松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20140105

2014年1月5日(日)
説教題「神は偶像ではなく、生きて働かれる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第14章8〜20節

リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。

旧約聖書: 詩編 第135編

主の年二〇一四年、最初の日曜日を迎えました。今年、最初の日曜日の礼拝になります。今日は一月五日ですが、今年の元日に元旦礼拝を行いました。いつもの日曜日の礼拝の人数よりも、若干少ない人数でしたが、ご家族の方など、いつも来られていない方もお見えになり、恵まれた礼拝をすることができました。

そこでもやはり今日と同じように礼拝が行われ、説教が語られました。その説教をここですべて繰り返すわけにはいきませんが、その一部だけをお話ししたいと思います。まず説教の冒頭では祈りの話をしました。一年の最初、私たちの国では多くの祈りがなされます。そこでなされる祈りとは、どのような祈りでしょうか。家族の安全を祈願する、家内安全が祈られます。この一年間、病や災いに遭うことがないように、無病息災が祈られます。商売をしている方は商売繁盛が祈られます。ここでなされる祈りというのは、どちらかと言えば、悪いことが起こらないように、そういう祈りであると思います。

もちろん、キリスト者もそのような祈りを神に献げるわけですが、そこで私が申し上げたことは、こういうことです。本当に問われているのは、悪いことが起こったとき、不条理なことが起こったときである。災いが起こらずに、いいことばかり起こっているときはともかく、問題は災いや悪いことが起こったときです。そのときに、どう対応するのか、どう生きるのか。そのことこそが問われていることである。そのように申し上げました。

私の説教者としての願いは、説教を聴いてくださる方が、本当の神と向き合って欲しいということです。本当の神と向き合って、悪いこと、不条理なことが起こったとしても、乗り切って欲しいということです。本当の神と出会って欲しいということです。今の時代は特に生きるのが難しい時代であるかもしれません。神を見失っている時代と言ってもよいかもしれません。しかし難しいのは、いつの時代でもそうでありました。迫害があり、不和があり、争いがあり、裁き合いがあり、人と人との心がなかなか通い合いません。そんな中、神と向き合ってどう生きるのか。本当の神を知って生きて欲しい。それが今日の私の説教者としての願いでもあります。

その本当の神とは、一体どのようなお方でしょうか。どのようなことを私たちにしてくださるのでしょうか。その神を信じたら、私たちにどういうことが起こるのでしょうか。すでに神を知っている方も、ぜひこの年の初めですから、初心に返っていただきたいと思います。また、まだ神を知らない方は、ぜひこの神を知っていただきたいと思います。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、リストラと呼ばれる町での話です。今で言うトルコにある町です。この町の人たちが抱いていた神概念は、典型的なギリシアの神概念でした。ゼウス、ヘルメスという神々が出てきます。ゼウスというのは、ギリシアの神々の中で第一の神です。そしてヘルメスというのは、神々の使い、使者であり、語る神です。そんなこともあり、パウロもヘルメスと呼ばれてしまいました。

この当時、こんなギリシア神話が知られていたようです。「あるとき、ゼウスとヘルメスが変装をして町に訪れた。ところが、ゼウスとヘルメスは町の金持ちからは冷たくあしらわれてしまった。しかし、フィレモンとバウキスという老夫婦からもてなしを受けた。このため、老夫婦の二人は、この町が大洪水に襲われたときに救われ、二人の住居は神殿に変えられ、二人はそこに仕える祭司と巫女になった。その後、二人は一緒に死にたいという願いが叶えられ、大枝が絡み合う二本の木に変えられ、祀られた」。

リストラの町の人たちも、この神話をよく知っていたのかもしれません。パウロとバルナバの出来事を目の当たりにして、この神話が頭をよぎったのかもしれません。ゼウスとヘルメスが、今、目の前にいるパウロとバルナバに化けている。だからこの二人をもてなさなければならない。礼拝をしなければならない。再び洪水で滅ぼされてしまってはかなわない、そんな思いがあったのかもしれません。だから、一三節のように、町の人々は行動しました。「町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。」(一三節)。

リストラの町の人たちの神概念と、日本人の抱いている神概念と、どこか似ているところがあるかもしれません。あらゆるものが神々になってしまう、そんなところがあります。神々のような存在が、人間や動物になって現れる。ギリシア神話にも、日本のお話にも、そのような話しがあります。どの世界でも、なんとなく神はこんな神ではないかと考え、神々の中の一人になることがある。偉大なことをしたら、その人を拝んだり、祀ったり、神殿や神社が建てられたり、そのことは世界共通であるかもしれません。

リストラの町での人々の誤解が、一一節の言葉に表れています。「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」(一一節)。ここではわざわざ、「リカオニアの方言で」(一一節)と書かれています。私はこの方言がどのような種類の言葉だったのかはよく分かりませんが、わざわざこのように書かれているということは、ギリシア語に堪能だったパウロもよく分からなかったということだったのだろうと思います。パウロの性格から考えると、もしこのように言われ、その意味を理解したならば、すぐに否定をしていただろうと思います。しかしこのときは否定をしなかったので、一二節以下のことが起こってしまった。つまり、神々として拝まれてしまいそうになるということが起こってしまったのです。

しかしこのときをきっかけにして、本当の神を伝えることにもなりました。それがパウロの説教の言葉です。一五節から一七節にかけて記されています。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰る ように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(一五~一七)。

ここでパウロが言っていることは、単純なことです。神が天地万物の造り主であり、すべてのものの造り主であるということです。その神が、単に世界を造られただけでなく、恵みを与え、雨を降らせ、実りを与え、食物を与え、そして心の喜びをお与えになる、そのことが語られています。神は昔は、皆が思い思いの神を信じることを、いくぶん大目に見てくださいました。しかし今や本当の神が証しをされている。だから偶像の神々ではなく、生けるまことの神を信じなさい。パウロが言っているのは、そういうことになります。

神は偶像ではない。生きて働いておられる。言われるまでもなく、確かにその通りであるとお考えの方もあると思います。このことに関しては、旧約聖書の詩編第一三五編が参考になると思います。この詩編の前半は、神は力ある神であることが言われています。例えば、六節から七節にかけてこうあります。「天において、地において、海とすべての深淵において、主は何事をも御旨のままに行われる。地の果てに雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される。」(詩編一三五・六~七節)。

まことの神に対して、偶像のことは、この詩編の後半で取り上げられています。「国々の偶像は金や銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻と口には息が通わない。偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。」(詩編一三五・一五~一八)。

とても面白い表現であると思います。「偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。」(一三五・一八)。偶像は、人間と同じような姿形はしていたとしても、他の人と心を通い合わせることができません。口や目や耳や鼻があっても機能しないからです。

この世の中、いや、この世の中だけではありません。いつの世であっても、この世界はうまくいっていません。その原因はどこにあるのか。いろいろな原因があると思いますが、一つの原因は、みんなが偶像になっているから。この聖書箇所に即して言うならば、その理由が挙げられると思います。自分の腹を偶像にしてみたり、財産を偶像にしてみたり、いろいろな偶像があります。その偶像により頼むと、それ以外には目を向けたり、耳を傾けたりすることがなくなっていきます。人に目を向けなくなる。人の言葉に耳を傾けなくなる。人を造り上げる言葉を語れなくなる。そのように偶像が満ちあふれ、世界がおかしくなるのです。

本当の神は、人を偶像化するのではありません。人を立ち上がらせることができます。説教の冒頭で申し上げたように、私たち人間には、生きている限り、悪いことや不条理なことが起こります。そのようなことが起こり、人間が倒れてしまったとしても、その者を立ち上がらせることができる。それがまことの神になります。

使徒言行録の箇所に戻りますが、本日、私たちに与えられた聖書箇所には、二人の人が立ち上がっている話としても読むことができます。言うまでもなく、神がこの二人を立たせてくださったのです。

その一人は、足の不自由だった人です。生まれてこのかた歩いたことがありませんでした。「いやされるのにふさわしい信仰がある」(九節)と書かれていますが、なんてことはない、この人は歩けなかったわけですから、何かの功績によって癒されたのではありません。そうではなく、ただ神にのみ寄り頼む人だったということだと思います。

そしてもう一人は、パウロです。今日の聖書箇所の最後のところで、パウロは他の町から来たユダヤ人たちに石を投げつけられています。死んでしまったのでしょうか。それははっきりとはよく分かりません。しかしいずれにしても、パウロは倒れました。そしてそこから立ち上がりました。

この二人は生ける神が立ち上がらせてくださったのです。パウロがこの足の不自由な人を立ち上がらせたのではありません。パウロも人間として倒れましたのです。しかし立ち上がりました。神によって、立ち上がらせていただいたのです。

パウロは、コリントの信徒への手紙二の中で、このように書いています。「労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。」(Ⅱコリント一一・二三~二五)。パウロ自身も、悪いこと、不条理なことをたくさん経験しました。ただいまお読みした箇所の続きには、それだけではなく、もっと悪いことがたくさん記されています。

しかしパウロはこのような経験をしながらも、神の恵みがいつもあったことを記しています。「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント一二・七~一〇)。

パウロがここで書いているように、神は悪いこと、不条理なことを、私たちにとってはもしかしたら残念なことかもしれませんが、取り去ってくださらないお方です。もしも取り去ってくださったとしたら、私たちはそれをいいことに、神から離れ去ってしまうかもしれません。そうではなく、悪いこと、不条理なことがたとえ起こったとしても、神が私たちと一緒に生きてくださいます。歩んでくださいます。神はそういうお方なのです。

私たちが神と共に生きることができるように、神がしてくださったことがあります。それはパウロが生涯をかけて語っていることです。今日の聖書箇所の一一節にあるリストラの町の人たちが言った言葉を多少変えていうならば、こういうことになります。「神が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」。神々ではありません。神です。それがイエス・キリストです。神の独り子であるイエス・キリストが救い主として来てくださった。それが、神が私たちに与えてくださった答えになります。

イエス・キリストは、私たちが経験する悪いこと、不条理なこと、それらすべてを十字架で引き受けて死んでくださいました。そして私たちをそこから救い出してくださいました。これが、神が私たちにしてくださったことです。このようにしてくださった、こういうお方である神を、私たちは信じているのです。

すでにこの神を知っておられる方は、一年の初めであります。初心に返り、もう一度、この神を思い起こし、この一年を過ごしていただきたいと思います。そしてまだこの神を信じておられない方も、ここにはおられます。主の年二〇一四年、この年をこの神を信じる年にしていただきたい。そうなっていただきたいと願っています。