松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2014年4月6日(日)
説教題「神の力を正しく用いよう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第19章11〜20節

神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。

旧約聖書: 列王記上 第8章27~34節

主イエス・キリストの十字架での受難を覚える受難節のときを、私たちは過ごしております。来週の日曜日からはいよいよ受難週に入ります。そして今年は四月二〇日となりますが、主イエスがお甦りになられた日、イースターを迎えます。今日はイースターまで、あと二週間ということになります。

先日、ある教会員の方と話していたときに、灰の水曜日ということが話題になりました。灰の水曜日とは、今年で言いますと三月五日の日でありまして、イースター前から数えて四十日前ということになります。ただし、このときの数え方は、日曜日は含まないで四十日を数えます。なぜこのような数え方をするのか。それは、主イエスのご受難を覚え、イースター前の四十日間、断食をする。教会によってはそういう習慣があったのです。ただし日曜日は主イエスのお甦りの日でありますから、たとえ受難節であっても、日曜日は断食をしない。つまりイースター前の日曜日以外の四十日を数えていくと、必ず水曜日になるわけです。

灰の水曜日には、本当に灰をかぶり、主イエスのご受難を覚える習慣もかつてはありました。今でも教会によっては本当にそうしているところもあるかもしれませんが、額に灰を少し付ける教会もあります。本来ならば私たちが被るべきであった苦難を、主イエスが十字架で代わりに引き受けてくださった。そのことを覚え、灰の水曜日からの受難節を私たちも過ごすのです。主イエスほどの受難はもう過ぎ去りました。しかし主イエスの受難を少しでも覚えつつ、私たちはこの期間を過ごすのです。

本日、私たちに与えられた使徒言行録の聖書の箇所には、エフェソの町での話が記されています。使徒パウロがエフェソの町にいました。第三回目の伝道旅行の始まりのところであります。いろいろな出来事がありました。パウロは二年三か月にわたりこの町に滞在し、主イエス・キリストを宣べ伝えました。主イエスが私たちのために受難され、復活をしてくださった。私たちの罪を赦す救い主になってくださったということを、エフェソの町の人たちに伝えていたのです。

パウロが具体的にどのような言葉を語ったのかは分かりません。しかし信じる者たちが生まれていました。教会に信仰者が増えていた。信仰者の特権とも言えるのは、主イエスの名を呼ぶことができるということです。例えば、感謝すべきことがあったときに、「イエスさま、感謝します」と言うことができる。困難に陥ったときには、「主よ、助けてください」と叫ぶことができる。「主よ、…してください」と祈ることもできます。聖書の中に、神の名を呼ぶ場面がかなり出てきますが、一体どのようにして名を呼べばよいのでしょうか。神の名を呼ぶふさわしさとは何でしょうか。今日の話は、そのことをめぐっての出来事ということになります。

本日の聖書箇所に、ユダヤ人の祈祷師たちが出てきます。一三~一四節にこうあります。「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。」(一三~一四節)。

主イエスの名を、試みに、つまりためしに言ってみるということをしていた人たちです。聖書の中には、神を試してはならない、としきりにそのことが書かれています。ためしに神の名前を持ち出して使ってみる。これも試してはならないこととして禁止されています。なぜそのように厳しく戒められるのでしょうか。試すという行為を私たちがしているときの、私たちの心の中の状態を考えてみると、なぜ禁止されているのかがよく分かってきます。私たちが何らかのことを試すとき、私たちの心の中を支配しているのは疑いです。本当にそうだろうか、半信半疑だから、とりあえずやってみる。試してみる。私たちが試すときの心の状態はそうだと思います。

スケワという者の七人の息子たちもそうでした。どうやらイエスという名にはすごい力があるらしい。パウロという人物もその名を使ってすごいことをしている。自分たちにもできるのではないか。ためしにやってみようではないか。そう思っていたに違いありません。彼らは呪文のように、とりあえず言ってみました。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」(一三節)。しかしやはり駄目でした。散々な結果になってしまいました。「そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。」(一六節)。

なぜパウロはよくても、スケワの息子たちは駄目だったのでしょうか。一つ考えられるのは、明らかにこの人たちが信仰者ではないということです。主イエスの名をとりあえず呼ぶという知識はありました。しかし主イエスの名を呼ぶ本当のところは、あまりよく知らなかったのです。

このことをもう少し深く考えてみたいと思います。一五節に悪霊からの言葉が記されています。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」(一五節)。悪霊は主イエスもパウロのこともよく知っていました。そして最後の言葉に着目してみましょう。「いったいお前たちは何者だ」。その悪霊からの問いかけに対して、この人たちはうまく答えることができませんでした。もちろん、「祭司長スケワの息子たちだ」、そう答えることもできたでしょう。聖書には記録されていませんが、実際にそう答えたかもしれません。しかしその答え方では役に立ちませんでした。一六節に記されているような、散々な結果になってしまったのです。

「いったいお前たちは何者だ」、つまり「あなたは誰なのか」、その問いに対して、私たちは何と答えるでしょうか。もちろん状況によりけりでしょう。TPOなどという言葉がありますが、時、場所、状況に応じた答え方があるでしょう。しかし信仰者ならではの答え方もあると思います。

一九九〇年代に、つまり今から二〇年ほど前になりますが、アメリカにおいて一つの信仰問答が作成されました。信仰者が何を信じているかを問いと答えをもって表したものです。アメリカ合衆国長老教会というグループが作ったものです。日本語にも翻訳がなされました。『わたしたちは神さまのもの -はじめてのカテキズム-』というタイトルが付けられています。

この信仰問答の最初の問いと答えがかなり有名になりました。こういう問答です。「問一、あなたは誰ですか。答え、わたしは神さまの子どもです」。この信仰問答は、第一義的には子どもたちの信仰教育を願って作られたものです。「神さまの子どもです」という答えは、小さな子どもならでは答えと言えるでしょう。しかしこれは子どもに限った話ではありません。信仰者ならば誰もが言えることです。「あなたは誰ですか」、「いったいお前は何者だ」と言われたときに、「わたしは神さまの子どもです」と答えることができるのです。

この問一に引き続き、当然のように次の問二が続いていきます。「問二、神さまのこどもであるとはどういうことですか。答え、わたしが、わたしを愛してくださる神さまのものだということです」。神さまの子どもであるということは、親は子を愛するのですから、神に愛されている者ということになります。神が私たちを愛してくださっている、なぜなら私たちは神さまの子どもだからである、と言うのです。

そうであるならば、私たちはどのように神さまの子どもとして神に向き合えばよいのか。問五と問六にこうあります。「問五、この愛の贈り物に対してどのように神さまに感謝するのですか。答え、わたしが心から神さまを愛し、神さまに信頼することを約束することによってです」。「問六、どのようにして神さまを愛するのですか。答え、神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです」。神さまの子どもとして、親である神を信じ、信頼し、人を愛し、神がお造りになったものを大切にする歩みが始まっていくのです。この歩みの中で、名を呼ぶこともまた始まっていきます。

ユダヤ人の祈祷師であった大祭司スケワの七人の息子たちは、主イエスの名を呼ぶ一応の知識はあったかもしれませんが、しかし信仰はありませんでした。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」(一三節)と言うことはできました。しかし「わたしが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」とは言えませんでした。「いったいお前たちは何者だ」(一五節)という問いかけに対して、「わたしは神さまの子どもです」とも答えることができませんでした。そこに、この人たちの間違いがありました。少しは知識があったかもしれませんが、信仰がなかったのです。

私たちが時々、抱く疑問として、知識と信仰の問題があると思います。神を信じる信仰と、神や聖書に関する知識、その二つをどう考えればよいのかという問題です。例えば、信じて洗礼を受けたいと思っているけれども、聖書に関する知識があまりない。こんな私が洗礼を受けたよいのだろうか、もっと勉強して知識を増さなければならないのではないか。このような悩みを抱いた方もあると思います。あるいは、信じたいけれども、なかなか信じることができない。信じることができるようになるために、もっと聖書を学んで神に関する知識を蓄えれば、信じることができるようになるのではないか。こう考えたことのある方も多いと思います。

信仰と知識のバランスは一体どうなっているのでしょうか。教会の歴史の中で、こんな名言が生まれました。「知解を求める信仰」という言葉です。この言葉は、一一世紀頃に活躍をした、カンタベリーのアンセルムスという人の言葉であると言われています。しかしもっと時代を遡ることができ、四~五世紀にかけて活躍したアウグスティヌスにまで遡ることができるのではないか、そう考えている人もいます。

いずれにしても、アンセルムスが「知解を求める信仰」という言葉をはっきり言ったのですが、なぜアンセルムスはこんな言葉を言ったのでしょうか。それは、アンセルムスの周りに、信仰と知識のバランスが欠けている人が多かったからです。知識を重んじすぎて、頭でっかちになるかもしれないけれども、信仰が欠如した人がいたかと思うと、それとは逆に、知識を軽んじすぎて、とりあえず何でも盲目的に信じる信仰に陥っていた人もいたからです。

アンセルムスはそのような人たちに対して、「知解を求める信仰」という言葉を言いました。つまり、アンセルムスが言おうとしていたのはこういうことです。信じることがまず出発点にある。そうすると信仰と共に知識が後から追いかけるようについてくる。信仰があれば、知解を、つまり知識を求めるようになる。そう言っているのです。

私たちの信仰と知識の関係もまさにそうだと思います。いくら聖書を勉強して神に対する知識を増したところで、信仰が生まれるとは限りません。まず信じる。そこで出発点に立ちます。信じるということは、神が自分を救ってくださったことを信じるわけですから、当然、自分を救ってくださった神のことをもっと深く知りたくなります。自分が愛し、自分のことを愛してくれる恋人を、もっとよく知りたくなるようなものです。神を信じることから始め、その神をますます知っていく。それが一番、自然な流れだとアンセルムスは言うのです。信仰と知識のバランスを、このように考えることができると思います。

信仰者の歩みは、実際にこのような歩みです。神を信じるところが出発点。そしてますます神を知っていく。ますます神に近づいていく。ますます神の名を親しく呼ぶようになる。そういう成長し、発展していく歩みなのです。

その点で、とても興味深いのは、本日の聖書箇所の後半部分のところです。一七~一九節を改めて朗読いたします。「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。」(一七~一九節)。

大祭司スケワの息子たちがひどい目に遭い、その話がエフェソの街中に伝わりました。エフェソの町で一体何が起こったのか。しかも信仰者の間で何が起こったのか。「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」(一八節)とあります。「信仰に入った」というのは、聖書の元の言葉であるギリシア語では完了形となっていて、もうすでに信仰に入ることが完了した人たちのことです。

その人たちが「自分たちの悪行をはっきり告白した」のです。「悪行」とありますが、「悪」という言葉は元のギリシア語にはありません。「自分たちの行いをはっきり告白した」ということですが、この「はっきり告白した」というのは、懺悔をした、悔い改めの告白をしたという意味です。神を信じ、神の力に寄り頼むはずが、神の力ではない別のものにまだ寄り頼んでいた。しかもこっそり寄り頼んでいた。「魔術」(一九節)とありますが、何も今の私たちとは無関係な魔術だけを考えない方がよいでしょう。信仰者たちが神以外の力に寄り頼んでいたことを告白し、その力と決別をしているのです。

スケワの息子たちと、ここでの罪の告白をしている人たちが、まったく違うことがお分かりいただけるでしょう。一方は主の名を呼ぶことを知らない者たちであり、他方は主の名を呼ぶことを知っていた者たちです。一方は「お前たちは何者だ」という問いに答えられない者たちであり、他方は「わたしは神さまの子どもです」と答えることができた者たちです。

神を信じ、神を知り、神の名を呼ぶ者は、自分をよく知っている者です。「わたしは神さまの子どもです」、いつ、いかなる時も、そう答えることができる者です。この世の中において、「いったいお前は何者だ」と問われたとき、私たちは必死にその答えを探そうとするものです。自分はこういう者だ、あれができる、これもできる。そのように自分を言い表そうとします。しかしそれらはやがて時間とともに、すべて消えうせます。

それらすべてが消えて、すべてがそぎ落とされたときに最後まで残るものは、「わたしは神さまの子どもです」という答えのみです。この答えをすることができる者は、自分が曖昧になることはありません。自分が揺さぶられるようなときも、自分の存在が揺らぐことはありません。「わたしは神さまの子どもです」「わたしはキリストのものです」「わたしはキリスト者です」、その言葉によって私たちは支えられるのです。