松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2014年1月19日(日)
説教題「私はこう判断します」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第15章1〜21節

ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。『「その後、わたしは戻って来て、/倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、/元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、/わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、/こう言われる。』それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」

旧約聖書: 列王記上 第3章16〜28節

本日の説教の説教題を、「私はこう判断します」と付けました。これは本日の使徒言行録の聖書箇所の一九節に基づいて、このように付けました。私たちはいろいろなことを判断しなければなりません。たくさんの判断をしながら生きています。その中で、私たちは判断の仕方を学んでいきます。まず、子どもは自分で判断するよりも、親や先生の言うこと聞くことから始まります。しかしその中で、どのように親や先生が判断しているのか、その判断方法を学んでいきます。そして大人になる。今度は自分で判断するようになります。

大人になる過程の中で、あるいは大人になってから、それは人によって様々ですが、私たちはキリスト者になります。その際に、判断方法に何らかの変化が表れるのでしょうか。キリスト者として、キリスト者らしい、キリスト者ならではの判断方法が身に着いていくのでしょうか。

本日、使徒言行録の聖書箇所に合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、ソロモンの知恵に関する話になります。ソロモンはイスラエルの三番目の王さまです。ソロモンの父親ダビデ、そしてソロモン自身のときに、イスラエルは絶頂期を迎えます。国が豊かで栄えていた。その支えになったことの一つは、ソロモンの知恵によります。

本日の旧約聖書の箇所であります列王記上の第三章には、ソロモンの見事なまでの知恵、判断が記されています。先ほど聖書朗読もいたしましたし、この話の内容は繰り返しません。優れた知恵だったことが分かりますが、聖書がはっきり言っているのは、この知恵は神から与えられたものであることです。

本日の箇所の直前になりますが、列王記上第三章五節から一四節まで、少し長くなりますが、このように記されています。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。ソロモンは答えた。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」主はソロモンのこの願いをお喜びになった。神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」(列王記上三・五~一四)。

このようにしてソロモンに神から知恵が与えられ、今日の話にある通りにソロモンがその知恵によって判断しました。第三章の最後にこうあります。「王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。」(三・二八)。ソロモンのように、私たちも神の知恵が私たちのうちにあり、判断したいと願います。キリスト者らしい判断をしたいと願います。一体どうすればいいでしょうか。

本日、私たちに与えられた使徒言行録の聖書箇所には、エルサレムでの教会会議のことが記されています。この箇所は、使徒言行録の折り返し地点と言ってもよい箇所です。この会議を境に、使徒ペトロが姿を消していきます。そしてますますパウロが活躍をするようになる。福音が広がり、ユダヤ人以外への異邦人への伝道が盛んになっていくのです。

このエルサレムでの教会会議ですが、この会議はすべての会議のルーツとなった会議です。カトリック教会では時々、公会議というものが開かれます。これは全世界的な会議です。この箇所でのエルサレムの教会会議は、全世界的とまでは言えませんが、この当時、存在していた大きな教会であるエルサレム教会とアンティオキア教会の主だった人たちが集まった大きな会議となりました。

一体どのような論点があったのでしょうか。一節のところにこうあります。「ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。」(一節)。エルサレムからアンティオキアに来ていたユダヤ人キリスト者の中で、このように主張する人たちがいたというのが発端です。割礼とは、ユダヤ人男性が体につけるしるしのことで、ユダヤ人たる証しです。アンティオキア教会の人たちは、ユダヤ人ももちろんいましたが、異邦人たちの方が多かったのだと思います。つまり、割礼を受けていない人たちが多かったのです。

それなのに、アンティオキア教会の人たちに向かって、救われるために割礼がさらに必要だと主張したのです。五節のところに「ファリサイ派から信者になった人」とあります。ファリサイ派というのは、「…すべきである」「…してはならない」「…せねばならない」ということを事細かに定めるところがありました。そんな人たちだったのだと思います。

結果、激しい意見の対立と論争が生じました。「それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。」(二節)。そして一回や二回の論争では終わらなかったようです。会議も開かれた。そしてエルサレムにて、本会議が開かれることになった。「そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった」(六節)とある通りです。

どのように議論をするのか、教会も世間一般の会議と同じように論争をするのか、それが問われるところです。それぞれの主張をぶつけるのでしょうか。もちろんそれもあるかもしれません。しかし一つ大切なことがあります。

本日の聖書箇所に書かれている議論の仕方には、一つのはっきりとした傾向があります。それは、自分たちの身の周りですでに起こっていた出来事を報告したこと。さらに、その出来事から神の御心、神のご意志、神のご計画を判断していく。そういう傾向がはっきりと見受けられます。

例えば、パウロとバルナバたちが自分たちの体験を語っています。「さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。」(三~四節)。また、ペトロも自分の体験を語っています。「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。」(八~九節)。

このような形でそれぞれが体験した出来事を語り、最後に主イエスの弟であったヤコブという人物が総括の発言をします。このヤコブは、十二使徒ではありませんが、主イエスの弟ということもあり、エルサレム教会でも力を持っていたのだと思います。この会議の議長であると言ってもよいでしょう。彼はこのように最後に発言します。「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」(一九~二一節)。

ヤコブが言ったのは、まず、異邦人を悩ませるなということです。割礼は必要な条件ではないということになります。ただし、ユダヤ人と異邦人が共存するために、二〇節のことを付け加えています。ユダヤ人は、二〇節に書かれているようなことを、絶対にしません。しかし異邦人は違います。異邦人の町であるコリントの教会に宛ててパウロが手紙を書いていますが、その中で偶像に供えた肉は食べてもよいと書いています。ただしユダヤ人のように偶像に供えた肉を食べたくない人もいるわけで、もしも同席するような場合には配慮しなさいとヤコブは言っているわけです。つまり、異邦人は悩ませてはいけないけれども、お互いが共存するために配慮しなさいという判断をしているのです。

こういう結論へと至ったわけです。この結論への至り方から、私たちが学べることがあります。それは、私たちが体験すること、私たちの身の周りに起こっている出来事から、神の御心、神のお考えを知ることができるということです。そしてそれに従って判断できるということです。神の御心が先にあり、私たち人間が後から追いかけて、それを知っていくのです。

松本東教会では、水曜日の朝と木曜日の夜に祈りの会を行っています。祈りの会は、ただ祈ってばかりいるのではなく、讃美歌を歌い、聖書朗読がなされ、その聖書箇所の説きあかしがなされます。昔は詩編を読んでいましたが、一年半ほど前から旧約聖書のヨシュア記から始め、士師記、ルツ記、そしてサムエル記上へと至りました。イスラエルがどのような信仰の歴史をたどって来たのか、そのことを学んでいます。

最近の聖書箇所になりますが、サムエル記上の箇所で、イスラエルに初めて王が誕生する箇所を読んでいます。初代の王はサウルという人です。イスラエルの人たちが王を求め、神がその願いに応えてくださり、王を与えてくださいます。それがサウルです。サムエルというイスラエルの最後の士師が、サウルに対して油を注いで王にします。油注ぎは、特別な職に任じるときになされます。サウルも油注がれて王になるわけですが、それだけでは人々からなかなか王とは認められません。全イスラエルの主だった人たちが集められたところでくじ引きがなされ、サウルにくじがあたって多くの人たちから王と認められます。それでもサウルの指導力に疑問を感じ、最初に従わない者たちもいます。その後、サウルが活躍をして、ようやく認められることになります。

そんな感じで、神がサウルを王にすると決めているにもかかわらず、私たち人間の歩みは非常に遅いわけです。ずっと後から神の御心を追いかけていくわけです。私たち人間の判断が遅い。遅いどころか、判断を間違うことさえあるわけです。

本日、私たちに与えられた使徒言行録の聖書箇所もそうです。ただイエス・キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人も異邦人も救われる。それが神の御心です。すでに定まっていた御心です。けれども私たち人間は、神の御心に追従していく判断が遅い。ファリサイ派からキリスト者になった人たちは、救いの条件に割礼まで求める。つまり、判断を間違ってしまうわけです。

そこで、ペトロの発言に注目をしてみたいと思います。一〇節にこうあります。「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。」(一〇節)。軛を負うという表現があります。軛とは、牛や馬を制御するためにつけるものです。譬えられているわけですが、その軛とは「先祖もわたしたちも負いきれなかった軛」と言われています。軛とは割礼のことです。ユダヤ人としてきちんと神の前に生きるということです。その軛を負いきれなかった。つまり、それができなかったわけです。先祖も自分たちもです。それなのに、他人に負わせようとするのか、ペトロはそう言っているのです。

軛を負わせることによって、「神を試みようとするのですか」(一〇節)とも言っています。神を試みる、神を試すとはどういう意味でしょうか。旧約聖書に何度かこのような表現が出てきます。それを参考にすると、その意味が分かってきます。ある説教者が、このように明快に説明してくれています。神を試みるとは、「神さまの恵みや力がはっきり示されているのに、それとはさらに別のものをおねだりするというわがままが働く」、そういう意味だと説明しています。

とても面白い表現だと思います。一一節のところではっきり言われているように、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われます。「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」(一一節)。それなのに、別のものをさらにおねだりしてしまう。主イエスを信じる信仰だけでは不足するので、この場合は割礼までもおねだりしてしまったわけです。

私たちも似たようなところがあると思います。いつも神に何かプラスアルファをおねだりしてしまう。イエス・キリストを信じる信仰によって救われたはずの私たちであります。それなのに、プラスアルファを求めてしまう。今すぐにこうして欲しいとか、聖書に書かれているように奇跡を目の前で見せて欲しいとか、私の身近にいるあの人をどうにかして欲しいとか、いろいろなことを私たちは求めます。時に私たちは、いろいろな軛を自分にも他人にかけて、神を試みることをしてしまうのです。

ペトロのこのような発言によって、活発だった議論が静かになりました。「すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。」(一二節)。なぜ静かになったのでしょうか。ペトロの発言に説得力があったからでしょうか。確かにそうかもしれませんが、ある説教者はこのように考えています。一一節のところで、ペトロが「主イエスの恵みによって救われる」と発言していますが、このペトロの発言を聞いて、ああ、自分もそうだったということを皆が思い出した、だから静かになったのだとその説教者は考えています。

その通りかもしれません。軛を負わせようとしている者たちも、そうだ、自分もイエス・キリストの恵みのみによって救われた次第を思い出したのかもしれません。静かな沈黙が、神の恵みを思い起こすときになったでしょう。

このエルサレム教会会議の出席者たちが感じたように、私たちにも神の恵みはすでに十分なのです。パウロもまたそうでした。あるとき、パウロにも切なる願いがありました。自分に課せられた「とげ」を去らせてくださいという願いです。一生懸命、願いました。しかし返ってきた答えはこうでした。「わたしの恵みはあなたに十分である」(Ⅱコリント一二・九)。パウロの「とげ」は相変わらずそのまま続いたと思います。しかしパウロは立ち直りました。すでに与えられている神の大きな恵みを思い起こしたからです。

私たちも同じです。神がすでに大きな十分すぎるほどの恵みを与えてくださっている。その恵みを思い起こす。大きな恵みも小さな恵みも数えていく。神が私たちにしてくださったことがたくさんあるのです。それが、私たちの判断材料になります。神がしてくださったことから、神の御心を知り、「私はこう判断します」と言えるようになるのです。