松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年5月26日(日)
説教題「教会の初説教」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第2章14節〜36節

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。
 終わりの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、
 そのときには、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。
 上では、天に不思議な業を、
 下では、地に徴を示そう。
 血と火と立ちこめる煙が、それだ。
 主の偉大な輝かしい日が来る前に、
 太陽は暗くなり、
 月は血のように赤くなる。
 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。
『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。
 主がわたしの右におられるので、
 わたしは決して動揺しない。
 だから、わたしの心は楽しみ、
 舌は喜びたたえる。
 体も希望のうちに生きるであろう。
 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
 あなたの聖なる者を
   朽ち果てるままにしておかれない。
 あなたは、命に至る道をわたしに示し、
 御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 そして、キリストの復活について前もって知り、
『彼は陰府に捨てておかれず、
その体は朽ち果てることがない』
と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。
 『主は、わたしの主にお告げになった。
 「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を
     あなたの足台とするときまで。」』
 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

旧約聖書: ヨエル書 第3章1〜5節

使徒言行録から御言葉を聴くようになり、今日で四回目の説教になりました。本日、私たちに与えられた箇所は、聖霊が降ったペンテコステの日の出来事です。先週の箇所の続きになります。ペトロの説教です。ペトロが使徒たちを代表して説教を語ります。本日はペトロの説教をもとに、私が説教を語ることになります。

聖書の中に、所々、説教が記されています。当時、どのような説教が語られたのか、そのことを知ることができる貴重な記録です。その記録が聖書のどこに収められているのかと言うと、圧倒的に使徒言行録が多い。新約聖書のヘブライ人の手紙も、説教であると言われています。手紙全体が説教であるとか、いくつかの説教が繋ぎ合わされたとか、いろいろな説がありますが、当時、語られた説教であることは間違いないでしょう。使徒言行録にも、たくさんの説教が記されていますが、本日のペトロの説教は、教会が始まって以来、最初の説教になります。初説教です。

先ほど、聖書朗読をいたしました。ずいぶん長い箇所を朗読したかもしれません。説教のもとになる聖書箇所としては、少し長すぎたかもしれません。他の説教者が説教をする場合、たいていの場合はこのペトロの説教をいくつかに分割しています。少なくとも二つ、多い人は四つにも五つにも分割しています。確かに短く区切れば、それぞれの箇所を深く味わうことができると思います。しかしまた、ペトロの説教全体を一気に読むのも、それならではの味わいがあると思います。

ペトロのこの説教は、いろいろなことを言っているようでありますが、実のところ、言っていることは一つだけであります。イエス・キリストの十字架と復活です。説教の中で、複数の旧約聖書の箇所が引用されています。いずれも、ペトロが説教の中で言いたかったことを強化するために、旧約聖書の引用がなされたのです。

例えば、二四節にこうあります。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(二四節)。このことをさらに強化するために、二七節と三一節で聖書の引用がなされています。「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。」(二七節)。「彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない」(三一節)。

これらの聖書の言葉は、詩編第一六編に見られる言葉です。陰府というのは、死んだ者たちが行くと考えられていたところです。死者はそこに閉じ込められる。死に支配される。しかし主イエスは復活された。そのことが詩編にすでに書かれているではないか、とペトロは聖書を引用して言うのです。ペトロが説教で終始言っているのは、主イエスの十字架と復活なのです。

ペトロの説教は、一四節のところから始まっています。説教の導入部分です。直前の箇所の一三節に、「しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。」(一三節)とあります。ペトロをはじめとする使徒たちが語り始めたら、酔っ払っているのだとあざける者たちがいたのです。それに対して、ペトロは説教の冒頭部分で、酔っ払っているのではないと言うことによって説教を始めます。ユダヤ人たちの食事は、当時、一日二回であったようです。ぶどう酒を飲むのは二回目の夜の食事の時が一般的でした。しかも朝九時というのは、まだ一回目の食事もしていない時間です。そんな時間なのだから、酔っ払っているはずがないとペトロは言います。こうして説教が本論へと入っていくのです。

ペトロは、ペンテコステの出来事を旧約聖書のヨエル書を引用して、説明します。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所です。このヨエル書から、いろいろなことが言えると思いますが、一点に集中して説教をしたいと思います。一七節に、「終わりの時に」と記されています。ヨエル書から引用されたのですから、ヨエル書とそっくりそのまま同じかと思いきや、実はまったく違います。ヨエル書では「その後」(ヨエル三・一)となっています。もともとは「その後」だったのが、ペトロの説教では「終わりの時に」になったのです。「終わりの時」に特別な意味が込められているからです。

この「終わりの時」という言葉は、直訳しますと「終わりの日々」となります。「時」と言うよりも、「日」の複数形です。つまり、一日だけではなく、たくさん続いていく日々のことです。ペトロが説教を語ったその日もそうですが、それ以降のすべての日を含む日々のことです。イエス・キリストによって、それまでとは違う終わりの日々がやってきた。今の私たちも、その終わりの日々に生かされているのです。

終わりの時、ないし、終わりの日々とは一体何でしょうか。一つ言えるのは、終わりなのだから、もう新しいことがこれ以上、起こらないということです。新しいことが起こらないと言ってしまうと、誤解が生じるかもしれませんが、新たに加えられるものがないということです。救いに関して、何か新しいものが突然、加えられるということがない。イエス・キリストでは少し足りなかったから、別の救い主がやってくるとか、イエス・キリストの救いの道では不十分だから、その道が延長されるとか、そういうことではないのです。ペトロが語っているのは、最終的な救いです。最終にして、完全な救いを語っているのです。

イエス・キリストが来られる前まで、それまでの救いはどういう救いだったのでしょうか。主イエスの道備えをした人に、洗礼者のヨハネという人がいました。文字通り、人々に洗礼を授けました。場所はヨルダン川です。多くの者たちが救いを求めて、ヨハネのもとにやってきました。

ヨハネの洗礼は、悔い改めの洗礼と言われています。ヨハネもただ洗礼を授けただけでなく、人々に説教をしました。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ三・八)というような説教をしたのです。具体的な奨めもしています。例えば徴税人たちに、「規定以上のものは取り立てるな」(ルカ三・一二)と言っています。当時の税金を集める徴税人たちは。規定以上のものを取り立てて私腹を肥やしていたと言われています。まっとうに仕事を行い、自分の行いを正せということです。

自分の行いを正すことによって救われる。こういう救いなら、私たちもよく分かると思います。要するに、悪いことをやめて、善い行いをせよ。それによって救いを獲得できるということです。もしも悪いことをしてしまったら、悔い改めよ。悪いことの責任を自分で持て、ということになります。

ヨハネが言ったのはこういうことですが、ヨハネは何も真新しいことを言ったわけではありません。このような救いの獲得方法は以前からあったものです。旧約聖書では、罪を犯した場合に、贖罪の献げ物を献げなさいということが言われています。罪の赦しを得る、贖いの献げ物です。罪を犯してしまったら、動物の犠牲を献げます。少し残酷な気がしますが、当時の動物は財産です。自分の財産を献げて、自分の身を切るのです。その結果、赦しが得られる。それが終わりの日々がやってくる前の話です。こういう救いなら、世界のどこにでもある救いかもしれません。罪を犯したら、自分でその責任を取る。非常に分かりやすい話です。

ところが、非常に分かりやすい話なのですが、それでは何の解決にもなりません。罪を犯し、赦しを得、救いをも得たかと思ったら、また罪を犯してしまう。また赦しを得たかと思ったら、またまた罪を犯してしまう。こういうことの繰り返しです。結局、人間は何度も何度も同じ過ちを繰り返してきた。何度、贖罪の犠牲を献げればよいことでしょうか。延々と続いていくでしょう。聖書が、特に新約聖書が説いているのは、こういう救いでは、誰一人、救いを獲得できないということです。それが終わりの日々が来る前の救いだったのです。誰一人、救われ得ない救いだったのです。

そこで、イエス・キリストが来られ、時代が変わりました。今までとは、救われ方が根本的に変わりました。救い主、イエス・キリストによる新しい救いが到来したのです。

使徒言行録の第二章二二節以降、説教のいよいよ中核部分に入っていきます。主イエス・キリストが登場します。先ほども申し上げましたが、いろいろなことを言っているようですが、言っていることは一つです。ペトロが伝えたかったことは、主イエス・キリストの十字架と復活です。二三~二四節にかけてこうあります。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(二三~二四節)。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(三六節)。
ペトロの説教は非常に単純です。徹頭徹尾、イエス・キリストの十字架と復活です。そのことだけを語っています。非常に単純なのですが、しかし「あなたがた」という言葉が入ると、途端に難しくなります。「イエス・キリストが十字架にお架かりになって、三日目に復活した」と言えば、「ああ、そうですか」で済むかもしれませんが、「イエス・キリストがあなたがたのために十字架にお架かりになって、あなたがたのために三日目に復活した」と言うと、途端にいろいろと考えなければならなくなります。本当に私のためなのか、主イエスの死と復活が私に何の意味があるのか、など、いろいろと問いが出てくると思います。

私が説教者として、いつも気にかけていることが、「あなたがた」「わたしたち」という言葉の使い方です。複数形の言葉です。単数形の「あなた」「わたし」ならもっと使いやすいと思います。例えば、主イエスを裏切ったユダに対して、「あなたがイエス・キリストを十字架に架けて殺した」と言えば、「ああ、そうだ」と答えるに違いありません。最終的な死刑の判決を下したピラトに、「あなたがイエス・キリストを十字架に架けて殺した」と言えば、「ああ、そうだ」と答えるに違いありません。

ところが複数形の「あなたがた」になると、話はそう簡単ではありません。「あなたがたがイエス・キリストを十字架に架けて殺した」と言うと、ある人は「ああ、本当にそうだ、私の罪のために死んでくださった。私が殺したも同然だ」と答えると思います。ところが、別の人は「そんなことは知らない。私には関係ない」と答えると思います。説教者が非常に苦労するのは、そのことです。私には関係ない、そう思われないための戦いがあるのです。

ペトロはこの説教の中で、聖霊の導きもありましたが、非常によくこのことを考えて説教をしています。この説教を聴いていたのは、ユダヤ人たちであったわけですが、イエス・キリストの十字架と復活という非常に単純なことを、ずいぶんたくさんの言葉を尽くして、このことを伝えています。旧約聖書の引用もたくさんなされています。聴き手がユダヤ人ならではの説教だと思います。

ペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」(三六節)と言っています。「あなたがた」とは、このとき説教を聴いていたユダヤ人たちのことです。こういうような言葉から、教会のある時代の人たちは、イエス・キリストの十字架の責任をユダヤ人たちに負わせるところがありました。ユダヤ人差別をしたのです。しかしそれは正しいことではなかったとの反省がなされています。ユダヤ人だけの責任ではない。自分の責任でもあると考えたからです。

教会の人たちは、「イエス・キリストが私のために十字架にお架かりになった」とよく言います。そしてこれを言い換えて、「私がイエス・キリストを十字架に架けて殺した」とさえ言います。二つは同じことを言っているのですが、後者はより自分の責任を明確化しています。「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」(三六節)というペトロの言葉を、本当に真剣に受け止めた結果、こういう言葉が出てくるのです。

ペトロが言っている十字架は、そういうことでありますが、それだけで説教が終わりではありません。あなたがたが殺したのだ、と断罪して終わっているのではありません。改めて二三~二四節と三六節をお読みいたします。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(二三~二四節)。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(三六節)。

この二つは、どちらも似たような構造になっています。「あなたがたが…。しかし、神は…」という文になっています。あなたがたが、こういう罪を犯してしまった、しかし、神はその罪の処理をしてくださった、という文なのです。私たちがしてしまったことの責任を、神が取ってくださいます。私たちが主イエスを十字架に架けてしまい、殺してしまったかもしれませんが、神が復活させてくださったのです。

これが、イエス・キリストによる新しい救いです。私たちの罪を、神が処理してくださる。私たちはかつて、自分の犯した罪の責任を、自分で負わなければなりませんでした。何度も何度も繰り返し、贖罪の犠牲を献げてきた。自己責任でした。しかし自己責任であるがゆえに、救いの確信を得られなかったのです。いつまで救いを自分の手で追い求めればよいのか。果たして私は救われるのだろうか。そのような問いが付きまとってしまう。救いの確信が得られない。私たちはそんな状態でありました。

そんな私たちのために、終りの日々がやってきました。神が代わりに責任を負ってくださる。変わることのない確かな救いが得られるようになったのです。私たちが救いの確信を得る唯一の方法がこれです。自分で救いを獲得したのではない。神が与えてくださる。イエス・キリストの十字架と復活によって、神が保証してくださる。これほど確かな救いはないのであります。

終わりの日々、新しい時代にあたり、ペトロはヨエル書を引用してこう言いました。「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(二一節)。救われ方が変わりました。私も説教者として、牧師として、断言することができます。「あなたがたは救われた。イエス・キリストによって救われた」、と。