松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年6月2日(日)
説教題「喜びと真実の生活が始まる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第2章37節〜47節

 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

旧約聖書: 出エジプト記 第20章1〜17節

本日の礼拝で、旧約聖書の聖書箇所として朗読したのは、出エジプト記第二〇章の箇所になります。十戒が記されている箇所です。エジプトでの奴隷生活から神の導きによって抜け出したイスラエルの民が、故郷に向かって旅を続けていますが、旅の途中、シナイ山という山で、リーダーであったモーセが代表して受けた十の戒め、十戒です。神が人間に与えた法です。

この十戒に関しては、いろいろな受け止め方が存在します。神から与えられた大事な法です。一つの受け止め方はこうです。これを守らなければならない。もしも破ってしまったら大変なことになる。そう考えて、この法に縛られながら生活をする受け止め方があります。

他方で、もう一つの受け止め方があります。特に出エジプト記第二〇章の二節に注目してください。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト二〇・二)。三節の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」が第一の戒めで、四節以降、「…してはならない」という形で、第二以下の戒めが続いていきます。つまり、二節は十の戒めの部分ではなく、戒めの前にある前文です。

この前文の内容を考えると、これは神が救い出してくださった救いの出来事です。神さまが救ってくださった。ありがとうございます。感謝して、こういう生活をします。そう考えることもできるのです。同じ十戒でも、私たちを縛り付ける法のように考えることもできますし、神さまありがとうございます、喜んでこれを守ります、そのような法として考えることもできるのです。

教会の信仰者たちは、後者で十戒を考えています。つまり、この十戒を守らなくてはならない、守ったらその報いとして救われる、とは考えないのです。先に神が救ってくださった。導き出してくださった。それならば、神によって救われた者として、こういう生活を送るはずだ。十戒をそのように考えているのです。

信仰を持った者がどのように生活をしているのか、そのことは皆さまも関心が高いと思います。キリスト者はすでに救いをいただいた者です。それではその救われた者としてどのように歩んだらよいのか。これは一つの大きな関心事であろうと思います。ある人にとっては、自分が教会に来たのは自分の生活を変えたいからだ、そうお考えの方もあろうと思います。自分の生活を変えたい、自分を変えたい。そのためにはどういう生活をすればよいのか。

キリスト者は、主イエス・キリストに倣う、キリストの真似をする者です。それなら新約聖書の四つの福音書に、主イエスが直接、登場していますから、福音書を読んでみればよいわけです。ところが、福音書ではあまり主イエスの生活の様子が見えて来ない。主イエスが何を食べたとか、どういうところに寝泊りをしたとか、何時に起きて何時に寝たとか、笑ったとか、泣いたとか(泣いたことに関しては記述がありますが)、あまりそういうことは記されていません。福音書を書いた者たちは、あまりそういうことには興味を示さなかったようです。そんなことは書く必要がない、読者に伝える必要がないと考えたのかもしれません。

ところが、です。私たちが御言葉を聴き始めました使徒言行録には、人々の生活の様子がかなり詳細に記されています。本日、私たちに与えられた箇所は、その代表的なところと言えるでしょう。キリストを信じた者たちの生活の様子を記した。福音書では主イエスの生活の様子など記されなかったのに、使徒言行録ではキリスト者たちの様子を詳細に記した。なぜでしょうか。なぜかと言うと、キリスト者のまさに生活の中で、伝道をしていたからであります。

当時のキリスト者たちが、生活の中で伝道をしていた様子を、教会の歴史が書かれたある本の中で、このように紹介されています。「最初の三世紀のあいだに、教会は人数的に非常な成長をとげた。キリスト教はいったいどのような伝道方法によってそれほどの成長を達成したのであろうか。この問いに対する答えは、現代の多くのキリスト教徒を驚かせるかもしれない。古代教会は「伝道集会」…などとは無縁であった。…伝道は、教会の礼拝の場で行われたのではなく、…台所や店先、市場などで行われた。…大多数の改宗者は、無名のキリスト教徒たちによる信仰の証しによって導かれたのである。」(フスト・ゴンザレス『教会史』(上)、一一四頁)。

伝道がどういうふうになされたのか。神のこと、イエス・キリストのこと、救いのこと、罪のこと、赦しのこと、いろいろな話しをして、説明して、人々を説得させたように私たちは思うかもしれません。もちろん、それも大事なことで、そういうこともなされたでしょう。しかし伝道がどのようになされた、実際のところは、そういう説明や説得よりも、キリスト者の生活のただ中でなされたようです。

考えてみると、それはもっともなことだと思います。キリスト者が宣べ伝えていることは、イエス・キリストの復活です。キリスト者が生き生きと生きているのは、この希望があるからです。しかしイエス・キリストの復活は証明することはできません。証明してみせて、相手を説得させることはできません。逆に、復活がなかったことの証明もできません。いずれも証明できない。あとはどちらを信じるかの問題になってきます。

そうなると、大切になってくるのは、復活を信じている人たちがどのような生活をしているのかということです。どのように生きているのかということです。相手が復活を信じるかどうかは、復活を信じている者たちに懸ってくると言っても過言ではありません。例えば、うつろな目をした人が小さな声で「私はイエス・キリストの復活を信じています」と言っても、あまり相手には伝わらないと思います。逆に、生き生きとした輝いた目で「私はイエス・キリストの復活を信じています」と言えば、ああ、本当にそうなのだ、この人が信じているのだから私も信じてみようかという気になってくるかもしれません。

先週の一週間、私はまだ洗礼を受けておられない求道者の方々と接する機会が多くありました。私が一対一で対応することもありますが、とてもよいと感じたのは、複数の信仰者たちの間に求道者がいるという状況です。求道者にとって、大切なのは信仰者と接することだと思います。私と一対一で、様々な疑問や質問に答えて、勉強をすることも大切だと思いますが、それ以上に大切なのが、すでに信仰を持っている人に接するということです。

使徒言行録が伝えていることの一つは、人々の生活の様子です。迫害のことも書かれています。けれども、人々は生き生きと生活をしている。その人々の生活の様子、生き方を伝えてくれます。これによって伝道がなされていたからです。本日、私たちに与えられた箇所は、その様子がとてもよく分かると思います。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(四二節)。

そしてこれをさらに具体的に言ったのが、続く箇所です。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」(四四~四七節)。

パンを裂くというのは、今日の聖餐式のことです。つまり礼拝です。しかしキリスト者が大事にしていたのは、礼拝だけではなく、全生活です。生き方そのものを大切にしていた。キリスト者の人々がこういう生活、生き方をしていると、「民衆全体から好意を寄せられた」(四七節)とあります。教会にとって、教会の外の人たちから好意を持たれるかどうかは極めて大切なことになります。教会の内の者たちは先に信じている者たちです。その先に信じている者たちの生き方を見て、自分もそうなりたいと思うかどうか。好意を持たれるということは、そのことに懸っています。

その意味で、教会はいつの時代でも本当にそうなっているのか、自己吟味が必要です。好意を寄せられているか、信頼されているか、ここならば自分の求めているのが得られるか、教会の人たちは生き生きと生きているか、そのことが問われるのです。

四〇節のところに、「邪悪なこの時代から救われなさい」(四〇節)という言葉があります。時代というのは、元の言葉では「世代」とも訳せる言葉です。今の世代、昔の世代、などの「世代」のことです。邪悪なこの「世代」から救われなさい、と言われているわけですが、当時の世代が特別、邪悪だったわけではないと思います。昔が邪悪な世代で、今では少しましになったかと言うとそうではないと思います。いつの時代でも、邪悪な世代であると言えばそうであります。

世代ということで言えば、今の世代はだんだんと戦争を知らない世代になっています。どういう方向性に進んでしまうのか、そう危惧されるような政治家の発言も聞かれます。主に戦争を知らない世代からの発言です。私たちはこういう発言を聞いて、キリスト者としてどうすればよいでしょうか。そういう発言した政治家を非難したくなるでしょう。もっともなことです。しかしその発言を非難するだけでは済まされません。教会にも責任があると私は思うからです。

教会に集まっているキリスト者だからと言って、何も皆が同じ政治的な考えを持たなければならないというわけではありません。政治のことは自由にそれぞれが考えることができます。けれども、キリスト者であるならば、ある程度、同じ方向に向かうのは自然なことだと思います。教会の者たちは、今の主流の政治家の発言を危惧している人が多いと思います。なぜ世の中がそういう方向性になってしまっているのか。それは教会が伝道をきちんとできていないからだと思います。教会がこの世から好意をそれほど持たれていないから、教会の発言に耳を傾ける人が少ないから、教会が政治家を送り出してこなかったから、そうなってしまっているところがあります。いろいろなことが教会の問題点として、私たちに返ってくるのです。ただ相手を批判するだけでは済まされません。

先の戦争を私たちはキリスト者としてどう受け止めたらよいのか。どう受け止めて、キリスト者として生活をして生きたらよいのか。人々から好意を持たれるキリスト者としての生き方とはどういう生き方でしょうか。それは、悔い改めることと切り離すことができません。

一九七六年、日本基督教団から出された声明があります。「第二次大戦下における 日本基督教団の責任についての告白」、いわゆる「戦績告白」という声明です。後半部分をお読みいたします。

「「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの 諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。終戦から二十年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります」。

戦争をキリスト者としてどう受け止めたらよいのか。その答えの一つがこれです。この戦責告白の言葉はともかくとしても、キリスト者としての方向性を位置づけていると思います。どうしたらよいのか、悔い改める必要がある、それが答えです。

本日、私たちに与えられた箇所にも、どうしたらよいのか、という問いがあります。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。」(三七節)。「大いに心を打たれ」とありますが、かつての口語訳聖書では「強く心を刺され」とありました。こちらの方が、元の言葉のニュアンスをよく表していると思います。心を打たれて感動したというよりも、心を刺された。いてもたってもいられなくなった。そのままではいられなくなった。「どうしたらよいのですか」と聞かざるを得なかった。そのときに答えを用意しているのが教会です。

その答えがこうです。ペトロが代表して言っています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(三八~三九節)。悔い改め、洗礼、罪の赦し、そして救いの約束という道が備えられている。

戦争において、大きな罪を犯したときもそうです。教会はこの悔い改めに始まる道があることを知っている。神の赦しのもとで、本当に悔い改め、赦しを求め、赦されることができる。このときペトロが直接、語りかけた人々は、戦争ではありませんが、救い主イエス・キリストを十字架に架けてしまった、その罪責です。その罪に対しても、きちんと悔い改めから始まる道が備えられている。私たちの日常生活における罪、悩み、嘆き、労苦、それらに対してもみな同じです。どうすればよいのか。教会の人たちはこの道を歩み出すことができるのです。

四七節のところに、「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(四七節)とあります。救われる人々とは、悔い改め、洗礼、罪の赦し、救いの約束という道を歩き始めている者たちのことです。教会に加えられた人々は、救われる人々です。すでに救われた人たちの生活、生き方を通して、新たに救われる人が起こされる。これが教会で二千年前から起こっている出来事なのです。教会には、確かな答えが用意され、その答え通りの道を歩み始めている多くの者たちがいるのであります。