松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年5月12日(日)ペンテコステ礼拝(聖霊降臨日礼拝)
説教題「教会の誕生日」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第2章1節〜13節

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

旧約聖書: 詩編 第22編23〜32節






レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)

「ペンテコステ」 ( Pentecostés ) / エル・グレコ ( El Greco )

「ペンテコステ」 ( Pentecostés ) / エル・グレコ ( El Greco )
プラド美術館 蔵 ( Museo Nacional del Prado )
マドリード/スペイン

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今日は教会の誕生日です。「五旬祭」(一節)と呼ばれる日に起こった出来事。ペンテコステ、聖霊降臨日という日で、クリスマスとイースターに並ぶ、教会の三大祝祭日の一つです。この日、神の霊である聖霊が降りました。なぜ聖霊が降ったと分かるのでしょうか。なるほど、聖書にそう書いてあるから。それも一つの答えです。しかしその時その場にいた人はどうだったのでしょうか。なぜ分かったのか。それは神の言葉が語られ、聴かれたからです。そのことが分かったからです。

週報にも予告が記されていますが、来週の説教の説教題を「教会の初説教」と付けました。聖書箇所は、この続きの箇所です。使徒言行録第二章の一四節以下のところです。「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」(二・一四)。このようにして説教が語り始められます。そして説教が語られるからには、聴く人がいるわけです。神の言葉を語る者、聴く者が生まれた。そして聴いている者の中から信じて、洗礼を受ける者が現れる。使徒言行録第二章に記されているのは、そういう話です。今日の教会でも同じことが行われている。ですから、このときが教会の誕生日であると言われているのです。

本日、私たちに与えられた箇所に「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(一一節)とあります。教会の誕生日に、この「神の偉大な業」が語られ、聴かれました。それでは、「神の偉大な業」とは何でしょうか。いろいろな業が考えられるかもしれません。

例えば、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所が考えられます。詩編第二二編です。詩編は信仰者の祈りです。この詩編第二二編を書いた詩人もそうです。祈っている。どんなことを祈っているのか。二節にこうあります。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」(詩編二二・二)。この詩人がどんな状況だったのかは分かりませんが、絶望のうちにあった。この絶望の叫びを、主イエス・キリストも叫ばれた。主イエスも十字架でこれと同じ叫び声をあげられました。

ところが、この詩編第二二編は、本日、お読みした二三節以降、がらりと雰囲気が変わります。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。」(二二・二三)。そして最後の三二節では、「成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。」(二二・三二)と結んでいます。つまり、この詩人はかつて深い絶望のうちにいたようですが、今や救われ、その救いを多くの人たちに語っている、ということになります。神が自分にしてくださったことを振り返って語っているのです。「神の偉大な業」を語るのは、難しいことではないのです。自分に起こったことをただ語ればよいのです。


先週、私は教会内外で、いろいろな方とお話をする機会が多く与えられました。その集いの中に、一対一ではなく、複数の人数が集まっている集いもありました。すでに洗礼を受けられているキリスト者の方と、まだ洗礼を受けておられない方が同席をしている。そうすると、キリスト者の方が、洗礼を受けておられない方に、言葉を尽くして信仰の話をします。どんな話をするのか。やはり自分の話をするのです。かつて私はこうだった。しかし神が私の心を柔らかにしてくださり、私は信じることができた。そのような話をします。自分の救いを語る。神が自分にしてくださった「神の偉大な業」を語るのです。

使徒言行録に戻りますが、このときの聖霊を注がれた使徒たちも、やはり自分の救いを語りました。そしてその救いを語る際に、どうしても語らなければならなかったこと、それはイエス・キリストのことです。来週の箇所になりますが、使徒ペトロの説教の中でこうあります。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」(二・二二)。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(二・三六)。イエス・キリストのことを語る。使徒言行録の後半に出てくる使徒パウロもそうです。パウロは自分の回心のことを何度も語っています。イエス・キリストが自分にしてくださったことを語る。教会の出発点はそこにあったのです。

先週、私は毎日のように、いろいろな方とお話をする機会が多く与えられたと申し上げましたが、そのお話をした方の中に、聖書について教えて欲しいという方がおられました。簡単に言うと、聖書にはどんなことが書いてあるのか、そういう質問を受けたのです。実は私が先週、様々な方とお話しをした際に、何度も引用した聖書の箇所があります。このときも、やはりこの聖書箇所を引用しました。ヨハネによる福音書第二〇章三一節です。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネによる福音書二〇・三一)。

「これらのこと」とは、ヨハネによる福音書の最後ですから、ヨハネによる福音書全体のことです。しかしこれは何もヨハネによる福音書だけに限ったことではありません。新約聖書全体、いや旧約聖書も含めて、聖書全体の目標がこれであると言ってもよい。私たちが御言葉を聴き始めた使徒言行録もそうです。イエス・キリストを読者に信じてもらうことこそ、聖書が書かれた目的なのです。

先週の説教が終わって、説教をお聴きになられたある方から、このように言われました。「もう、イエスさまは出て来られないのですね…」。いくぶん悲しそうにそう言われました。確かに、主イエスはもう天にあげられましたので、直接、地上で接する形では出て来られないかもしれません。しかし、主イエスの話がおしまいになってしまうわけではありません。使徒たちは繰り返し、繰り返し、主イエスのことを語り伝えていきます。他のことは語らず、徹底的に主イエスを語る。ここに教会の歩みが始まるのです。

今日の話は教会の始まりの話です。何事も、始まりが大事です。ルカもよくそのことを知っていました。ルカは、ルカによる福音書を第一部として、そして使徒言行録を第二部として書きました。どちらも同じような始め方をしたのです。

ルカによる福音書では、最初に主イエスの誕生の物語が記されています。クリスマス物語です。クリスマスの話は、ルカによる福音書だけではなく、マタイによる福音書にも記されています。しかしルカの方がより丁寧であると言ってもよいと思います。主イエスがお生まれになる。もうそこにすでに十字架での死の予告も示唆されています。初めからそのことが表れているのです。主イエスの母マリアは「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ二・三五)と言われます。十字架での息子の死を見なければならなかったからです。主イエスが十字架で死なれる。ルカによる福音書の最初から、そのことが表れていたのです。

使徒言行録も、その構図が同じです。使徒言行録の最初は、教会の誕生です。出発日のことが記された。そしてその後、各地に教会が建てられていきます。何か真新しいことを始めたかというと、そんなことはまったくありません。最初の日と同じことをずっと繰り返していったのです。そして教会は二千年にわたって続いていますが、今でも最初と同じことをしているのです。

本日、私たちに与えられた箇所の出来事は、教会の原点の出来事です。二千年の歴史の中で、時には原点から逸れてしまうこともありました。しかし原点がはっきりしていれば、そこに戻ることができます。この出来事と同じ出来事が、今なお起こっていると言うことができるのです。

このとき、使徒たちは一つになって集まっていました。聖霊が降る約束を待っていたのです。祈って待っていたのです。そこに聖霊が注がれます。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(二~四節)。
ここに満たされるという言葉が出てきています。この満たされるという言葉、日本語で読むと分からないかもしれませんが、実は本日私たちに与えられた聖書箇所の中に、四度も出てくる言葉なのです。元のギリシア語の言葉も同一ではありませんが、満たされると訳すことのできる言葉が四つもある。

一つ目は一節です。「五旬祭の日が来て」となっています。これは直訳すると「五旬祭の日が満ちて」となります。時が満ちる、という表現を用いる方もあるかもしれませんが、それと同じ使い方です。二つ目は、続く二節です。「彼らが座っていた家中に響いた。」(二節)。これも直訳すると「彼らが座っていた家中に満ちた」となります。家中に充満するわけです。三つ目は四節です。「一同は聖霊に満たされ」(四節)。これはそのままです。そして四つ目は、最後の一三節です。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(一三節)。これは「あの人たちは、新しいぶどう酒に満たされているのだ」となります。ぶどう酒で体の中が充満して酔っ払っているということです。

聖書の中には、案外、満たされるという言葉がたくさん出てきます。とても大切な言葉なのです。特に使徒言行録ではそうです。使徒たちが聖霊に満たされる。そういう使われ方がよくなされます。使徒の内側が聖霊でいっぱいになるのです。

この満たされるというニュアンスを大切にすると、とても大事なことが分かってくると思います。神が私たちを満たしてくださる。私たちが満たされるために、私たちは空になっておかなければならない、ということが分かってくるのです。空だからこそ、入れる余地があって満たされることになる。逆に最初から満タンだとしたら、何も入れる余地がなくなってしまいます。

私たちは生きていると、いろいろなものが中に入り込んできます。日本的な考えかもしれませんが、そうならないように、雑念を捨てるとか、情欲を捨てるとか、そういうように考えます。空っぽの方がよいと考えるのです。聖書もその点は同じかもしれませんが、しかし大事なのは、神が入り込んでくださる余地を残しておくということです。聖書で強調されているのはそのことです。聖書は私たちに器になることを求めます。神が働いて、たくさんのものを入れることができる器です。器を空に聖霊が注がれ、器が満ちるのです。

実際にこのとき使徒たちがしたのはそのことだったのです。祈って待っていました。自分を空にしていたのです。空の使徒たちに聖霊が注がれた。聖霊に満たされた。使徒であった人間たちがうまくやって、教会が誕生したのではないのです。

使徒たちはこのとき、様々な国の言葉が語りだしました。五節にこうあります。「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが」(五節)。イスラエルは他に例を見ないような国で、国内に住んでいたユダヤ人よりも、海外に住んでいたユダヤ人の方が圧倒的に多く、五倍くらいの開きがあったと言われています。外国生活が長いユダヤ人が多かったのです。そしてせめて晩年くらいはイスラエルに戻ってきたいと考える人が多かった。その夢を実現させて故郷で暮らしていた人たちがこのときいたようです。

そのような人たちは、長年住んできた外国語の言葉が分かったわけですが、その人たちが使徒たちの言葉を聴いたのです。言語は異なれども、一つの共通点がありました。使徒たちの皆が「神の偉大な業」(一一節)を語っていたということです。聴いた人たちは皆、そのことが分かったのです。

ペンテコステは、使徒たちがあらゆる言葉で「神の偉大な業」を語った日として知られています。確かにその通りです。使徒たちは他の言語を話すという奇跡が起こりました。しかし奇跡はそれだけではなく、聴く者たちもそれが「神の偉大な業」であることが分かった。これもまた奇跡です。語る者と聴く者の両方に奇跡が起こったのです。これがペンテコステの出来事、教会の誕生の日の出来事です。

二千年前の原点と同じ出来事が今もなお起こっています。「神の偉大な業」が語られ、「神の偉大な業」が聴かれている。自分の器の中に、聖霊が注がれることによって、そのことが分かるのです。語っている方も、聴いている方もそうです。信仰者の原動力がここにあります。聖霊によって分かるようになる。分かるということは、私の救いが分かるということです。イエス・キリストが私の救い主であることが分かるのです。