松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2014年2月2日(日)
説教題「別れと出会い」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第15章36〜16節5節

数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。
パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。
彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。

旧約聖書: 創世記 第15章36〜16章5節

今月の二月一六日に、私たちの教会が会場となり、MCCの一致礼拝が行われます。MCCというのは、松本キリスト教協議会の略で、松本近辺にある一〇教会がこのMCCに参加しています。私たちの日本基督教団のいくつかの教会に加え、ルーテル教会、聖公会の教会、バプテスト教会、そしてカトリック教会も名を連ねています。歴史は長く、四〇年ほど続いている交わりです。

このMCCにも一応、規約があります。その規約に目的がこのように記されています。「協議会は「生ける神の子、キリストの体なる教会の一致」を掲げ、松本とその周辺にあるキリスト教の諸教会を形成して、福音の宣教と立証を推進することを目的とする」。この規約のもと、今までいろいろな経緯はあったようですが、教会の教派を超えて、いろいろなことを一緒にやってきました。一致礼拝もその一つです。

牧師の研修会などに出掛けて行きますと、遠くの地で働いておられる牧師と出会い、いろいろと話をしますが、その中でしばしば話題になるのが、あなたが仕えている地域に超教派の集いがあるかということです。超教派というのは、教派を超えるということですが、日本基督教団だけでない、他のグループの教会と交わりがあるか、何か一緒にやっているかということが話題になるのです。そういう話題になると、私はMCCの話をするわけです。MCCという交わりがあり、一緒に一致礼拝をしている、そんな話をすると、ああ、いいことですね、という答えが返ってくる。一致礼拝をすることができることは、とても幸いなことであります。

教会はご存知の通り、たくさんの教派に分かれています。一体いくつくらいあるのか。数えることは容易なことではありません。なぜそんなにたくさんの教派があるのでしょうか。なぜそんなに別れなければならないのでしょうか。その歴史を今ここでお話しするとすれば、時間がいくらあっても足りません。そして残念ながら、負の歴史もあるのです。分裂をしてしまった。つまり一緒に礼拝をすることができないと思った。それぞれが別々の歩みをするようになったのです。

その時は別れてしまった痛みが大きかったかもしれません。しかしその結果、世界中に様々な教派の教会ができた。つまりいろいろな特色のある教会ができたのです。この松本にも、いろいろなカラーの教会があります。分裂してしまったことは、確かに負の歴史かもしれませんが、必ずしも悪いことばかりではありませんでした。たくさんの特色ある教会が生まれたということは、同じ救いに至るたくさんの入口が現れたということです。神がそのようにたくさんの入口を用意してくださったのです。礼拝のスタイルなど、枝葉の部分は確かに違うかもしれません。しかし木の幹の部分は同じです。皆が同じ「キリストの体なる教会」なのです。もっとも深いところでは、一致することができる。だから一致礼拝をすることができるのです。

本日、私たちに与えられた使徒言行録の聖書の箇所には、パウロとバルナバという人物が出てきます。これまで二人は一緒に伝道旅行をしていました。ところが今日の聖書箇所で、この二人は分裂をしてしまった。言葉は悪いですが、けんか別れをしてしまったのです。三九~四〇節にこうあります。「そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。」(三九~四〇節)。

このようになってしまった原因は何でしょうか。それもはっきりと書かれています。マルコと呼ばれるヨハネを連れて行くかどうか、そのことをめぐって対立してしまったのです。このことの発端となった出来事は、使徒言行録の第一三章一三節です。「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。」(一三・一三)。この出来事は、第一回の伝道旅行中のことになります。わざわざ「帰ってしまった」と訳されているくらい、一緒に旅をしている者にとっては思わしくない帰宅だったのでしょう。

そのマルコと呼ばれるヨハネをどうするか。対立が生じます。バルナバとマルコはいとこ関係であったようです。コロサイの信徒への手紙第四章一〇節にそのように書かれています。いとことして、もう一度チャンスを与えてやりたいと思ったのでしょう。パウロはそのような者は連れて行くべきでないと主張します。伝道旅行に支障をきたすと考えたのかもしれませんし、マルコと呼ばれるヨハネ本人のためにも連れて行かない方がよいと判断したのかもしれません。

聖書学者の中には、マルコと呼ばれるヨハネをめぐる対立だけでなく、もっと深い対立があったのではないかと考える人もいます。しかしそのことをめぐって、真相はよく分かりません。使徒言行録が伝えているところによれば、マルコと呼ばれるヨハネをめぐる対立です。いずれにしても意見の衝突が起こり、別行動をすることになりました。

その結果、アンティオキア教会から二つの伝道グループが出発することになりました。それまでは一つのグループだけが考えられていたと思います。しかし一つではなく二つになった。一つのグループは、バルナバとマルコと呼ばれるヨハネのグループです。もう一つがパウロとシラスのグループです。バルナバたちが少し先に、パウロたちがその後に出発することになりました。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所から、第二回目の宣教旅行が始まります。パウロは何度か伝道旅行をしたわけですが、これが二回目ということになります。使徒言行録は、パウロとシラスがその後、どのように歩んでいったかということを記録しています。残念ながら、バルナバとマルコに関してはほんの少しのことしか分かりません。

一体どういうルートをたどって旅をしたのでしょうか。後ろに地図が印刷されている聖書をお持ちの方は、地図の八番をご覧ください。この地図の中に、第二回目と第三回目の伝道旅行の足跡が記されています。太い線が第二回目の伝道旅行になります。アンティオキアを出発し、陸路でトルコを通り、ギリシアまで足を延ばし、そして地中海を船で進み、エルサレムへ戻っています。パウロたちはかなり長い距離を旅することになりました。

旅の目的は一体何だったのでしょうか。それは今日の聖書箇所にはっきり書かれています。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」(三六節)。これまでに伝道をしてきた町に教会が建てられていました。その教会は今、どうしているのだろうか。もう一度、旅をして、教会の人たちを励まそうではないか。それが旅のはっきりとした目的でした。

今まで行った町をたどるわけですから、第一回目と同じルートで行けばよかったのかもしれません。パウロも当初はそのように考えていたかもしれません。しかしパウロはそのようなルートを取ることはしませんでした。なぜか。その理由は簡単で、バルナバとけんか別れをしてしまった。そのバルナバたちがキプロス島に向けて出発をしてしまった。だからパウロたちは別の町から始めることになったのです。けんか別れをしてしまいましたが、キプロス島のことはバルナバに任せた。パウロはそう考えていたと思います。

もしも、パウロとバルナバがけんか別れをしていなかったら、二人は一緒に同じグループで、まずはキプロス島に向かっていたと思います。そして第一回目の伝道旅行とほぼ同じ道をたどっていたかもしれません。おそらくトルコ止まり。ギリシアなど行くことはなかったかもしれません。そう考えますと、けんか別れがよかったとまでは言いませんが、別々に伝道をするようになって、よかったこともある。人間には分からない導きがあったことは確かなのです。

実際にパウロとバルナバは、その後も信頼関係を維持したようです。このときは、マルコと呼ばれるヨハネをめぐって意見が合わなかったわけですが、バルナバとの信頼関係を維持していた記述を、聖書の中に見出すことができます。パウロも後に、マルコと呼ばれるヨハネのことを認めている聖書の記述も見出すことができます。つまり、バルナバがよくマルコと呼ばれるヨハネのことを、キプロス島への伝道旅行の間に導いたのだと思います。

このようにして、第二回目の宣教旅行が開始されました。けんか別れで始まった旅でした。しかし旅の最初で最大の収穫がありました。若き伝道者テモテとの出会いです。今日の説教の説教題を「別れと出会い」と付けました。一般によく言われるような「出会いと別れ」という順番ではありません。バルナバと別れたけれども、テモテと出会ったということです。

テモテは一体どんな人だったのでしょうか。人物像を少し探ってみましょう。「彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。」(二節)。教会の人たちの間での評判がよかったようです。そして「父親がギリシア人であることを、皆が知っていた」(三節)と書かれています。元のギリシア語の動詞の時制を考えると、テモテの父親はすでにこのとき亡くなっていたと多くの人は考えています。

今日の聖書箇所から分かってくるのは、そのようなことだけですが、別の聖書の箇所からも分かってくる情報があります。パウロから若き伝道者に宛てて書かれた手紙であるテモテへの手紙、第一の手紙と第二の手紙が新約聖書に収められていますが、第二の手紙の冒頭部分にこうあります。「わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。」(Ⅱテモテ一・三~五)。祖母と母の名前まで記されていますが、その信仰を受け継いだ人物がテモテであることが分かります。

このような信仰者の家庭に生まれ育ったわけですが、父親がギリシア人で母親がユダヤ人でありました。このような場合、事情は少し複雑になります。テモテはこのときまでは割礼を受けておらず、このときに受けたと記されています。割礼はユダヤ人であることの証しです。ユダヤ人同士の結婚の場合、当然、子どもの時に割礼が授けられることになります。しかしテモテは違いました。子どもの時には受けず、このときになって割礼を受けました。父親がギリシア人であったことが当然、影響していると思われます。

けれども問題はなぜこのときに割礼をわざわざ受けたのかということです。使徒言行録第一五章に記されているエルサレムの教会会議での決定事項は、救われるためには割礼は必要ないということでありました。それなのになぜテモテは救いのためには必要のない割礼を受けているのでしょうか。

その理由がよく分かる聖書箇所をお読みしたいと思います。パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の中にこうあります。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(Ⅰコリント九・一九~二三)。

この中で、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです」とあります。テモテは伝道者です。パウロと一緒に伝道をします。新しい町に行くと、まず、ユダヤ人の祈りの場や礼拝をする会堂に行き、そこでユダヤ人に対する伝道を行いました。そしてその後、異邦人のところへ行く。基本的にはこういう伝道のスタイルです。こういう伝道をするために、テモテが割礼を受ける必要がどうしてもあったのです。今日の箇所に、「ユダヤ人の手前」(三節)と書かれているのは、そういう理由からです。

そのような人物、若き伝道者テモテが与えられました。パウロと一緒にユダヤ人に伝道をするのも、そして父親がギリシア人でありますから、ギリシア人をはじめとする異邦人に伝道をするのにも、まさにうってつけの人物と言えるでしょう。神がそのような適任者を、旅の最初のところで与えてくださったのです。

私たち松本東教会は、使徒言行録から御言葉を聴き続けています。いつも思うことであり、今日は特にそう思うことですが、使徒言行録ではやはり人なのです。人が用いられる。新共同訳聖書では「使徒言行録」、口語訳聖書では「使徒言行録」、新改訳聖書では「使徒の働き」というタイトルになっています。使徒という人が、語った言葉、行ったこと、その働きの記録というわけです。聖霊の導きがもちろんあったわけですが、その働きを担うのは人なのです。物によって伝道がなされるわけではありません。聖書を読んだだけで信じる者が起こされるわけでもありません。何かの理念によって自動的に伝道がなされるわけでもありません。徹頭徹尾、人なのです。その人をめぐって、別れがあり、出会いがあります。

二千年前の教会がそうだったように、やはり教会は人なのです。教会にこういう人材が与えられている。それではその人材でどう伝道していけばよいのか。それを考えればよい。その範囲で行動すればよいのです。私たちも自分にできること、教会にできることは限られています。しかし私たちも自分ができることをすればよいのです。神が何かをなそうとお考えであるならば、神は必ず人を与えてくださいます。逆にできないことは人に任せればよいのです。

そのようにして教会は歩んできました。今日の聖書箇所は、第一五章の終わりの箇所と第一六章の初めの箇所の二つに分かれています。別れと出会いの話です。しかしそれぞれの最後のところにこうあります。「そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。」(一五・四一)。「こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。」(一六・五)。神がこのように人を教会に与えてくださり、その結果、どうなったかと言うと、教会はこのように歩むことができたのです。教会が力づけられ、信仰が強められ、ますます大きな群れへとなった。そのような祝福が与えられたのです。

私たちも、それぞれができることをすればよい。それぞれができることから始めればよいのです。お互いに支え合い、励まし合い、祈り合いながら、神が必要な人を与えてくださることを信じて歩めばよい。それが、神の恵みにゆだねるということなのです。