松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年5月18日(日)
説教題「回心体験」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第21章37〜第22章21節

パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。 「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。 わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』 すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」

旧約聖書: エレミヤ書 第1章4~10節

本日の説教の説教題を「回心体験」と付けました。回心とは、回るという字に心という字を付けるわけですが、ちょっとだけ心を入れ替えるというようなことではありません。文字通り、心を回すほどの変化が生じる。神と正反対を向いていたのが、神の方に向き直る。イエス・キリストを信じていなかったのが、イエス・キリストを信じるようになる。そういうことです。

この回心という言葉に「体験」という言葉を付けて説教題にしました。体験と似たような言葉に「経験」という言葉があります。意味も似ているわけですが、しかし結構大きな違いがあり、厳密に区別されて使われることも多い言葉です。「体験」と「経験」ではどう違うのでしょうか。

言葉の意味を調べたいときは、何と言っても広辞苑です。引いてみますと、このようにあります。体験は「自分が身をもって経験すること」とあります。体験とは、自分がどっぷりとその出来事の中に浸らなければ得られないということになります。経験も調べてみますと「人間が外界との相互作用の過程を意識し自分のものとすること」とあります。なんだか難しいことを言っていますが、要するに、私たちの外からやって来るものを意識して自分のものにするということです。自分がどっぷりとその出来事に浸らなくとも、経験はすることができるということになります。

例を挙げてみましょう。あまりあって欲しくない話ですが、交通事故を体験するとも言いますし、交通事故を経験するとも言います。それらの言葉遣いから、どのようなことをお考えになるでしょうか。自分が自転車に乗っていて、追突されて交通事故に遭う、病院に運ばれて入院をする。これは交通事故を体験するのです。自分が当事者になり、どっぷりその出来事に浸る。これが体験です。しかしそうではなく、たまたま事故現場を目撃し、一一九番通報をする。当事者ではないかもしれませんが、交通事故を目撃したことにより、経験をすることはできるわけです。

この例と同じように、お年を召された方から「戦争体験」を聴くことがあります。「戦争経験」とも言うかもしれませんが、実際にその方がどっぷりと戦争の出来事に浸ったのですから「戦争体験」と言った方がよいでしょう。中学生が高校を選ぶ際に、「体験入学」をすることができます。本人が身をもってその出来事を味わうわけですから「体験入学」です。「経験入学」とは言いません。

このように考えていきますと、より積極的な参加がある方が「体験」ということになります。「経験」はその出来事にどっぷり浸っているかどうかよりも、そこから感覚や知覚をもって自覚していったものということになります。

この世の中では、体験と経験とどちらが良いのか、状況によりけりで一概に言えないかもしれません。しかし聖書や神学の分野においては、経験よりも体験の方が重視されます。『キリスト教大事典』(教文館)という事典がありますが、体験と経験について、いろいろなことが書かれています。体験のところに、「より多くの意識と自我の積極的参加をふくむ点で経験と区別される」とあります。体験は、経験より積極的参加が必要です。経験はその出来事と少し距離があるわけです。聖書や信仰のことを、ああ、そうなんだと思えば経験になりますが、頭で理解しただけで信じていないこともあり得るのです。しかし体験は違います。自分の身をもって信じる、そうなると体験になります。

だから、本日の説教題を「回心体験」と付けました。体験という言葉が重視されるのです。大事なのは、信仰を「経験」することではなく、信仰を「体験」することなのです。

パウロも、本日、私たちに与えられた聖書箇所において、自分の回心体験を語っています。実際のパウロの言葉は、第二二章に入ってからです。一節のところに「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください」とあります。ここに「弁明」という言葉が用いられています。新約聖書の元の言葉であるギリシア語でも、英語でも、ほとんど同じ言葉で、英語だとapologyという言葉です。弁明、弁解、擁護と日本語には訳されます。

英語でapologiaという言葉がありますが、これは弁明書という意味です。弁明のための本ということですが、キリスト教会の歴史において、この弁明書がたくさん書かれました。二世紀から三世紀にかけて活躍したテルトゥリアヌスという人も、この弁明書(『護教論』)を書きました。なぜそんな本を書く必要があったのか。教会の外の人たちから誤解され、迫害されていたからです。外の人から、キリスト者は人間の肉を食べ、人間の血を吸っている不気味な奴らだと誤解されてしまったのです。礼拝をしている建物の中から、「これは…の体、これは…の血」という声が聞こえてきます。だからそんなふうに思われてしまったわけです。それに対する弁明を書いた。この出来事は聖餐式であって、実際の人間の肉や血ではなく、キリストの十字架を想い起こしてこのようなことをしている、と書いたのです。誤解に対して、きちんと弁明をしているわけです。

ところが、パウロの弁明はどうでしょうか。「弁明を聞いてください」(二二・一)と言っておきながら、ほとんど弁明はしていないと言えます。もしきちんと弁明する気があるのならば、自分は異邦人をエルサレム神殿に連れ込んでいないと言うはずですし、その証拠も挙げるはずです。誤解をきちんと解くための言葉を語るはずです。しかしそういう弁明はしていない。むしろ、自分の回心体験を語っている。

三節のところにこうあります。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」(二二・三)とあります。自分の生まれ、育ち、教育を述べ、あなたたちと同じだと言っています。また一七節では「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり」(二二・七)とあります。神殿で祈ることも大事にしていると述べているのです。このように、ユダヤ人に対する弁明的な要素も織り交ぜながらも、実際のところは回心体験を語っていることになります。

パウロはユダヤ人として、普通に歩んでいました。いや、そうとう熱心なユダヤ人として歩んでいました。それがよかれと思っていたわけですが、主イエスと出会う。今までの自分がしてきたことは大きな罪であったと気付き、回心をします。洗礼を受けます。伝道者になります。その身をもってした体験をここで語っているのです。

このような回心体験を語っているのは、この使徒言行録第二二章の箇所ばかりではありません。使徒言行録の第二六章でもそうですし、パウロが書いた手紙であるガラテヤの信徒への手紙第一~二章、フィリピの信徒への手紙の第三章にも、回心体験を語っています。おそらく聖書に記されなかったところでも、パウロは何度も繰り返し語っているのは確実だと思います。たった一度の回心体験ですが、その体験がその後のパウロの歩みを支えることになったのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、エレミヤ書の冒頭の箇所になります。エレミヤが預言者としての召命を受けた箇所です。預言者とは、神の言葉を預かり、人々に伝える務めに召された人のことです。エレミヤはこのようにして預言者になったわけですが、この召命体験が生涯の支えになりました。

オランダの画家であったレンブラントという人がいます。この人は聖書のいろいろな絵を描きましたが、預言者エレミヤの絵も描きました。エレミヤ自身の姿を描いたのですが、髪も髭も真っ白な老人として描いています。左手を左頬あたりに当て、苦悩を浮かべた顔を左手で支えるようにしています。実際のエレミヤがどんな人物で、年齢がどれくらいで、どれくらいの期間を活動したのかはよく分かりません。「若者にすぎない」(エレミヤ一・七)という言葉もありますが、レンブラントは老人の姿で、苦悩な表情を浮かべるエレミヤを描きました。

エレミヤ書は第五二章まである比較的長い書簡です。預言者エレミヤに多くの苦難があったことが語られています。特に第二〇章では、エレミヤ自身が揺らぐような思いを告白しています。それでもエレミヤは、葛藤しながらも預言者として立ち続けた。第二〇章七~九節にこうあります。「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」(エレミヤ二〇・七~九)。

悔い改めないと国が滅びる、と語ったエレミヤでした。とんでもないことを言う奴だ、と非難されます。そんな状況の中、もう預言者として語ることができない、預言者をやめてしまおう、その気持ちに傾いたエレミヤでしたが、神である「あなたの勝ち」であり、「わたしの負け」であることをエレミヤは認めるのです。預言者として立ち続けることができたのです。なぜか。召命体験があったからです。一度限りですが、大きな体験であり、それが支えとなりました。その体験は単なる過去ではありません。今にも生きている体験です。今を支えている体験なのです。聖書は、そういう体験がエレミヤにもパウロにもあったと伝えているのです。

本日、おとずれ二五六号が発行されました。毎回同じことを言っていますが、今回のおとずれは今までの中で最もよいものができたと思っております。ぜひ隅々までお読みいただきたいと思います。

おとずれでもそうですし、私たちの教会生活の中で、今年が教会設立九〇周年であることが意識されるようになってきました。先日のイースターの祝会の中でもそうですし、私の説教の中でも触れることがありますし、皆さまの会話の中でも出てくることも多くなりました。九〇年から一〇〇年がどのような歩みとなるのか、一〇〇周年のときにどんな教会となっているのか、そのことはよく分かりません。現時点では神のみがご存知です。ただし一つだけ決まっていることがあります。もっとも決まっていると言っても、長老会などで正式に決まっているわけではありませんが、一〇〇周年に合わせて『一〇〇周年史』を作る、ということです。

松本東教会には『七〇年史』があります。七〇周年に合わせて作られた、教会の歴史が綴られた書です。私にとって改めて開いたり読んだりすることが多い、『七〇年史』はそんな書です。とてもよい書だと思います。なぜでしょうか。それは過去の出来事が綴られていながらも、決して過去のことだけで終わることがない、今を歩んでいる者に糧となる書だからです。

この『七〇年史』の最後のところには、年表などがありますが、単なる資料ではありません。教会にどのような喜びや感謝があり、どのような課題があったのか、教会の人たちが神に導かれながら、どのように課題と向き合い、考え、歩んで行ったのか、そのことがよく分かる書になっている。単なる過去の出来事では終わらず、教会の体験が綴られていると言ってもよい。その体験に今の教会も支えられている。だから、今の私たちにとっても、とても読み応えのある書になっているのです。

『七〇年史』と同じように、『一〇〇周年史』を発行したいと願っております。過去の出来事を単に羅列して書くのではなく、やっつけ仕事として発行するのでもなく、教会としての体験を書きたいと願っています。

ただ今は『七〇年史』、『一〇〇周年史』の話から、教会としての体験の話をしました。この話をキリスト者としての体験の話に移すとすれば、キリスト者の最も大きな体験は、洗礼体験になります。本日の使徒言行録の聖書箇所の第二二章一六節にこうあります。「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」(二二・一六)。パウロは回心体験を語っていますが、私たちキリスト者も、回心体験を語るに際して、洗礼体験を語らずに済ますことはできません。回心体験、イコール洗礼体験と言っても過言ではないのです。

私たちが信仰を持ってキリスト者として歩み始めるとき、必ず洗礼を受けることになります。洗礼を受けずとも、ただ心に信じていればよいのではないか、そう思われる方もあるかもしれません。しかし一度は信じたとしても、その後、私たちが揺らいでしまうことは、大いにあり得ることです。洗礼に限らず、一度こうしようと決意を固めた私たちが、もう明日には決意が揺らいでしまう、そんなことはよくある話です。人間は弱いのです。カルヴァンというジュネーブの教会を改革した人は、このような人間の弱さゆえに、神は洗礼を定めてくださったのだと言います。弱い私たち人間のために、目に見える確かなしるしを、キリスト者としての証しを立ててくださったのです。

回心と洗礼はコインの表裏のようなものです。回心したからには洗礼を受け、洗礼を受けたからには回心をすることになるわけです。今日は冒頭で辞書や事典の話をしてきましたが、『キリスト教組織神学事典』(東京神学大学編)で「回心」という言葉を引いてみると、このように記されています。少し長く、難しいところもありますが、抜粋してお読みしたいと思います。

「一般的には回心を神の自由な、かつ先行的な恩寵行為に由来するものとして理解することが適当とされる。それにしても回心はキリスト者各自の深く内的な体験として自覚的にとらえられるものであるから、それはむしろいきいきとした信仰生活の過程において、自覚的回顧的にその姿を鮮明化していくと考えることができる。回心は過去の思い出としてではなく、つねに現在の出来事として保持されるといっても過言ではないだろう。ただ一度の回心が現実存在として持続し、そのつど出来事としての同時性をくりかえす」。

私たちが回心をすることができる、つまり洗礼を受けることができるのは、ただ神の一方的な恵みを私たちが受けたからであり、しかもその回心体験は一回限りかもしれませんが、過去の思い出としてではなく、常に今の出来事として保持される。この事典ではそう言うのです。ああ、自分は洗礼を受けた、回心した、キリストのものとされた、罪赦された、神に愛されている、そのことはいつも変わらない出来事として、いつまでも保持されるのです。

カルヴァンと並んで、もう一人の改革者であるルターという人物も、生涯、洗礼体験に支えられた人です。カトリック教会を結果的に離脱することになる改革運動を進めていったルターは、様々な非難を受けます。身の危険を感じることもしばしばありました。エレミヤのように、何度も苦悩のうちに立たされたのです。やはりエレミヤと同じように、もう改革運動をやめてしまおうか、そういう思いにもさせられた。しかしここでルターを立ち直らせたのは、自分の洗礼体験でした。そうだ、自分は洗礼を受けている、キリスト者だ。そのことを思い起こし、そこに立ち返り、改革運動を続けて行ったと言われています。

使徒言行録に後半にメインで登場するパウロはどうでしょうか。パウロは強い人物でしょうか。弱さを持っている人物でしょうか。使徒言行録には、その他のパウロが書いた手紙の中には、両方の面が書かれています。パウロは確かに弱さを持っていました。エレミヤやルターと同じです。しかしなぜこんなに強いのだろうかと思えるような、パウロの強い面もたくさん書かれています。今日の使徒言行録の箇所などもそうです。パウロの強さが表れているとすれば、パウロには回心体験があったから、洗礼体験があったからに他なりません。

洗礼を受けている皆さまに、特に申し上げたいと思います。皆さまはすでに洗礼を受けられた方です。回心体験、洗礼体験があります。自分は洗礼を受けている、確かにキリスト者、神に赦されている、愛されている、そのことをはっきりと言える者たちです。この体験が、私たちにどんなことが起ころうとも、支えになるのです。

洗礼をまだ受けていない方もここにおられます。ぜひ洗礼を受けてください。回心、洗礼を、単なる経験ではなく体験してください。洗礼を受けないということをもし決断するとすれば、それは神を捨てて、すべてを自分あるいは他人、つまり人間の力だけでやっていく決意表明になってしまいます。しかしそこに救いはありません。なぜなら、私たち人間は自分自身を救い得ないからです。

洗礼は、神が与えてくださる体験です。人生でたった一回限りです。しかし生涯消えることのない体験になります。この体験によって生涯が支えられ、何度でもここに立ち返ることができる人生の原点になります。すべての人がこの体験を得て、歩むことができますように。