松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20140511

2014年5月11日(日)
説教題「誤解を乗り越える」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第21章17〜36節

わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。
七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。

旧約聖書: 創世記 第39章1~23節

私たち信仰者が聖書とどのように向き合っていけばよいのか、先日そんな質問を受けました。聖書は私たち信仰者にとって欠かすことができないものです。日曜日の礼拝にも欠かせません。必ず聖書が朗読されます。聖書を通して、神の言葉を聴きます。しかし聖書は日曜日だけのものではありません。日々の生活で聖書を開いて読むことも大事になります。どのくらい読んだらよいのか、人それぞれ違いますので一概に答えることは難しいのですが、要するに聖書に親しむ必要があります。

聖書には、たくさんの人たちが出てきます。神の導きを受けた人が出てきます。祝福を受けた人が出てきます。悩んだ人が出てきます。罪を犯した人が出てきます。たくさんの登場人物の中に、自分と似ている人もあれば、そうでない人もいるでしょう。そんな登場人物たちの生き方から、自分の生き方を考えさせられ、探っていくことになります。自分は一体どのように考え、語り、行動すればよいのか。聖書に親しむことによって、自分の生き方を得ていくのです。

私たちは使徒言行録から御言葉を聴き続けています。使徒言行録には、最初期の教会の様子が記されているわけですが、最初期のキリスト者たちの歩みが記されていることになります。そのキリスト者たちがどのように考え、判断し、歩んだのか。その点が大いに参考になると思います。最近の聖書箇所では、本日の聖書箇所でもそうですが、中心的に出て来るのは使徒パウロです。そのパウロが、様々な困難に直面したときに、どのように行動したのか。本日、私たちに与えられた聖書箇所にもそのことが書かれています。聖書の登場人物、キリスト者の大先輩に私たちも倣うことができるのです。

具体的にキリスト者の歩みは、どのような歩みとして整えられるのでしょうか。キリスト者はイエス・キリストによって救われた者です。その点が極めて大事になります。未だ得ていない救いを得るために、善い行いを積み上げている歩みではありません。すでに神が赦してくださった、愛してくださった、救ってくださった、それが大前提です。パウロもそうです。パウロも主イエスに出会い、回心し、赦してもらった人です。

しかしそこで終わりではありません。もう赦された、救われた。それでおしまい、後は何をしたってよいというわけではありません。そうではなくて、神に救っていただいたのですから、救ってくださった神に感謝をし、新しく生まれ変わった命を喜ぶ生き方に変わっていくはずです。

そうなると、私たちキリスト者は何をなすにせよ、何を語るにせよ、救ってくださった神のことを忘れるわけにはいきません。同じく、神がお造りになった人間、私たちの周りにいる隣人を忘れるわけにはいきません。その隣人も神がお造りになり、愛してくださっているのですから、私たちがその隣人の存在を無視するわけにはいかない。つまり私たちキリスト者は、もはや自分一人だけでは歩むことができなくなるのです。本当の意味で、神と共に、隣人と共に歩むようになるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所に、まさにそのことが書かれています。パウロがどう行動したのか、そのことは後で詳しく触れていきたいと思いますが、自分だけでなく、神を思い、隣人を思って行動をした、そう言うことができると思います。

本日のこの説教の説教題を「誤解を乗り越える」と付けました。本日の聖書箇所に書かれていることは、まさにパウロが誤解をされてしまった、そしてその誤解をどう乗り越えていったのか、ということになります。ただ二千年前のユダヤ人社会の文脈でありますから、少々理解するのに骨が折れるかもしれません。少しばかりの説明を加えたいと思います。

パウロはこのとき、第三回目の伝道旅行を終えて、目的地のエルサレムに到着をしました。周囲からの反対を押し切るような形で、困難な目に遭うことを分かりながらも、固い決意をもって、パウロはエルサレム入りをしました。

何のためにパウロはエルサレムにやってきたのでしょうか。一つの目的は、エルサレム教会に献金を届けるためでした。パウロの伝道旅行の最中、諸教会からの献金を託されましたので、その献金を無事に届けなければならない。ただ、献金を届けるだけの目的ならば、信頼のおける人に任せればよかったわけで、何も危険を冒して自分がエルサレムに行く必要はなかったと思います。

パウロには、エルサレム教会と異邦人メンバーが中心となった教会の融和のため、という本当の目的がありました。ユダヤ人にはユダヤ民族としてのしきたりがいろいろとありました。異邦人には当然それはないわけで、異邦人はユダヤ人のしきたりには縛られません。そのしきたりをめぐって、エルサレム教会と異邦人教会の間に、少しばかりのすれ違いがありました。お互いの心が離れていた。それを、ユダヤ人であり、今は異邦人伝道に力を入れているパウロは、放っておくことができなかったのです。なんとかしたいと願って、エルサレム入りをしたのです。

そのすれ違いがから、パウロは誤解を受けることになったのです。二一節にこうあります。「この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。」(二一節)。

エルサレム教会の主だった人たち、ヤコブという人物が出て来ていますが、これは主イエスの弟子のヤコブではなく、主イエスの弟のヤコブのことです。ペトロを始めとする弟子たちは、すでにこのときにはエルサレムにおらず、世界に向けて伝道に出掛けていたのでしょう。残っていたヤコブたち教会の長老たちは、異邦人伝道の成果を喜びましたが、こういう懸念があるという話を持ち出したのです。

「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」(二一節)とパウロが言っていると、エルサレム教会のユダヤ人たちから思われてしまったのですが、これはまったくの誤解です。パウロはそんなことを言うどころか、割礼を重んじることもありました。使徒言行録第一六章三節にこうあります。「その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。」(一六・三)。彼とはテモテのことですが、ユダヤ人と異邦人のハーフであったテモテはまだ割礼を受けていませんでしたが、ユダヤ人伝道を考えて、パウロはテモテに割礼を受けさせたのです。パウロは自分もユダヤ人なわけですが、きちんとユダヤ人としての風習は重んじたのです。

パウロが受けてしまったもう一つの誤解は、二八節から二九節にかけて記されています。「「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。」(二八~二九節)。トロフィモという異邦人をパウロはエルサレムに連れてきたわけですが、この人を神殿の内部にまで連れ込んでしまったと誤解されてしまったのです。

エルサレムの神殿には、いくつかの区画があって、ここまでは異邦人が入れるところ、この先は異邦人は入れずユダヤ人しか入れないところ、と定められていました。境界線の門には看板が立てられ、入ってはならない者が入った場合、死をもって償わなければならない、と書かれていたようです。誰もが知っている周知の事実でした。それを破った、と誤解をされてしまったのです。

もう一つさらに誤解されてしまったことを付け加えるとすれば、来週の聖書箇所になりますが、三七節の箇所でパウロが口を開きます。ギリシア語で話したのですが、千人隊長が「ギリシア語が話せるのか。それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」(三七~三八節)と言ってびっくりしているのです。ここでもまたパウロは誤解をされてしまったのです。

少なくとも、パウロはこのとき三度も誤解をされてしまったことになります。エルサレム教会から離れた地で、異邦人伝道に命を懸けていましたので、エルサレムにいるユダヤ人たちからはユダヤ人としての文化を軽んじている、と取られてしまったのかもしれません。そのような隔たりが、悪い方向に向かい、誤解をされてしまったことになります。パウロのそのような誤解を受けて、どのように行動したのでしょうか。

パウロに限らず、誤解はいつの時代でも、どのような場所でも起こるものです。人間の営みがあるところでは、必ず誤解が生じます。誤解は人と人との間に生じます。相手を分かったつもりになっていたとしても、それは一部にすぎません。その一部で全部を判断してしまう。相手を理解し損なってしまう。そこに誤解が生じます。

誤解は人と人との間だけではありません。人が神を誤解してしまうこともあります。人間は真の神を理解しているでしょうか。大きな災害や事故が起こると、神が信じられなくなったり、神を恨んだり、神を捨てたり、そんな人間の行動が見られます。しかしそれは神を誤解しているのです。私たちが信じている神は、人間の苦悩を知っておられる方です。苦悩を知り、そこから救い出してくださるお方です。そんな神を誤解してしまうことがあります。

人間の理解力には限りがあるのです。相手を完全に理解することはできない。相手を理解したと一時思ったとしても、まだ知らない部分があったと気付くことになります。これは神に対しても同じです。神のすべてを知り尽くすことは、私たち人間にはできません。私たちの理解力が不十分、すべてを知り尽くすことはできないと、どんなときでもわきまえておくのは大切なことです。

私が神学校で学んでいた頃に、こんなことを言われました。教会員から何らかの悩み話を聴く場合、「分かったつもりになって、すぐにアドバイスをするな」、そう言われました。そうではなくて、まずは黙ってじっくりと耳を傾けよ、そして相手を理解せよ、そう言われたのです。ああ、この人の問題はこれ、と早急に判断して、すぐにでもアドバイスをして、相手の状況を変えたくなるのが私たち人間ですが、その最初のところで理解を誤ることだってあるのです。

たとえ意識をして気を付けていたとしても、誤解は避けられないものです。人間は誤解をする動物であると言ってもよいくらい、誤解はなくなることはないでしょう。まして、相手にあまりよい感情を抱いていないならば、誤解がさらに悪い方向で誤解を生むことになってしまいます。まさに今日の聖書箇所でのパウロがそうでした。

一体パウロはどうしたのでしょうか。二三節から二四節にかけて、こうあります。「だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。」(二三~二四節)。

あなたも一緒に行って身を清めてもらいなさいと言われています。パウロは異邦人のところに長らく行っていましたので、ユダヤ人の考えからすると汚れを持ち帰っているから、清めてもらう必要があると考えられていました。だからその習慣に従い、あなたも身を清めてもらいなさい。それだけでなく、四人の人が誓願中だから、その費用も出してやりなさいと言われます。この費用はそんなに少ない額ではないと言われています。その費用を肩代わりしてやったということになれば、パウロもユダヤ人の慣習を重んじていることが分かるわけです。

パウロはヤコブからの提案に従い、二六節のようにします。「そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。」(二六節)。パウロは費用を出し、清めを受けた上で、エルサレム神殿に赴くことにしたのです。

パウロとしては、このようなユダヤ的な考え方や、このようなユダヤ的な風習が、救いに無関係であることは重々承知しているのです。救いは全世界に広がった。ユダヤ的に生きていても、ギリシア的に生きていても、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのですから、清めを受けるとか、誓願をするとか、そんなことは些細なことなのです。しかしパウロは、そんなことはばかばかしい、と言って、ユダヤ人たちの文化を軽んじることはしませんでした。

そうではなくて、相手を重んじた。隣人のことを極力、考えたのです。パウロが清めを受けただなんて、パウロが誓願の費用を肩代わりしたなんて、聖書にそう書いてあるけれども、そんなことは信じ難いと考えている人もいます。パウロの他のところでの行動と少し矛盾しているからです。しかしパウロは実際にそうしたのです。そのパウロの動機がよく分かる聖書箇所をお読みしたいと思います。

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(Ⅰコリント九・一九~二三)。

特に二〇節のところに、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです」とあります。まさにパウロの行動の源はここにありました。エルサレム教会と異邦人教会との間に橋を結ぶために、パウロはそのように行動したのです。まさにユダヤ人を得るためです。

皆さまはパウロの取った行動を、理解することができるでしょうか。理解して、実践することができるでしょうか。パウロは自分だけのことを考えたのではありません。こんなユダヤ的な習慣は救いとは無関係だ、不必要だ、声を大きくしてそのように主張してもよかったのですが、実際にパウロも心の中ではそう思っていたかもしれませんが、そうはしませんでした。隣人を重んじ、相手のことを考えた。神の御心が何であるかを考え、このような行動を取ったのです。

パウロもそうですが、私たちの行動の源泉は、イエス・キリストにあります。イエス・キリストという私たちに与え尽くしてくださった方がおられる。その方によって私たちは救われた。その救われた私たちがどう行動すべきか。この人はイエス・キリストによって救われた人だ。あの人はイエス・キリストによって救われようとしている。そんな人たちが私たちの隣人です。その人たちと私たちがどう接するべきか。そう考えたとき、私たちもここでのパウロに倣って歩むことができるようになります。そしてそこに愛が生まれるのです。

神を愛し、隣人を自分のように愛する、聖書で繰り返しそのように語られています。私たちが聖書に親しめば親しむほど、そのことが浮き上がってきます。しかし愛は言葉の上だけの定義ではありません。さらりと簡単に言えるようなものではありません。むしろ愛が問われるのは、パウロのように誤解をされてしまったようなときです。

教会の歴史の最初からそうでしたが、私たちは誤解を受け続けてきました。今の時代、ここ日本においてもそうです。キリスト者であるというだけで誤解をされてしまうこともあります。パウロと同じように、キリスト者は日本の文化を重んじないとか、そんな誤解を受けることもあるでしょう。

しかしそのような中でも、私たちは本当の愛を知っている者たちです。パウロに倣って、誤解を受けたときにこそ、相手を愛する愛に生きることができる。迫害を受けていた教会の人たちを励ますために書かれた新約聖書に収められている手紙の一節をお読みし、終えたいと思います。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(Ⅰペトロ三・八~九)。