松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年2月23日(日)
説教題「聖書の読み方」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第17章1〜15節

パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。
兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。

旧約聖書: ネヘミヤ記 第8章8~12節

聖書とどのように付き合うか、私たち信仰者にとって、とても大事な問題です。先週、南信分区委員会という会議が行われました。会議は午前から午後にかけて行われましたが、昼食をとっているとき、牧師たちの間で聖書の話題になりました。一日にどのくらい聖書を読んでいるか。通読をしているか。朝に聖書を読んだ方がよいのか、それとも夜に寝る前のときの方がよいのか。神学書や注解書と比べて、どの程度、聖書を読んでいるかなど、そんな話題となりました。

要するに、聖書とどのように付き合っているかということになりますが、付き合い方で一番大事になってくるのは、聖書とは一体何かということです。聖書とは私たちにとって、どのようなものでしょうか。皆様ならどのようにお答えになるでしょうか。聖書は聖なる書です。そういう漢字を書きます。それではなぜ聖なる書なのでしょうか。

実は聖書が聖なる書であるというのも、私たちの信仰にかかわってくる信仰の問題なのです。私たち信仰者は神を信じています。イエス・キリストを信じています。聖霊を信じています。それらと並んで、教会を信じます。聖徒の交わりを信じます。罪の赦しを信じます。そして聖書が聖書であることを信じるのも、信仰の一部になってきます。

私たちの松本東教会は日本基督教団というグループに属しています。日本基督教団には信仰告白があります。洗礼式や転入会式などでしか、あまりお目にかかることはないかもしれませんが、週報にその全文が印刷されています。後半部分が毎週、告白している使徒信条になりますが、前半部分の最初はこのように始まっています。「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証(あかし) し、福音の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」。このように日本基督教団の信仰告白は、最初に聖書を信じる信仰を告白しているのです。

この信仰告白の細かな内容を解説している暇はありません。ただ、ひと言、二言だけ申し上げます。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」と始まります。確かに聖書は人間が書いたものではありますが、それだけではなく、神の導きによって書かれたものであると、私たちは信じるのです。そしてもう一つ。聖書は神について、救いについて、完全な知識を私たちに与える神の言葉であると言われています。つまり、聖書を読めば、どう神を信じればよいのかが分かる。どう生活すればよいのかが分かるというわけです。そのように私たちは信じているのです。

これは日本基督教団の信仰告白ですが、私たちの教団に限った話ではありません。日本基督教団信仰告白の最初の部分、すなわち聖書の部分ですが、これは外国の昔の信仰基準を参考にして作られたものであると言われています。つまり、日本基督教団だけに限った話ではありません。すべてのキリスト者がこのように信じているのです。このように信じることが、信仰者にとっての聖書との付き合い方になるのです。

本日のこの説教の説教題を、「聖書の読み方」としました。キーワードになってくるのが、やはり聖書だからです。本日、私たちに与えられた使徒言行録の聖書の箇所は、パウロたちの第二回目の伝道旅行の最中の出来事になります。先週の聖書箇所ではフィリピという町が話の舞台でしたが、今日の聖書箇所ではテサロニケとベレアという町が話の舞台になります。

二つの町での別々の話ですが、この使徒言行録を書いたルカは、二つの話を並列させて書いているところがあります。いろいろなことが起こりましたが、二節と一一節のところにこうあります。「パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い…」(二節)。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。」(一一節)。

いずれの箇所にも「聖書」という言葉が出てきます。使徒言行録もそうですが、新約聖書はギリシア語で書かれました。二千年前のギリシア語には、まだ聖書という独自の単語はありませんでした。英語ではThe Bibleと言います。日本語では「聖書」です。二千年前のギリシア語はと言うと、「もろもろの書」という言葉が使われています。英語で言えばthe booksです。この使徒言行録の箇所で言われている聖書というのは、旧約聖書のことになります。旧約聖書の創世記から始まり、詩編やイザヤ書なども含めて、いろいろな書です。その聖書を用いて、「論じ合い」(二節)、「聖書を調べていた」(一一節)のです。

一体何を論じ合い、調べていたのでしょうか。それもはっきりとしています。イエスという人が一体誰なのかということです。イエスはキリストなのか。メシアなのか。そうなのか、そうではないのか、そのことが聖書をもとに論じられ、調べられていたことです。

三節のところに、パウロの語ったことの概要が記されています。「「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。」(三節)。イエスという人がキリストである、救い主である、パウロが説教をしていたのはそのことに尽きます。

パウロに限らず、その後の時代も説教者は同じ説教をします。本当だろうかという問いが生まれます。いつの時代でも生じる問いです。先日もある求道者の方と話をしていましたが、そのときにその求道者から「イエス・キリストが神なのか、単なる人なのか、それは永遠の問いですね」と言われていました。確かにその通りです。私たちはイエス・キリストが神の子であり、救い主だと信じます。パウロもそのことを語ります。言葉を尽くして説明をします。その際に、必ず聖書を引用することになるのです。

聖書を引用し、論じ、調べる。まるで私たちが聖書を取り扱っているかのような、私たちが聖書を所有しているかのような感じがします。しかし聖書を読んでいると、不思議なことが起こります。自分が主体となって聖書を読んでいても、実はそうではないということに気付くときが来ます。主体は自分ではなかった。「私が」聖書を読んでいたはずだったのが、私が神によって愛されていた、赦されていた、捉えられていた、選ばれていたことに気付くのです。神に対して、聖書に対して受け身であることに気付くのです。

数年前に『聖書は誰のものか?』という本が出版されました。ペリカンという教理史家、教会の歴史家が書いたもので、すぐに日本語に翻訳がなされました。「聖書は誰のものか?」というタイトルに「聖書とその解釈の歴史」というサブタイトルが付けられています。その通り、聖書がどのように生まれ、どのように解釈されてきたのか、その歴史が記された本です。ペリカンが書く本は教理史ですから難解なものが多いのですが、この書は比較的、取っ付きやすいと思います。

この本の前書きのところに、こんなことが書かれています。一九九〇年のクリスマスに、ニューヨークのカーネギー・ホールで「メサイア」の演奏会が開かれました。ペリカンはそこに招待され、プログラムの冊子に文章を書くことを依頼されました。その冊子に載せた題名は、ペリカン自身の以前からの疑問だったようですが、「聖書は一体誰のものなのか?」という題でした。

カーネギー・ホールで行われる「メサイア」は、演奏者も聴衆も、すべてキリスト者だけというわけではありません。そこにはユダヤ教徒もいれば、無宗教の人たちもいるわけです。どこかの教会主催で「メサイア」をすれば違うかもしれませんが、カーネギー・ホールという場では、少なくともそうなるわけです。

ペリカンは「聖書は一体誰のものなのか?」という疑問を持ち続けていたようですが、そもそもこの疑問を持つようになった発端は、数十年前に遡ります。ペリカンの叔父にあたる人が、アメリカ人なのですが、第二次世界大戦前にソ連に仕事に行きます。現地で叔母となる人と出会い、結婚をします。そして叔父は叔母をアメリカに連れて帰ります。ソ連ではその当時、無神論であることが求められた時代でした。聖書を満足に読むこともできません。そしてアメリカに渡るや、叔母は聖書を始めとして、その他の書を読みあさったのだそうです。あるときに叔母がスラブ訛りの英語で、若き日のペリカンに尋ねます。「あんた、聖書をどう思っているのか教えて」。ペリカンは突然のその問いに、うまく答えられなかったようです。そして数十年経って、ようやくこの叔母に問いに挑もうとしている。そのことが前書きのところに書かれています。

ペリカンはこの書の中で、聖書とその解釈の歴史を論じていき、その答えにたどり着こうとするのですが、最後の後書きにこういう文章を残しています。「ここまで来て…本書の初めにあった問、「聖書は誰のものか?」はまだ答えられていない。究極的な意味で、聖書を「自分のもの」と考えることは倒錯である。ユダヤ教もキリスト教も、聖書は「神の」書物であり、「神の」言葉であると常に断言してきた。つまり聖書はわれわれ誰一人のものでもない」。

ペリカンは、「まだ答えられていない」という結論にたどり着きました。結局、その答えにたどり着くことができなかったのです。そしてペリカンが代わりに出した結論が、聖書は私たちのものではない。私たちどころか、誰のものでもないという答えです。私たちが聖書を所有していると思ったとしても、それは錯覚しているにすぎないと言うのです。

実際に聖書にも、このような言葉があります。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。」(詩編一三九・一)。私たちが聖書を読んで、神を知るのかと思いきや、逆に神が私たちを知っておられ、究めておられると言うのです。新約聖書にも同じような表現があります。「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」(Ⅰコリント八・三)。主イエスもこう言われています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ一五・一六)。

聖書を読めば、確かに神のことが分かります。しかし却って分かるようになるのは、神が私たちを知っていてくださるということです。ペリカンが言うように私たちが聖書を所有しているのではなく、私たちの上に聖書があるということです。だから、新約聖書のある箇所はこう言います。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモテ三・一六)。

主イエスがあるとき、聖書に関して、とても大切なことを言われました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ五・三九~四〇)。大事なのは後半部分のところです。聖書を読み、主イエスのところに行く、来ることが大事なのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所で言えば、四節と一二節のところにあるように、信じることです。「それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。」(四節)。「そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。」(一二節)。主イエスも言われるように、聖書をもとに論じ合い、聖書を調べたとしても、信じて命を得ることが大切なのです。

神は私たちに聖書を与えてくださいました。何でもよいから信じればよいというわけではありません。盲目的にただ信じればよいというわけでもありません。神は私たち人間に考えること、理性を与えてくださいました。聖書を開き、この頭で考え、論じ合い、調べることができます。そして信仰に至ることができます。

今からの五百年ほど前の宗教改革者ジャン・カルヴァンという人が、『ジュネーブ教会信仰問答』というものを書きました。信仰の筋道を問いと答えで表したものになります。最初の問一がこのように始まります。「人生の主な目的は何ですか?」。答えは「神を知ることであります」。問いがその後も続きますが、なぜそれが人生の目的なのかと問います。答えは、神をあがめる目的で知ることだ、と言うのです。つまり、神を知れば、神が私たちにしてくださったことがより分かる。ますます神が恵み深い方だということが分かる。そしてますます神に感謝する、讃美する。そのような喜びのある人生が始まっていくのです。

パウロも多くの説教者たちも、イエス・キリストが十字架にお架かりになり、私たちの罪を赦し、救ってくださった、主イエス・キリストが私たちの救い主である、そのような説教をしました。三節にある通りです。「「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。」(三節)。

この説教に付随して、いろいろな問いが出てくると思います。罪とは一体何なのか。救いとは何から救われることなのか、そもそも私たちは救いを必要としているのか。主イエスの十字架の意味は何なのか、復活の意味は何なのか。どうして私たちとかかわりがあるのか。いろいろなことを考えなければならなくなります。しかしその答えのすべてが聖書にあります。聖書を開き、論じ合い、丁寧に調べる必要が生じてくるでしょう。そしてその中で、私たちが神に知られていること、愛されていること、赦されていることが分かる。私たちが神によって救われていることが分かる。それが聖書の力であり、私たちが信仰を持つに至る道なのです。