松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2014年4月27日(日)
説教題「受けるよりは与える方が幸いである」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第20章13〜38節

さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。
パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。

旧約聖書: 申命記 第10章12~22節

イスラエルの地域に、こんなことわざのような言葉があるそうです。「死海のような人ではなく、ガリラヤ湖のような人になりなさい」。死海は別名、塩の海とも言います。ガリラヤ湖も湖と言うよりは海と言った方がよいかもしれません。いずれも大きな湖です。少し地理的な説明もいたしますと、ガリラヤ湖は北側にあり、そこからヨルダン川という大きな川が南に向かって流れ出ています。そしてその川の行き着く先が死海になります。

つまりガリラヤ湖は周辺から水を受け取るわけですが、その水をヨルダン川に流します。そしてヨルダン川から水を受け取っているのが、死海になります。死海は水をただ受け取るだけです。低地にあり、他のどこにも水を流しません。その水が蒸発するのか、地面に吸い取られるのか、よく分かりませんが、死海には塩化ナトリウムなどがたまっていくことになります。塩分が非常に高く、人間が沈むことなく浮かび上がるような湖になるのです。

このガリラヤ湖、ヨルダン川、死海の水の流れを踏まえた詩編の歌があります。詩編第一三三編二~三節にこうあります。「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。」(詩編第一三三編二~三節)。頭に香油が注がれ、その香油がひげに滴り、さらには衣の襟に垂れていく。それと同じように、ヘルモンからシオンの山々にきれいな水が滴り落ちると歌っているのです。

ヘルモンというのは山の名前で、ガリラヤ湖の北東の辺りにあります。水などの資源が非常に豊富なところのようです。ガリラヤ湖はヘルモンなどの周辺から水を受けとります。ちょうど松本平がアルプスのきれいな雪解け水を受けるようなものでしょうか。イスラエルを旅行した方は、ガリラヤ湖は非常に美しい湖だったとの印象を聞くことがあります。たくさんのきれいな水を受け取り、そして流しているのです。しかし死海はただ受けるだけで与えません。だから「あの人は死海のような人だ」と言われたら、それは褒め言葉ではなく、「ガリラヤ湖のような人になりなさい」と勧めるわけです。

本日、私たちに与えられた使徒言行録の箇所の中に、「受けるよりは与える方が幸いである」(三五節)という言葉があります。受けること、与えることについて考えさせられる言葉です。この言葉はもともと主イエスの言葉であるようですが、パウロが引用をした言葉です。パウロの別れの言葉として、最後の締めの言葉として語られた言葉です。

このときパウロは第三回目の伝道旅行の途中でした。今日の聖書箇所の一三~一六節のところは、旅行の記録のような文章になっています。たくさんの町の名前が出てきます。パウロたちの行動の記録です。パウロはエフェソには寄らずに急いだと書かれています。なぜかと言うと、五旬祭を、ペンテコステの出来事があったときの祭りですが、エルサレム教会で祝いたかったからです。エフェソに立ち寄ったら時間が取られる、そう考えたのでしょう。その代わりにエフェソ教会の長老たちを呼びよせた。そして別れの話をしたのです。

一八節を見ますと、呼ばれた人たちは「長老たち」であったと記されています。さらに二八節を見ますと、長老たちではなく「監督者」となっています。その監督者が何をするべきなのかと言うと、同じ二八節に「神の教会の世話をさせるために」とあります。ここで用いられている「世話をさせる」というのは、羊飼いが羊を飼うという意味です。続く二九節にも「残忍な狼どもが」とありますが、教会の牧会者として、羊の世話をするようにと、パウロは言っているのです。

まるで牧師に対して言っているかのような言葉でありますけれども、しかしパウロは教会の代表者たちにこのように言っているのであり、教会にいる人ならば誰もが当てはまることを言っています。パウロが単なる別れの言葉を述べているのではなく、キリスト者ならば誰もが心に留めるべきことを言っています。自分がこのように生きてきたように、あなたたちキリスト者もこのように生きなさいということを言っているのです。

パウロはいろいろなことを言っているようですが、要するに三五節の言葉に集約されると思います。「受けるよりは与える方が幸いである」、主イエスが言われたこの言葉に生きなさいということです。

この言葉は主イエスが言われた言葉であると、パウロは言っています。なるほど、一体どこで、どのような文脈で主イエスが言われたのか、そのことを知りたいと思って福音書を探してみても、この言葉を見つけることはできません。福音書にはこの言葉は載せられていないのです。聖書が書かれた時代に直後に書かれた文章には、主イエスの似たような言葉が記録されています。そうなると、福音書の中には記録されませんでしたが、主イエスの言葉として教会に受け継がれた言葉の一つということになります。

「受けるよりは与える方が幸いである」。主イエスらしい言葉であると思います。受けること、与えること。この二つのことをどう考えればよいでしょうか。少し具体的な例で考えてみたいと思います。

ある人が説教の中で、こんなことを言っていたことを思い起こします。受けることと与えること、主イエスは受けるよりも与える方が幸いであると言われる。その言葉を聴いて、キリスト者は主イエスのお言葉に従い、与えることに精を出そうとします。しかし受けることは案外難しいことではないか、その説教者は言います。例えば、高齢になると、しばしば聞かれるのが、受けることばかりになってしまい、心苦しいという声です。若い頃は人のために、それこそ与えることに精を出すことができた。教会のために一生懸命働き、与えることをたくさんしてきた。しかし今や年老いてしまった。体の自由が効かない。そんな私のために教会の人たちはたくさん与えてくれる。けれども、どうもそれが心苦しい。受けてばかりで申し訳ない、という声です。

しかしその説教者は、受けることも大きな賜物なのだと言います。なぜなら、受けることによって、与える人を造り上げるからだと言うのです。与える人も、受ける人がいるからこそ与えるということができるのであって、受ける人は何も心苦しく思う必要はないのかもしれません。喜んで与える、そして喜んで受けるという美しい関係ができるために、案外、大切になってくるのは、喜んで感謝して受ける人の存在であると思います。

さらに、受けることの難しさは、こんなところにもあると言えるでしょう。私たちがキリスト者になる、まさにそのときです。キリスト者になるということは、洗礼を受けるということです。洗礼を受けるということは、神を信じるということです。神がその独り子、イエス・キリストを私たちの罪を赦すために与えてくださったことを信じるのです。

教会に行って説教を聴いたり、自分で聖書を読む中で知っていくことは、神が独り子を私たちに与えてくださったこと、それほどまでに私たちのことを愛してくださったことです。あなたの罪のために主イエスが十字架にお架かりになってくださったと言われる。十字架によって罪が赦されたと言われる。しかも私たちの行いによらず、ただ一方的な神の恵みによって、私たちが救われたと聴かされる。

本当だろうか、と思います。そんな虫の好い話があるのか。私たちの行いによらず、神が一方的に赦しを、愛を、救いを与えてくださる。私たちはただそれを受けよ、と言われる。本当に一方的に受けるだけでよいのか、誰もが一度はそのように感じると思います。そこでも私たちはまず神から受けることを、真剣に考えなければなりません。

パウロがここで言っていることも、そのことまでも含んだことになります。パウロは単なる処世術を、教会の人たちに言っているのではありません。以前、この言葉をめぐって、私は求道者の方と話をしたことがあります。私たち人間の性質として、どういうわけか与えることによって人に喜んでもらえると嬉しい。自分は相手のために損をしたとしても、相手が喜んでくれるならば、どういうわけか私たちは嬉しい。それが私たち人間の性質であり、神がそのように造ってくださったのだと申し上げました。求道者の方は、そのことに納得してくださいましたが、続けてこんなふうに言われた。「でも、受けるよりは与える方が幸い、などと言っているのは、何もキリスト教だけではないと思います。どの宗教でも、同じようなことを言っているのではないですか」。私はすぐにこう答えました。「確かにその通りです。しかし教会の信仰は、神がまず私たちに大きなものを与えてくださった。そこが出発点となっているのです」。
「受けるよりは与える方が幸いである」、イエス・キリストが言われたからこそ、一味もふた味も違う言葉になるのです。私たちがこの言葉を実践しよう、そう思う以前に、神がまず私たちに与えてくださったものがある。神から受けた大きな恵みがある。それが大前提であり、出発点です。

そうであるならば、その受け取ったものをどう生かしていくのか。どのように生きていくのか。そのことが問われます。果たして死海のような生き方でいいのか。神からいただきっぱなしでよいのか。それとも、ガリラヤ湖のように、たくさんよいものを受けて、その中から与える生活を始めていくのか。「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉は、そのように聴かなければならない言葉なのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、申命記の箇所になります。申命記は神の戒めがたくさん記されています。神の民として、戒めを守って、神に従ってどのように生きるべきなのか、そのことが記されています。なぜ戒めを守れ、神に従って生きよと、そんなにもたくさん言われるのでしょうか。本日の箇所の申命記第一〇章一九~二二節をご覧ください。「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。」(申命記一〇・一九~二二)。

エジプトの国で奴隷生活をしていたあなたたちが、一方的な神の導きによって救い出された。神が大いなることをしてくださった。今の生活があるのは神のおかげである。だからあなたがたはこう生きよ、というようにして神の戒めが語られます。神が大きなことをしてくださった、イスラエルの人たちはただ一方的にそれを受けた。そのことはパウロが言っていることと同じなのです。

私たちが「受けるよりは与える方が幸いである」という生活を整えるために、まずは自分自身を整えなければなりません。使徒言行録に戻りますが、二八節をご覧ください。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。」(二八節)。群れ全体の前に、まずはあなたがた自身です。まず自分が神に赦され、神に愛され、神の恵みに生かされているところから始めなければなりません。

私がしばしば感じるのは、教会の方々は皆、成長をしているということです。ご自分ではなかなか気が付かないことであるかもしれません。しかしゆっくりでも、着実に、キリスト者として成長しています。なぜ変わることができるのか。それは、神が自分にこんなにも大きなことをしてくださった、そのことに気が付くからです。キリスト者はそのことに気付いたときに、変わることができます。ああ、こんなにも大きなものを神から一方的にいただいてしまった。受けてしまった。それでは私はどうお返しをすることができるだろうか。そのところで人は変わるのです。

この恵みに本当に生かされている者は、どのようなことが起こったとしても、揺らがないで生きることができるようになります。パウロもそうでした。パウロはエルサレムに向かう決意をしているようです。聖霊の導きによってです。ただならぬ決意です。投獄や死ぬことさえも厭わないと言っているほどです。

先週、いくつかの教会の集会で話題になったことですが、お隣の国、韓国での船の沈没事故の話題になりました。なぜあのような出来事が起こるのだろうか、という話題です。三年前の東日本大震災が起こったときもそうでしたが、なぜこのような悲劇が起こったのか。誰のせいなのか。人間のせいなのか。それとも神のせいなのか。神は全能ではないのか。全能であるならば、なぜ神は黙って見ておられたのか。私たちが悲惨な出来事をめぐって、揺らいでしまうという方が、私たちの身近にもおられると思います。

事故にせよ、事件にせよ、自然災害にせよ、悲劇が起こったときに、そこで私たちがどのような神を見出すことができるか、ということが問われると思います。怒りの矛先を神に向けて、何もしてくださらない神で終わらせてしまうのか。それとも、別の神を見出すことができるでしょうか。

悲劇が起こったとき、私たちも「わたしの神よ、なぜ私を、私たちをお見捨てになったのですか」と叫びたくなります。しかし、私たちが見出すことができる神は、その独り子をお与えになった神です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ一五・三四)、独り子、主イエス・キリストは十字架の上でそのように叫ばれ、全人類の叫びを引き受けてくださいました。

この主イエスの言葉は、詩編第二二編の冒頭の言葉であると言われています。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編二二・二)。信仰者ならば誰もが祈るであろう祈りの言葉、嘆きの言葉です。その叫びを引き受けてくださった方がおられる。そんな救い主、イエス・キリストを見出すことができるか。その主イエスをお与えになった神を見出すことができるか。その神を見出し、その神を信じることができる者は幸いです。

この神を信じる者は、パウロのように、何が起ころうとも揺らがない歩みをすることができます。神が与えてくださった大きな恵みは変わることがないのですから。たとえどのような悲劇が起こってもです。その大きな恵みを受けた者は、与える者にもなることができます。「受けるよりは与える方が幸いである」、主イエスのその言葉に本当に生きることができる。幸いな歩みをすることができるのです。