ではありません。特に先週は「おとずれ」が発行されましたから、教会員だけでなく、求道者、教会外の方を含め、一〇〇通以上の発送作業をしました。

そうするとしばらくして、お手紙などをいただくことがあります。その手紙を私は嬉しく拝見いたします。その手紙の中に、小さな証しがいくつも書かれているのです。説教や「おとずれ」を読んで、何十年も前の自分の洗礼を思い起こした。今振り返ると、その洗礼の恵みによって、罪の赦しによって私は生かされてきた、感謝である。そんな文を読みますと、私も励まされます。パウロだけではない。牧師だけでもない。神の恵みに生かされている私たち一人一人が、キリストを証しする、小さな証し人となることができるのです。