松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2014年1月26日(日)
説教題「励ましに満ちた決定」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第15章22〜35節

そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」

旧約聖書: 申命記 第7章6〜8節

私たちの松本東教会では、使徒言行録から連続して御言葉を聴いています。昨年の五月に始まりました。それから九カ月間、時には違う聖書箇所から御言葉を聴きましたが、基本的には使徒言行録です。先週の聖書箇所から第一五章に入りました。使徒言行録は全部で第二八章まであります。第一五章のところは、分量としても内容としても、ちょうど折り返し地点になります。ユダヤ人以外の異邦人に対して、教会がどのように伝道していくかが決められ、いよいよ本格的に伝道がなされていきます。その伝道を主に担ったのが、使徒のパウロです。パウロはより遠くへ、たくさんの町に出掛け、教会を建てていきます。使徒言行録の後半に書かれているのは、そのような異邦人伝道に関する話になります。

使徒言行録の前半であろうと後半であろうと、一貫しているテーマはやはり伝道になります。初代教会の人たちがどのように伝道をしたのかということです。一体どのように伝道したのでしょうか。当時の時代ならではの方法やアイデアがあったのでしょうか。使徒言行録には、そのようなことは記されていません。むしろ、一貫しているのは、伝道が人から人へとなされていったということです。

神は私たちに聖書を与えてくださいました。神を知る手段として、確かに聖書を用いることができます。しかし聖書だけを読んでいても、果たして信仰が生まれるでしょうか。誰とも接触をせずに、聖書だけを通して信仰を持とうとしても、なかなか難しいでしょう。いや、不可能であると言ってもよいかもしれません。実際に二~三世紀かけて、新約聖書が成立していきました。使徒言行録の時代は、新約聖書などなかったのです。それでも神を信じる者が起こされました。人が人へと伝道したからです。

使徒パウロがやがてコリントという町へ行き、そこに教会を建てます。このコリント教会へ宛てた手紙が、新約聖書の中に二つ収められています。第一の手紙として知られているコリントの信徒への手紙一の冒頭部分で、パウロはこのように書いています。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(Ⅰコリント一・二一)。宣教という言葉が出て来ています。つまり伝道ということです。神が救いを与えるために、どのような手段を用いたかというと、パウロは「宣教という愚かな手段」を用いたと言います。何が愚かなのでしょうか。神は信じる者を起こすにあたり、神から人に直接、働きかけてもよかったのかもしれません。わざわざ人から人へ、人を媒介にしない方が手っ取り早かったかもしれません。けれども、神はそうなさいませんでした。神は人をお用いになるのです。

私も教会の牧師として、求道者の方々に接する機会が多くあります。求道者の方に、信仰の筋道だけを伝えるのは簡単なことです。神が世界を造られ、人間を造られ、けれども人間が堕落をして罪を犯してしまった。人間だれもが神に後ろめたいことがあり生きている。自分で自分を救うことができない。そこで、神は独り子であるイエス・キリストを救い主としてお与えになった。主イエスは十字架にかかり、復活をされ、私たちの罪を赦して救ってくださった。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われる。救いの筋道を告げるとすれば、そうなります。

けれども、機械的にこのようにお話をしても、信仰はなかなか起こりません。そこで必要になるのが、「宣教という愚かな手段」なのです。私たちには知恵も力もなく、本当に愚かな手段なのですけれども、しかしねばり強く、忍耐して伝えるわけです。「私はこう信じています。あなたもそう信じてごらんなさい」、と。やはり信仰が伝わっていくのは、人から人なのです。それは使徒言行録で一貫していることなのです。

本日、私たちに与えられた使徒言行録の聖書箇所も、人が大事な働きをしていることが分かります。先週の聖書箇所である第一五章の前半部分には、エルサレムでの教会会議の様子が記されています。先週のお話を詳しく繰り返すことはできませんが、このとき異邦人にどのように伝道をするかという問題が生じました。異邦人にユダヤ的な慣習を強要すべきかどうかということが問われたのです。結論として、会議の議長とも言えるヤコブという人が、このように言っています。「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。」(一九~二〇節)。教会が決定した決定事項としては、ヤコブが言っている通りです。このように決めました。

しかし、この決定事項だけで伝道が推進することはありませんでした。決めてそれで終わり。そんなわけにはいかなかった。会議の出席者たちは、それで終わりにはしていません。決めること自体も大事ですが、もっと大事になるのは、むしろその後です。何事でもそうです。私たちも何らかの選択をする場面があります。何を選ぶべきか、どちらを選ぶべきか、私たちは迷います。そして決断し、決定します。それで満足してしまい、その後、何もしなかったとしたらどうでしょうか。洗礼を受けてキリスト者になる、これはスタートです。ゴールではありません。洗礼を受ける決断ももちろん大事ですが、その後、キリスト者としてどう歩むか。決断後のことが大事になってきます。

本日、私たちに与えられた聖書箇所もまさにそうで、教会は決定をした、ああ、よかった、めでたし、では終わりません。本日、私たちに与えられた箇所に書かれていることは、決めたことをどう人々に伝えていくか、そのことが書かれているのです。

エルサレム教会会議に出席していた人たちは、決定をした直後、一体何をしたのでしょうか。今日の聖書箇所の最初のところにこうあります。「そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。」(二二節)。教会の人たちがしたことは、派遣する人を決めたということです。

そして手紙を託しました。手紙の内容については、二三~二九節に書かれています。会議の決定事項も、もちろん手紙の内容に含まれていますが、特にこの手紙の中で言われていることは、二五~二七節のことです。「それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。」(二五~二七節)。決定事項を手紙でただ一方的に送りつけるのではなく、人を派遣する。そして口頭でも説明をする。そんなことがなされたわけです。

先週の説教ではあまり触れることができなかったことを、ここで取り上げておきたいと思います。会議の決定事項としては、一九~二〇節のヤコブの言葉に表れています。本日の聖書箇所でも、手紙の中でその決定事項が繰り返されています。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」(二八~二九)。

最後の「健康を祈ります」というのは、手紙の最後に書く定型文のようなものです。前半の二八節が会議での基本的な決定事項、「一切あなたがたに重荷を負わせない」ということです。つまり、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われる。ユダヤ的な割礼は必要ないということです。そして後半の二九節が但し書きです。ただし、このようなことを避け、慎みなさいということです。

この二九節の但し書きのことを「使徒教令」と言うことがあります。使徒たちが決めた教令、そういうことです。この使徒教令ですが、これはその時代によって、その場所によって変わるものです。二八節の一切、重荷を負わせない。イエス・キリストによる救いのみというのは、いつでも変わらない普遍の真理ですが、二九節の使徒教令は違います。二九節のことについて、聖書の解説をしてくれる注解書を開いてみると、細かすぎると思えるほどの説明が書かれています。しかし細かいところにまで注意を払う必要はないのかもしれません。教会によって、地域によって、時代によって、配慮すべきことが変わってくるのです。

要するに、変わらないことと変わることがあるのです。エルサレムの教会会議ではそういう決定がなされました。そしてなぜそのような決定をしたのか。説明が必要でした。そのために人が必要となった。人を選んでアンティオキア教会へ派遣する。決めて終わりではなかったのです。

実際に人が派遣されました。アンティオキア教会の人たちに対して、決定事項と共に説明がなされたのでしょう。アンティオキア教会の人たちはどのように受け止めたのでしょうか。三一節にこうあります。「彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。」(三一節)。さらに続く三二節にこうあります。「ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ」(三二節)。派遣された人たちが何をしたのかがここに書かれています。そしてアンティオキア教会の人たちがどのように受け止めたのかということも書かれています。励ましを受けたのです。

三一節と三二節にそれぞれ「励まし」という言葉が出てきます。一昨年、私たちの教会では加藤常昭先生をお招きし、「慰め」について学びました。たくさんのことを学びましたが、その中に「慰め」という言葉がどのような意味であるかについて、学びました。聖書で「慰める」と訳されている言葉は、元のギリシア語では「パラカレオー」と言います。新約聖書に百回以上も出てくる言葉です。この「パラカレオー」という言葉は、「パラ」と「カレオー」という二つの言葉から成ります。「パラ」というのは「傍ら」という意味。「カレオー」というのは「呼ぶ、招く」という意味です。つまり、「傍らに呼ぶ、傍らに招く」というのが、「慰める」という言葉の本来の意味になります。

本日の聖書箇所に出てくる「励ます」という言葉も、実はこの「パラカレオー」という言葉です。日本語では「励ます」「慰める」「奨める」という言葉で訳されます。文脈に応じて日本語では使い分けられるわけですが、本日の聖書箇所では「励ます」と訳されています。アンティオキア教会の人たちは励まされた。傍らに来てもらい、その言葉によって励まされた。慰められた。「パラカレオー」という言葉が表しているように、やはり人から人へと伝えられたのです。

私たちも同じであると思います。私たちが、ああ、励まされた、慰められたと思うのは、どういうときでしょうか。例えば、親身になって誰かに話を聞いてもらったり、わざわざ自分のところに訪ねて来てくれたり、あるいは物理的に距離があったとしても、手紙や電話をいただいて、まるで傍らにいてくれる気分がしたとき、そんなときではないかと思います。考えてみると、励まし、慰めというのも、何か物によって励まされる、慰められるというよりも、人と人との関係の中でなされることなのです。

本日、『おとずれ』二五五号が発行になりました。この号を発行してみて思ったことは、毎回そう思うのですが、とてもよいものができたということです。毎回、この号が今までで一番よかったのではないかと思うほどです。皆さまは現時点では、まだよくお読みになっておられないと思いますが、この後お読みになられると、きっとそのようにお感じになられると思います。なぜそのように感じるのでしょうか。いろいろな理由を挙げることができるでしょうが、その一つの最大の理由は、『おとずれ』を読むと励まされるからではないかと思います。

『おとずれ』の各文章は、執筆の依頼をしています。字数を含めて、あまり制限はしません。それぞれの方に自由に書いていただきます。そしてその結果、それぞれの個性がよく表れている文章になります。単なる機械的な報告文にはなりません。非人格的な文章にもなりません。その文章にその方の特徴がよく表れた文章になっています。教会で行われたあの出来事を、あの人はどう受け止めたのか。そのことがよく伝わってきます。その恵みを読んでいる私たちも味わうことができます。まるで原稿執筆者が自分の傍らにいて、その恵みを伝えてくれた。そんな思いになることができる、それが『おとずれ』を読んで励まされる最大の理由だと思います。

『おとずれ』にも表れているように、伝道は人から人へ、そのようにしてなされるものです。パウロの表現を借りて言うならば、「宣教という愚かな手段」となります。神が直接、宣教を行なえば「優れた手段」になるかもしれませんが、それは神の御心ではありません。神は私たちが宣教され、私たちが宣教することを望んでおられます。

パウロが「宣教という愚かな手段」と言った直後の箇所で、パウロは続けてこのように言っています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(Ⅰコリント一・二二~二四)。

宣教をするときに、何を宣べ伝えているのか。パウロは「十字架につけられたキリスト」「神の力、神の知恵であるキリスト」と言っています。神の独り子であるイエス・キリストが十字架にお架かりになり、救い主になってくださった。そのことは、つまずかせるもの、愚かなものであるとはっきり言います。確かに、私も皆さまも経験があると思いますが、そのことを一度聴いただけで、一度伝えただけで、すぐさま自動的に信じるなどということは起こりません。

しかし、神は人を立ててくださいます。人と人との交わりを深めてくださいます。その交わりの中で、私たちは伝えられ、伝えることができる。つまずかせるもの、愚かなものであるがゆえに、一筋縄ではいかないかもしれません。しかし私たちが伝えられ、伝えていることの中に、本当の励ましがあり、本当の慰めがあります。『おとずれ』もその一つです。私たちの会話の中に、イエス・キリストの恵みが満ちる。その中に、励ましがあり、慰めがあるのです。