松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年3月2日(日)
説教題「知らないことを、お知らせしましょう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第17章16〜34節

パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』、『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

旧約聖書: ヨブ記 第38章1~21節

本日、私たちに与えられた使徒言行録の聖書箇所の話の舞台はギリシアのアテネになります。使徒パウロがアテネにいたときのことです。「二人を待っている間」(一六節)とありますが、これは先週の聖書箇所にありますように、伝道の仲間であったシラスとテモテのことです。思い通りにいかないようなこともあり、パウロは二人と一時的に別れたのでしょう。二人はベレアというところに残った。パウロはアテネにまで足を延ばしていました。第二回目の伝道旅行の最中のことです。

アテネと言えば、ギリシアの中心地です。今でもギリシアの首都はアテネです。アテネはギリシア文化の聖地と呼べるようなところです。当時は経済的にはコリントの方が上であったようです。経済的には衰退していたところがありました。しかしそれでもアテネは精神的にギリシア文化の中心地でありました。

パウロが是が非でもアテネで伝道をしたいと思ったわけではなかったようです。むしろたまたまアテネに滞在することになった。そこで目にしたのは、たくさんの偶像でありました。「偶像があるのを見て憤慨した」(一六節)とあります。そこでパウロがそこにいた人たちに対して、説教を語ることになりました。お気づきになられた方もいらっしゃるかもしれませんが、パウロの今までの説教とはまったく違うスタイルになっています。当然のことかもしれません。今までのようにユダヤ人たちに対して語るように語るわけにはいかないからです。ギリシア文化にどっぷり浸かった人たちを相手に語ってきたのであります。

象徴的な言葉があります。「知られざる神に」(二三節)という言葉です。パウロがアテネの町を歩いていたときに、たくさんある偶像の中の一つに、このような言葉が付けられていたというのです。知られざる神。本当の神を知らず、勝手に神々を生み出してきたことを表している言葉です。エピクロス派とストア派という哲学の学派の名前が挙げられています。ギリシア哲学と一概に言ってもいろいろなグループがあり、いろいろな考えがあるわけですけれども、「知られざる神」を作り出すのは同じであります。神のことがよく分からなかったのです。

二七節のところにこうあります。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」(二七節)。その気さえあれば、「知られざる神」ではなく、本当の神を見出すことができるのだとパウロは言います。しかしパウロが書いている手紙から明らかなように、見出すことができたにもかかわらず、私たち人間は神を結局のところ見いだせなかったとはっきり言います。見出すことができず、「知られざる神」を作りだしてしまう。それが人間なのです。ギリシア人だけに限った話ではありません。

それでは神とは一体何でしょうか。神はどんなお方なのでしょうか。求道者の方とそんな話をすることがあります。神とは私たちを超えていて、こんなお方ではないか、なんとなくのイメージを誰もが抱いていると思います。いや、なんとなくのイメージでしか語れないところがあります。そもそも神とは何か、神を定義することすら、私たち人間にはできません。絶対にできません。私たち人間が用いている言葉で神を定義して、言葉の中に神を押し込めることなどできないからです。

先週の木曜日、オリーブの会が行われました。信仰の初歩的なことを学ぶことができる会です。その会の中で、聖書の言葉をめぐっての話になりました。言葉には限界があるという話です。聖書は世界中の言葉に翻訳されています。どの言葉が元かと言うと、ギリシア語です。新約聖書はギリシア語で書かれました。そしてギリシア語から翻訳がなされます。翻訳がなされるということは、言葉のニュアンスが変わる可能性があるということです。

例えば、オリーブの会でも話題になったことですが、聖書に「愛」という言葉がたくさん出てきます。しかし実はギリシア語では、同じ愛でも複数の愛という言葉が存在します。自己犠牲の愛なのか、同質のものに対する愛なのか、自己中心的な愛なのか、ギリシア語では使い分けられていますが、日本語では愛という言葉一つしかありません。聖書には、自己犠牲の愛という言葉が割合としては圧倒的に多いと思いますが、他の愛という言葉も出てきます。そうなると、きちんとそのニュアンスの違いをくみ取る必要が生じてきます。

しかしいくらそのニュアンスの違いをくみ取ったとしても、それはそれで限界があります。なるほど聖書には自己犠牲の愛がたくさん出てくるかもしれません。しかし自己犠牲の愛とは一体何でしょうか。言葉のニュアンスだけ分かったとしても、その愛とは具体的などんな愛なのか、それがよく分からない。そういうことが問題になってくるのです。

オリーブの会で私が申し上げたことを繰り返したいと思います。愛を知るためには、言葉のニュアンスを聴き取ることも大切ですが、それ以上に大切になってくるのは、聖書全体に記されている出来事から愛を知ることです。言葉からだけで、愛を知ることはできません。神が私たち人間に何をしてくださったのか、その神の愛を、出来事を通して知ることが大事なのです。そうでなければ、私たちは勝手な自己流の愛を造り上げてしまうでしょう。そしてそれでも愛がまだよく分からない。「知られざる愛」などという標語も作ってしまうかもしれません。でも神が私たちにしてくださったことを見れば、自己犠牲の愛とは一体どんな愛なのかが分かってきます。聖書全体から愛を分かることができるのです。

では、どのように知ることができるのか。やはり神がしてくださった行為によって知るしかありません。今日の聖書箇所の三〇節のところにこうあります。「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」(三〇節)。ここに「時代」という言葉が使われています。以前の時代は大目に見てくださった。しかし今は違うというのです。

この「時代」という言葉は、ギリシア語で言いますと「クロノス」という言葉です。聖書では時を表わす言葉が複数出てきます。一つがこの「クロノス」です。広い時間、期間を表わす言葉です。一定の期間ですから「時代」と訳されるわけです。これに対して、「カイロス」という言葉があります。今日の聖書箇所には出て来ない言葉ですが、この「カイロス」は決定的な時という意味です。しかも聖書では、イエス・キリストの出来事によって性格づけられる時です。イエス・キリストが十字架にお架かりになり、復活された時。私たちの救いの時です。

パウロがこの説教の三〇節のところで言っているのは、こういうことです。今までいろいろな時代、「クロノス」があった。いずれも無知の時代だった。「知られざる神」と言っていた。しかし今や決定的な救いの時、「カイロス」が訪れた。無知の時代は終わりを告げた。決定的な時として神が何をしてくださったのかが分かった。その決定的なことをしてくださった神がどんなお方であるのか知ることができた。そんな時が訪れたと言うのです。

さらに三〇節には「大目に見てくださいました」という言葉が使われています。新共同訳聖書では「大目に見る」という翻訳になっていますが、たいていの聖書では「見過ごす」となっています。本当ならば人間が神を見出さなければならなかったのに、神が昔の無知の時代を見過ごしてくださるというのです。

見過ごす、大目に見るとはどういうことでしょうか。なかったことにしてやる、ということでしょうか。そうではありません。ある牧師が、高校生に対してこんなことを言っていたのを思い起こします。その高校生の祖父母ともに教会員だったのですが、その牧師は高校生にこう言いました。神が赦してくださる赦し方とは、おじいちゃんやおばあちゃんが孫のことを「ああ、いいよ、いいよ」と大目に見てくれるようなことではない。神はそのように赦すのではない。「ああ、いいよ、いいよ」で済まされるのならば、その罪がそのまま放置され、再び罪を犯すことになってしまうでしょう。それはその子のためにはなりません。私たちが犯した罪は、きちんとその責任が取られなければなりません。

そこでパウロは何と言っているのか。三〇節の続きの三一節にはこうあります。「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」(三一節)。「この方」とありますが、イエス・キリストのことです。パウロが伝えているのは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストが十字架にお架かりになり、そして三日目に復活された。つまり、罪が放置されたのではなく、そこで罪の処理がなされたのです。

けれども、裁かれたのは私たちではありません。代わりにイエス・キリストが十字架で裁かれてくださったのです。罪の責任をすべてイエス・キリストが背負ってくださいました。だから私たちは見過ごしてもらうことができるようになった。大目に見てもらうことができるようになったのです。曖昧な形で罪が放置されたのではなく、きちんと罪の責任が取られた上でのことです。

今や時代が変わったのです。罪の責任の取り方が変わったのです。旧約聖書では、自分たちが犯した罪の責任は、どこか自己責任なところがあります。罪を犯した。罪を赦していただくために、自分の財産を犠牲にする。あるいは本当に裁かれて、悪いことが起こる。旧約聖書で見られるのは、自分の罪は自分で償うという自己責任です。そして旧約聖書が示しているもう一つのことは、人間は自己責任ではどうにもならなかったということです。繰り返し、繰り返し、罪を犯し続け、自分では罪を背負いきれなかった人間の姿が描かれています。

何らかのことに責任を取る、これはとても大変なことです。どの世界でも「責任」という言葉があふれかえっています。テレビや新聞を観ても、政治家が責任を取って辞めるだとか、組織のトップの給料が責任を取って減らされるだとか、そんなことがよく聞かれます。どこか中途半端な、完全に責任を負いきれていないのではないかと思わされることもしばしばあると思います。

けれども、本当の意味で責任をきちんと取ることができた人はいるでしょうか。私はいないと思います。人間の責任の取り方には限界があります。本当の意味で責任を負いきれる人は誰もいないのです。まして人間の罪の責任はなおさらでしょう。
しかし聖書が私たちに告げるのは、神の子であるイエス・キリストが私たちの罪を背負ってくださったということです。そのようにして私たちの罪が拭われたということです。背負いきることができず、自己責任で罪を償わなくてはならない、そんな時代に終わりが告げられたのです。

時代が変わり、もう私たちの罪が赦されました。そうであるならば、私たちはどうすればよいのでしょうか。何もせずともよいのでしょうか。パウロが告げているのは、たった一つのことです。「悔い改めるように」(三〇節)ということです。

「悔い改め」という言葉が出てきました。新約聖書に頻繁に出てくる言葉です。ギリシア語では「メタノイア」と言います。元のニュアンスは向きを変えるということです。今までは「知られざる神に」などと言い、神の方を向いていなかった。しかし今や、向いている方向を変えよ。神の方に向き直れと、パウロは言っているのです。

決定的な時、「カイロス」がキリストと共にやって来ました。そして今や時代、「クロノス」が変わったのです。そのような決定的なことを神がしてくださいました。この説教の冒頭でも申し上げたように、人間が神を定義することはできません。けれども、神がどのようなお方であるのかは知ることができます。私たちの罪を見過ごしてこられた。そしてイエス・キリストによって私たちの罪を赦してくださった。さらに今や、悔い改めよ、こちらの方に向き直れと言ってくださる。それが、私たちが信じている神です。神はそういうお方なのです。

三〇節に「どこにいる人でも皆」とパウロは呼びかけています。そこに何の差別もありません。ユダヤ人もギリシア人も、時を隔てて今の私たちも同じです。パウロの説教を聴いて、あざ笑ったり、また今度と言っておきながらもう二度と聴かなかった人たちが多い中で、神を信じ受け入れた者たちもいました。「ディオニシオ」(三四節)という名前が記されています。議員の一人です。

ある伝説によれば、このディオニシオという人が、アテネ教会の初代牧師になったという話があります。真偽のほどは分かりません。しかしこの使徒言行録を書いたルカが、名前入りで登場させていることから考えると、使徒言行録の最初の読者たちが、ディオニシオのことをよく知っていたのだと思われます。このように神を知り、信じ、悔い改め、救われる人が確かにいたのです。

今の私たちも同じです。私たちもディオニシオ、あるいは「ダマリス」(三四節)という婦人です。以前は私たちも無知でした。神を知らずにいました。しかし今や、私たちは神を知っています。信じています。悔い改めています。救われています。もう私たちはそのような時代の中を歩んでいるのです。