松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20100523

2010年5月23日(日)ペンテコステ礼拝
説教題「一つになる言葉を語ろう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: 使徒言行録 第2章1節〜11節

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。LinkIcon続きを読む

旧約聖書: 創世記 第11章1〜9節

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
聖霊降臨(Pentecostes) グイド・レーニ (Guido Reni)

ヴァチカン美術館 蔵
(イタリア/ローマ)

クリックすると作品のある「CGFA」のページにリンクします。

聖霊降臨(Pentecostes) エル・グレコ (El Greco)

プラド美術館 蔵
(スペイン/マドリード)

クリックすると作品のある「Web Gallery of Art」のページにリンクします。

 私たちが住んでいるこの世界には、たくさんの国があり、たくさんの言葉があります。私たちが住んでいるのは、日本という国です。世界には日本以外に、もちろんたくさんの国があります。一体いくつの国があるのでしょうか。国際連合によって承認されている国の数としては一九三カ国です。また、テレビでオリンピック中継などを観ていますと、今回のオリンピックに参加しているのは全部でいくつです、とアナウンサーが言うことがあります。前回の北京オリンピックでは、二〇四の国と地域が参加しておりました。「地域」というのは、国としてはまだ国連で承認されていないということになりますが、国に準ずるものとして考えることができるでしょう。このように、世界には二百ほどの国があるということになります。

 それでは、世界には一体どのくらいの言葉があるのか。日本語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ギリシア語、ロシア語、中国語、韓国語というように、一つ一つの言語を数えていったら、いったいいくつになるのでしょうか。国の数は二百ほどでありましたけれども、その数よりも、言語の数は多いでしょうか、少ないでしょうか。答えを先に言いますと、世界には三千から八千もの言語があると言われています。その数の多さに、誰もが驚かれるのではないかと思います。

 三千から八千というように、どうして幅があるのか。それは数え方によって異なってくるからです。たとえば、私がかつて、ある地方に旅行したときのこと。タクシードライバーの方と話をしましたが、私は半分くらいしか、その話を聴き取ることができませんでした。同じ国の中でも、地域によって話されている言葉が異なるということがある。日本では日本語という言語が一つだけだと数えていくこともできます。しかし厳密に数えていくと、地方によって言葉が異なってくるので、言語の数はもっと増えていくのです。いずれにしましても、世界には三千から八千もの言葉があるのです。

 世界には二百ほどの国があり、数千もの言葉がある。どうしてこのように、世界のいろいろな場所で、いろいろな言葉が話されているのか。学者たちはその原因を探り、様々な説明をしようとします。しかし、聖書がこの問いへの答えを与えてくれます。しかもその答えは、どの学者が出す答えよりも明確で、真理を突いた答えになっています。私たちバラバラなのは、人間の罪が原因であるというのです。

 旧約聖書、創世記の箇所を先ほどお読みいたしました。バベルの塔の話であります。どうしてこの塔の名前はバベルというのか。正確に言うと、この塔のある町の名前ですけれども、どうしてバベルというのか。九節にこう書かれています。「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創世記一一・九)。

 旧約聖書が書かれた元の言葉、これはヘブライ語という言葉で、ユダヤ人が用いている言葉でありますが、ヘブライ語で「バーラル」という言葉は、混乱させる、乱すという意味があります。主なる神が人間の言葉を「バーラル」させた。人間の住む場所を「バーラル」させた。つまりバラバラにさせられた。だからこの町はバベルと言い、この塔をバベルの塔と言うのです。

 それでは、なぜ神は人間の言葉や住む場所をバラバラにさせられたのか。そうする必要がどうしてあったのか。その答えは、人間がなぜバベルの塔の建設を始めたのかというところにあります。四節のところにこうあります。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」(創世記一一・四)。バベルの塔を建てた人間の心の中には、このような思いがありました。神がよしとされなかったのは、人間のこの心であります。

 どうして天まで届く塔を建ててはいけないのか。どうして有名になってはいけないのか。有名になるということは、必ずしもそれ自体で悪いことではありません。自分が有名になるつもりがなくても、有名になってしまうこともあります。あるいは、神によって有名にさせられてしまうこともあるでしょう。聖書の中に、その名前が記されている人物は、今の私たちでも知っているくらいの有名人になりました。

 ところが、ここで有名といわれていることの意味は、自分の名前を高めるということです。「有名になろう」というのは、自分の名前を高めよう、ということです。神の名前ではなくて、自分の名前を高めたいのです。そしてついには、天に達するまでに高めたいと思ってしまう。自分の名前を、神の名前と同じ位置にまで持っていきたいと思ってしまう。天まで届く塔を建てたいという人間の思いは、自分が神のようになりたいという欲望が表れています。この欲望こそ、私たちの人間の罪です。神のようになりたい、その思いが、罪として表れているのです。

 バベルの塔の話は、実に単純明快な話と言えます。神のようになりたいと思った人間たちが、天まで届く塔の建設を始めた。しかしそれではいけないと、神が人間の言葉や住む場所をバラバラにされた。簡単に言ってしまえば、そのような話です。私がかつて教会学校で、このバベルの塔が聖書箇所として与えられました。説教準備にあたって、私は困ってしまった。どうしてかと申しますと、この話には祝福がないからです。人間の罪のために、この世界はバラバラにされてしまったのですよ、そんな話をして、説教を終えるわけにはいかない。どうしたものかと悩んでしまったわけです。

 そんなときに、ある牧師がこんな話をしてくれました。聖書全体を二つに分けると、どこで区切ることができるか。すぐに思いつく答えとしては、旧約聖書と新約聖書という分け方です。古い約束と新しい約束で分ける。古い約束を守ることができなかった罪人である人間のために、主イエス・キリストが来て下さり、新しい約束を結んで下さった。主イエス・キリストが来られる前と来られた後で分ける分け方、これが一つの分け方でありましょう。

 ところが、その牧師は別の分け方があると言うのです。それは、バベルの塔の前と後で分けるという分け方です。この区切り方でいきますと、前半部分は創世記の天地創造からバベルの塔までになります。そして後半部分はバベルの塔の後から、新約聖書の最後まで。ボリュームとしては、前半部分がとても短く、後半部分がほとんどの割合を占めるということになります。この分け方のポイントはこうです。バラバラになってしまったものを、一つにしていく。これが、バベルの塔の前後で区切るときの考え方になります。

 「初めに、神は天地を創造された。」(創世記一・一)、そのように聖書は始まります。神が造られたものは「極めて良かった」(創世記一・三一)はずであります。本来ならば、一つで良かった。一つの民として、神を礼拝していれば良かったのです。けれども、すぐに人間の罪の問題が起こってしまう。バベルの塔もそうでありました。アダムとエバもそうです。アダムとエバは蛇の誘惑に負けてしまいます。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる。」(創世記三・五)。あなたは神のようになれる、人間はその誘惑に負けて、罪が入り込んでしまった。人間は罪に罪を重ね、ついにはバラバラにされてしまった。これがバベルの塔のところまでであります。

 しかし、神はそれでおしまいにはされなかった。神はバラバラになってしまった私たち人間を、なんとかして、一つにされようとする。神のその熱意は、その後の聖書のボリュームを見ただけでも明らかです。まず、神はアブラハムという一人の人を選ぶ。創世記第一二章三節の後半にこうあります。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。この神の約束の通り、アブラハムの子孫が、やがてイスラエルとなる。そのイスラエルの中から、イエス・キリストという救い主がお生まれになり、イスラエルばかりか、全世界にまで救いが広げられる。これが神の救いの物語です。このように言ってしまうと簡単でありますけれども、バベルの塔以降の後半部分は、バラバラになった私たち人間が、イエス・キリストという救い主によって一つにされていくことが記されているのです。

 バラバラになった神の民が一つにされていく、その出来事は、ペンテコステという日に、特に明確に表われてきます。本日の日曜日は、ペンテコステという特別な日であります。クリスマスとイースターに並ぶ、キリストの教会にとって、特別な日です。クリスマスは主イエス・キリストがお生まれになった日でありますし、イースターは復活された日です。ではペンテコステが何の日かというと、ある人はこれが教会の誕生日であると言います。教会は、主イエス・キリストによって、直接、造られたわけではありません。主イエスが十字架にお架かりになり、復活をされて、天に挙げられ、その後に教会ができたことになります。その教会の誕生の場面が、本日与えられました使徒言行録の箇所になります。

 先ほど、この箇所の朗読をお聴きになられて、お分かりの方も多いと思いますが、ここでのテーマとなっていることは、言葉です。バベルの塔の出来事以来、バラバラにされてしまった言葉、この言葉がテーマになっているのです。教会が誕生した瞬間、何が起こったかというと、言葉が語られました。このとき、主イエスの弟子でありました、使徒と呼ばれる十二人がいました。主イエスを裏切ったユダは、すでに自殺してしまい、ユダの代わりにマティアという人物が加えられ、十二人になっていました。その十二人が集まっていると、こういう出来事が起こった。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、““霊””が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録二・二~四)。

 十二人は同じ言語を語ったわけではありません。それぞれが違う国の言葉で語りました。十二人の語る言葉を聴いた人々が、驚きのあまり、使徒たちが語った国の言葉を数えあげています。パルティア、メディア、エラム…。その他にも多くの国の言葉がここに挙げられていますが、これらを数えていくと、十二の言葉になります。十二人の使徒たちが、それぞれ違う言葉で、十二の言葉を語ったと考えるのが自然でしょう。誰もが同じ共通の言語を語ったのではないのです。しかしながら、聴いていた者たちは、言語が違っても、同じことが語られていることに気付いたのです!「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(使徒言行録二・一一)。

 聖霊に満たされた使徒たちが語っていた言葉は、「神の偉大な業」であります。バベルの塔の後に、聖書で書かれていることは、一つにまとまっていく話だと、先ほど申し上げました。バラバラになった言葉が、一つの言葉になっていくのではないのかと言いたくもなります。しかしそうではないのです。言語はバラバラのままです。今日の世界共通語は英語でありますが、当時の世界共通語であるギリシア語で、十二人が語ったのではない。何か新しい不思議な言葉を、突然、語りだしたのではない。そうではなくて、バラバラの言語です。しかし、聴いていた誰もが、神の偉大な業が語られていることに気付いた。ああ、神の偉大な業が語られている、その点で一致していると人々は分かったのです。

 私は何度か、アメリカの教会で礼拝に出席したことがあります。もちろん、英語での礼拝になります。あるときの礼拝では、子ども向けに語られていたこともあり、私のつたない英語力でも、説教のかなりの部分を理解することができた。ところが、別の礼拝では、説教の半分しか分からない。あるときは、説教のほとんどが分からなかったこともあった。歌う讃美歌の歌詞や、祈りの言葉もほとんど理解できないこともあった。

 しかしそうであっても、私は幸いな礼拝経験をすることができたと思っています。たとえまったく説教の言葉が理解できなかった礼拝であったとしてもです。なぜかと言うと、ここに神を礼拝する民がいるということは分かるからです。神を信じる信仰者の集いが、ここにあるということが分かるからです。たとえ説教の言葉がまったく理解できなかったとしても、説教者が「神の偉大な業」を語っているということは分かるのです。

 私たちは、言葉が通じるということを、一つになるということを、真剣に問わなければならないと思います。単に外国語を学んで、その国の人々と話すことができれば一つになれるのかと言いますと、必ずしもそうではありません。言葉を話すことによって意思疎通ができたとしても、一つになることができない事例を私たちはたくさん知っていますし、逆に、通じる言葉を話すことができなくても、深い交わりが芽生えたという事例をいくらでも挙げることはできるでしょう。私のアメリカでの礼拝体験もそうです。言葉があまり通じなくても、幸いな礼拝経験をすることができるのです。本当の意味で通じる言葉とは、どんな言葉なのでしょうか?バラバラになった私たちは、どういう言葉によって、一つになっていけばよいのでしょうか?

 今日の説教の説教題を「一つになる言葉を語ろう」としました。お手元の週報に印刷されている通りです。「一つになる言葉を語ろう」ではなくて、「一つになる言葉を聴こう」としても良かったかもしれません。バベルの塔の出来事以降、バラバラにされた私たちを、どのように神が再び一致させてくださるのか。それは、神の言葉を聴くことによってです。そして私たちが神の言葉を語り合うことによってです。

 本日は使徒言行録の第二章一節から一一節までをお読みいたしました。その後、十二人の一人であるペトロが説教を語ります。神の言葉を語るのです。説教を語り終えた後、何が起こったか。こう記されています。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」」(使徒言行録二・三七~三八)。神の言葉を聴いた者たちは、洗礼を受けることになった。そしてそこに、神の言葉を聴き、語り合う一つの集いが生じたのです。これこそが教会なのです。

 バベルの塔の出来事以降、神は私たちを一つに集めようとされました。救い主イエス・キリストが来て下さり、私たちを一つにして、教会を建ててくださいました。しなしながら、私たちを一つにする教会がありながらも、この世界では、今日でも、様々なバベルの塔が建てられて続けています。戦争によって政治が破たんし、金融不安によって経済が破たんし、すさんだ人間の心が社会を破たんさせています。そのような出来事が次々と起こり、バベルの塔がもろくも崩れ去っています。そのような世界に身を置かなければならない私たちです。

 しかしだからこそ、私たちはバベルの塔のような不確かなものではなくて、確かなものを建てたい。確かな救いの約束を聴くことができる、また語り合うことができる、教会を建てたい。一つになることができる言葉を聴き、通じる言葉を語り合い、神の民として、一つになりたいのであります。

 新約聖書の別の箇所に、このように記されています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ三・二六~二八)。教会にはいろいろな人がいます。今日の礼拝には、子どもたちも出席しています。小さな幼子から、お年を召された方まで、いろいろな人がいるかもしれない。しかし私たちは、神の言葉によって、一つになることができる。不確かなものではない、確かな教会を建てることが許されている。松本東教会もまた、そのような教会であることを神に感謝したい。