松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年2月16日(日)
説教題「思わぬ出会い、思わぬ救い」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第16章16〜40節

わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。
朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。

旧約聖書: イザヤ書 第55章6~7節

先週のことになりますが、結婚式を控えておられる男女とお会いしました。結婚式の司式を引き受けていますので、結婚式の打ち合わせを行いましたが、結婚のための学びを三人で行いました。

この学びでは一冊の本を用いています。『ふたりで読む教会の結婚式』(吉村和雄、キリスト品川教会出版局)という本です。これから結婚をする二人が読むのにふさわしい本でもありますが、すでに結婚をされている方も、遠い将来に結婚を考えている方も、読むととても面白い本であると思います。

この本の序文のところに、このようなことが書かれています。この書は幸せな結婚生活を求めている方のために書かれた本ではありません。幸せというのは、個人的な気持ちに基づくものであり、場合によっては自分が幸せでも相手が不幸せということにもなりかねません。ですから、この書はよい夫婦になることを考えています。

そのような序文の文章が表わしている通り、『ふたりで読む教会の結婚式』というタイトルが付けられているのだと思います。一人で読むのではない。一人で歩むのではない。二人で歩むのです。よい夫婦になるというのは、相手を無視するわけにはいかないのです。

この本の第一章のところに、こんなエピソードが紹介されています。ある男女が結婚をしたいと思い、教会に行く。牧師と面会して、結婚式のお願いをしに行くわけです。「自分たちは結婚をしたいので、式をお願いします」。てっきりすぐに「ああ、いいですよ」と言われるのかと思いきや、牧師からは「何のために結婚するのですか」という問いが返ってきました。予想もしていなかった問いに、あわてて「この人が好きだからです」と答えました。そうするとその牧師から「では嫌いになったらどうしますか」という問いが返ってきました。「嫌いになっても別れるようなことはしません」、そう答えましたが、「そんなことはないでしょう。好きで一緒になったのだから、嫌いになったら別れるのが自然ではないですか」、そんな言葉が返ってきました。

また別の男女が、同じ牧師のところに行って、結婚式のお願いをしに行ったとき、やはり同じように「何のために結婚するのですか」と聞かれ、「子孫繁栄のためです」と答えたのだそうです。そうするとその牧師から、「では子どもが生まれなかったらどうしますか」と言われてしまったのだそうです。

この牧師は、いささか意地の悪い牧師であるような気がしないでもありませんが、本当に伝えたかったことがあったのです。聖書の最初のところにある創世記に、こんな言葉があります。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記二・二四)。世界が造られ、人間が造られました。人間は男と女に造られました。違いをもって造られたのです。そして結婚の秩序も、天地創造の最初のときから定められていました。別々の男女二人が出会い、一体となる。つまり、一緒に生きるようになるのです。

結婚生活は、言うまでもなく、様々なことが起こります。期待や憧れを抱いて結婚生活を始めたとしても、実際には期待や憧れの通りにならないことがしばしばです。そのときに、思い起こすべきなのは、一緒に生きるということなのです。二人で生きる。それがよい夫婦なのです。人生は思いがけないことの連続ですが、それでも二人で人生を駆け抜けていくのです。

今日の説教の説教題を、「思わぬ出会い、思わぬ救い」と付けました。結婚生活に限らず、私たちの人生は思いがけないことの連続です。昨日、一昨日も、一週間前に引き続き、大雪が降りました。思わぬ雪です。ニュースを観ますと、観測史上最高記録を更新した所がたくさんあったようです。こんなふうになるなんて考えてもいなかった、多くの方はそうであると思います。

なぜ、私たちの人生には、こんなにも多くの思いがけないことが起こるのでしょうか。それは簡単なことです。私たちが人間だからです。神ではないからです。もしも私たちの人生が思い通りになれば、私たちは神です。今日、これをする。明日はあれをする。明後日は誰と会う。学校に入学したら、友達を十人作る。そんな計画を立てて、すべて自分の思い通りになれば、私たちの人生には驚きがありません。思わぬことなど起こらないのです。

しかし私たちは人間です。思いがけないことが起こります。悪い意味でも思いがけないことが起こるかもしれませんが、よい意味でも思いがけないことが起こることがあります。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のイザヤ書には、このようにありました。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イザヤ五五・六~七)。

イスラエルの人たちは、このとき本当にもう駄目だと思っていました。自分たちが罪を犯し、神はもう自分たちのことを見捨ててしまわれたと思った。救いがなくなってしまった。しかしそこに預言者イザヤの声が響きます。思いがけないことです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イザヤ五五・七)。

そしてその直後の箇所です。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ五五・八~一一)。

神の思いは私たちの思いを超えています。だから私たちにとって思いがけないことが起こります。悪いことではありません。私たちにとってよいことです。神が思いがけないことをしてくださいます。今日の使徒言行録の聖書箇所で言うならば、神が出会いを与えてくださり、信仰を与えてくださり、洗礼を与えてくださり、そして救いを与えてくださるのです。

本日、私たちに与えられた使徒言行録の箇所には、いろいろなことが書かれています。しかしその中心的に書かれていることは何かと言うと、パウロたちとある看守との出会いであり、看守とその家族の救いの出来事です。

先ほど、聖書朗読もいたしましたので、本日の聖書箇所の話を詳しく繰り返すことはいたしませんが、今日の話はフィリピという町での話になります。先週の聖書箇所から、パウロたちはフィリピに滞在しています。先週の箇所では、リディアという裕福な商人と出会い、その家族にも救いがもたらされたという話です。リディアの家を拠点にして、フィリピ伝道が始まりました。

その中で、ある霊に取りつかれている女と出会います。その女からパウロが霊を追い出します。その女には主人たちがいて、その女の特別な力を用いて金儲けをしていたのです。もう霊が追い出されてしまったので、金儲けの望みがなくなります。そのことで主人たちの怒りを買い、パウロたちが迫害されてしまいます。今まではユダヤ人たちからの迫害でしたが、このとき初めて異邦人から迫害されてしまうのです。

逮捕されたのは、パウロとシラスです。生粋のユダヤ人です。他にもテモテと、そしてこの使徒言行録を書いたルカがいたと思われますが、この二人は逮捕を免れました。生粋のユダヤ人ではなかったからです。フィリピではユダヤ人たちがもともと反感を買っていたのかもしれませんが、パウロとシラスが一方的に逮捕され、裁判にかけられ、鞭で打たれ、牢に閉じ込められるのです。

夜のことでした。パウロとシラスは牢の中で讃美歌を歌います。このような状況で、讃美歌もすべて取りあげられたときに、果たして自分の口からどの讃美歌が出てくるのかと思わされますが、パウロとシラスは讃美歌を歌った。「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(二五節)とあります。そこに自信が起こります。牢の戸が開き、鎖もすべて外れます。その状況を目の当たりにし、看守は囚人たちが逃げてしまったと思って自殺を図ろうとします。囚人たちを逃がしたら処刑されてしまうからです。

しかしパウロがそれを止めます。そこに本当のパウロと看守との出会いがあり、救いがあります。もちろん、それまでにパウロと看守はすでに顔を合わせていたわけですが、本当の意味で出会ったのがこのときです。パウロにしても、看守にしても、本当に思いがけない形で会うことになりました。

看守はパウロとシラスに、このように尋ねています。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」(三〇節)。救いという言葉を看守は使っています。囚人を逃したら死刑ですから、死刑にならないためにどうしたらよいでしょうか、そういう救いを求めているのではありません。パウロたち囚人たちはみんなこの場にいるのですから。そうではなくて、この看守は本当の救いを求めているのです。本物の救いがこの人たちのところにはあると悟った。それで、救われるためにはどうすればよいのかと聞いているのです。

皆さんもこのような問いを発したことがあるでしょうか。あるいは、これとは逆に誰かから、救われるためにはどうしたらよいでしょうか、と聞かれたことがあるでしょうか。

私も何度か、求道者の方からこのように聞かれたことがあります。「どうしたらよいでしょうか?」。今の自分の状況を脱却するために、信仰を持つために、どうしたらよいかという問いです。もちろん、日々の生活において起こる小さな悩みや思い煩いが生じるときがあります。そのようなときにも、どうしたらよいでしょうかと聞くわけですが、ここでの問いはもっと深い問いです。特に牧師にこの問いを尋ねるときは、かなり深い問いになるわけです。私もその都度、よく考えて答えますが、その人によって答え方はまちまちです。

使徒言行録では、どのように答えているのでしょうか。まず、本日、私たちに与えられた聖書箇所です。三〇~三一節をお読みいたします。「「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」」(三〇~三一節)。ここでは、主イエスを信じなさいということが言われています。

使徒言行録の他の聖書箇所も見てみましょう。同じような問いを投げかけている人たちがいます。使徒言行録第二章のところに、ペトロの説教が記されています。その説教が終わると、聞いていた人たちがペトロにこのように尋ね、そしてペトロがこのように答えています。「「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」」(二・三七~三八)。ここでは、悔い改めて、主イエスの名によって洗礼を受けよということが言われています。

さらにもう一箇所、見てみましょう。使徒言行録第二二章一〇節です。その前後をお読みしたいと思います。「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。」(二二・六~一一)。

少し長く読みましたが、ここではパウロ自身が自分の回心体験を語っています。主イエスと対話していますが、主イエスに対して、「主よ、どうしたらよいでしょうか」と尋ねています。そしてその結果、どうなったのか。その直後の一六節にこうあります。「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」(二二・一六)。つまり、パウロは尋ねた結果、洗礼を受けて罪を洗い清めたことになったのです。

これら三つの箇所では、すべて同じ問いがあるわけですが、答えもまたほとんど同じであると言ってもよいと思います。悔い改め、主イエスを信じ、洗礼を受けよということです。「どうしたらよいのか」、その問いに対する答えは、使徒言行録によれば、そして聖書によれば、その答えになります。

看守に対してパウロたちは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(三一節)と言っています。家族の救いを考える際に、よくこの聖書箇所が引用されることがあります。家族の中で一人が信じて洗礼を受けたら、家族が信じる、信じないにかかわらず、自動的に救われるのでしょうか。決してそうではありません。

続く三二~三三節にかけてこうあります。「そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。」(三二~三三節)。パウロたちは看守の家族にも会いました。そして家族たちは御言葉を聴き、信じて、洗礼を受けて、一緒に食事をしました。聖餐の祝いがなされたと考える聖書学者もあります。このようにして、この一家全体に救いが訪れました。家族全体が救われ、喜びに満たされたのです。

翌日の朝に起こった出来事も、三五節以下に記されています。詳しくはもう触れません。パウロたちは間もなくフィリピを出て行くことになります。フィリピ滞在もわずかの期間だったと思います。しかしフィリピで何が起こったか。先週の聖書箇所にありましたように、リディアの一家全員がキリスト者になりました。そして今日の聖書箇所では看守の家族全員がキリスト者になりました。家の教会が二つできたのです。

パウロたちはフィリピを離れます。そしてやがて、第三回目の伝道旅行を行います。その際、エフェソという町で、またも逮捕されてしまいます。その牢の中からフィリピの教会に宛てて書いた手紙が、フィリピの信徒への手紙として知られています。いわゆる獄中書簡です。パウロのフィリピ滞在は短かったのですが、しかしパウロとフィリピの教会の人たちとは、よい関係を結んでいたようです。

そのフィリピの信徒への手紙の中で、自分が牢の中に監禁されていることを繰り返し書いているのですが、第二章一二~一三節にこうあります。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ二・一二~一三)。

パウロは牢の中にいるので、今は一緒にいることはできないわけですが、それぞれの救いを達成するようにと言います。「あなたがたの内に働いて」とありますが、「内に働く」という言葉は、エネルギーという意味の言葉です。私たちのエネルギーが神であると言い、獄中からフィリピの教会の人たちを励ますのです。

私たちの人生、思いがけないことが起こります。でも神が私たちの内に働き、御心のままに何事も行わせてくださいます。神は思いがけない、よきことを行ってくださるのです。思いがけない出会いを与え、信仰を与え、洗礼を与え、救いを与えてくださる。私たちの神は、そのような神であるのです。