松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年12月29日(日)
説教題「信じるか、信じないか」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第14章1〜7節

 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこでも福音を告げ知らせていた。

旧約聖書: 創世記 第15章1〜6節

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、使徒言行録第一四章の最初の箇所であります。クリスマスを間に挟みましたが、先々週は第一三章の終わりの箇所から御言葉を聴きました。使徒パウロの第一回目の伝道旅行の最中にあります。今日の話は、イコニオンという町での話になります。

今日の聖書箇所は、淡々と記されているところがあるかもしれませんけれども、信じるのか、それとも信じないのか、そのことで激しい対立が生じたことが記されています。これまでにパウロが赴いた町では、どちらかと言うと、信じる、信じない、その区別は、人種によって分かれていた傾向がありました。もちろん、ユダヤ人の中で信じる者もいれば信じない者もいたわけです。しかしユダヤ人以外の異邦人の方がかえって信じる者が多く、ユダヤ人が敵対してくるということもありました。

しかし今日の話は違います。もはや人種は関係なくなりつつあります。一節から二節にかけて、こうあります。「イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。」(一~二節)。

一節には、信じる側の者たちのことが書かれています。「大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。」(一節)。二節には、信じない側の者たちのことが書かれています。「ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し…」(二節)。こうなってくると、もはや人種の違いではありません。生まれや育ちや経験や肌の色など関係なくなります。信じるのか、信じないのか。ただその一点だけです。そのことによって、四節にありますように、町の人々は分裂してしまったのです。「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。」(四節)。

本日の聖書箇所には、激しい対立になっていったことが記されています。暴力的なことも記されています。これほどまでではないにしても、大なり小なり、必ずこういう対立が生じてしまうものです。私たちはこのことを嘆くかもしれませんが、このことは必ず起こるのです。信じる、信じないという対立は、いつ、どこでも、どの時代でも、どの町でも起こることなのです。

クリスマスの期間を過ごし、今年、主の年二〇一三年の最後の日曜日、礼拝のときを私たちは迎えています。クリスマスの期間は、教会の暦からすると、まだ続いていまして、一月六日までがクリスマスの期間であります。しかし、私たちの教会としては、クリスマスの礼拝や集会など、クリスマス関連のことはすべて無事に終えて、今年最後の礼拝を行っています。

今年のクリスマスを振り返ってみて、いろいろなことを思い起こすことができますけれども、特に今年は多くの方が教会に集まってくださいました。一四日のこどもクリスマスには、こどもと大人が合わせて百名以上の方が集まってくださいました。先週のクリスマスの祝会には八十名を超える方々が、二四日のクリスマスキャンドル礼拝にも八十名を超える方々が集まってくださいました。

なぜクリスマスのとき、こんなにたくさんの人が集まってくださったのでしょうか。理由は単純でありまして、それはいつも教会に来られていない方々が集まってくださったからです。少し失礼な言い方になるかもしれませんが、教会の周辺の方々が集まってくださった、そんなように表現してもいいかもしれません。

年に一度、クリスマスのときだけに来られる方があります。昨年に引き続き、今年のクリスマスにもよく来てくださいました、私がそんな挨拶を交わした方もあります。あるいは、以前は教会に時々、行くこともあったけれども、最近はすっかりご無沙汰していて、久しぶりにクリスマスに来てみました、という方もありました。また、普段なかなか来られることのないご家族の方を誘って、連れて来てくださった方もありました。そのような方が、クリスマスのときに多く来られることは、とても幸いなことであります。

それらの方々の中の多くは、信じているか、それとも信じていないかという区分で言うならば、まだ信じておられない方がほとんどと言ってよいでしょう。クリスマスが終わっても教会にやって来る私たちとは、少し違う考えを持っておられる。そういう方々が教会に来られる。そうすると何が起こるのか。信じる者と、信じない者が混在することになります。もちろんそのことはクリスマスだけでなく、どの礼拝でもそうなるわけですが、特にクリスマスのときはそれが顕著になります。

私たちの教会のクリスマスには、もちろん信じる者と信じない者との間で、激しい対立が生じるわけではありません。しかし本日、私たちに与えられた聖書箇所の話では、イコニオンという町で、残念ながら激しく対立しているわけです。信じる者と信じない者との間は、そんなに大きな違いがあるのでしょうか。私はむしろ、信じる、信じないというのは、紙一重のところがあると思っています。

私が伝道者として、まだ洗礼を受けておられない方に接して、お話をする機会があります。その方に合わせて、いろいろなお話をいたします。その時に、私が一番困難を極めるのが、無関心な方です。ぬかに釘とはまさにそのことで、いくら私が話をしても、手ごたえがない。まあそうですね、というような感じで、反論も何もしてこない。そういう方はなかなか手ごわいところがあります。

しかし却って反論をして来られる方のほうが、やりやすいところがあります。こちらが何か話をすると、いやそれはちょっとおかしいのではないか、いわば対決するように批判的なことを言われる。そう言ってくださる方が、見込はあると思います。この引っかかっているところさえ解決されれば、この方は信仰を持つのではないかという手ごたえを感じることすらあります。信じない者が、突如として信じる者に変わっていく手ごたえです。

こう考えますと、実は信じる、信じないというのは、紙一重のところがあります。無関心よりも敵対してくれた方が却ってよいこともある。突如としてそういう人が変わるのです。私たちもかつては信じない者だったかもしれません。しかし教会の人たちが忍耐してくれ、私たちを信じる者へと導いてくれた。私たちはそういう歩みを経て来たのです。

信じる者と信じない者が混在する中で、信じない者に信じてもらうようになるためにはどうすればよいでしょうか。あるいは、皆さまの中のまだ洗礼を受けておられない方で、どうすれば自分が信じる者になれるだろうかと思っておられる方があると思います。どうすればよいでしょうか。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所に、そのヒントがあると思います。

創世記第一五章の箇所を先ほどお読みいたしました。ここにアブラムという人が出てきます。この人はやがてアブラハムとなり、イスラエルの出発点になった人です。「信仰の父」と呼ばれるほどの信仰の持ち主でありました。しかしアブラムも、最初から固く揺らぐことなく信じていたわけではありません。アブラムはすでに年老いていました。こどもが与えられるという約束が神との間に交わされていましたけれども、一向にそれが実現しない。アブラムもその約束を信じられずに、諦めているところがありました。

しかしそんなアブラムに神の言葉が臨みます。五節のところです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。「あなたの子孫はこのようになる」。そして六節のところです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。たったそれだけです。アブラムに一体何が起こったのか。なぜ彼は信じない者からすぐに信じる者になったのか。一切説明はしてくれません。

しかしおそらくこういうことだったのだと思います。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」(五節)とアブラムは神から言われました。アブラムはその通りにしたのだと思います。その時に、アブラムは神の力を信じた。天をお造りになり、そこに星を配置させた神の力を信じた。神にそのことがおできになるのなら、私にこどもを与えることもできるに違いなさい。そう考えたのだと思います。アブラムは神を信じたわけですが、神の力を信じたのです。

私たちの信じ方も、アブラムと同じであります。神の力を信じるかどうか。神なら何でもお出来になることを信じるかどうか。そのことが大事になってきます。使徒言行録全体でも、本日、私たちに与えられた聖書箇所でも、問題になっているのはそのことです。イエス・キリストが復活した。正確には、神がイエス・キリストを復活させた、あるいはイエス・キリストは神によって復活させられた。神ならそのことをお出来になる、そのことを信じるかどうかです。

私たち教会の人は、イエス・キリストの復活を信じていますが、復活という自然現象を信じているのではありません。そうではなく、神の力を信じる。その力ならば、イエス・キリストを復活させることができることを信じているのです。

信じる者と信じない者が混在する中で、大事になってくるのが、本日、私たちに与えられた箇所の三節のところです。「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。」(三節)。

パウロとバルナバは、長くそこに留まったことが記されています。敵対する者、反対する者がいる中で、放り出して逃げるというのは最後の手段です。今日の話でも、石を投げられそうになって、つまり殺されそうになって、ようやく二人は逃げました。それまで、ずっと長い間、どのくらいの期間かは分かりませんが、その町に留まったのです。

そして三節にさらに記されていることは、「主を頼みとして勇敢に語った」(三節)ということです。「勇敢に語る」という言葉のもともとの意味は、あらゆることを言える自由さを表わす言葉です。そこから、話すときの大胆さと率直さを表わす言葉となりました。つまり、神の力を信じて大胆に語ったのです。パウロとバルナバはそうしました。私たちも何らかの言葉を語るとき、何らかの行動をするとき、神の力が働くことを信じて大胆になることができます。私たちを通して、神の働きが見える、感じることができる。そこに神の力が働いていることが分かる。それが大事なのです。

私たちが神の力を信じて大胆に語ったとき、その結果はどうなるかは分かりません。結果までを私たちがコントロールすることはできません。三節の後半にこうありました。「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。」(三節)。それでも町の人たちは、四節にありますように、分裂をしました。信じる者と信じない者にはっきり分かれた。結果はそうでありました。しかし結果よりもプロセスです。パウロとバルナバは信じて、大胆に語り続けたのです。

二千年前から、神の言葉が語られるところで、信じる者たちと信じない者たちに、はっきりと分かれました。イコニオンの町で起こった出来事がそうです。そして今日の私たちにとっても、それは同じことです。信じる者と信じない者が混在する中にある。しかしそのような状況だからこそ、教会が存在する目的がはっきりと見えてくるのです。

教会は信じる者たちの集いである、確かにその通りです。しかし教会は何も信じる者たちだけのためにあるのではありません。信じない者たちのためにも教会が存在している。それははっきりとしています。その町に建てられている教会は、その町のすべての人たちのために建てられている信仰の足場です。その足場があれば、いつかは信じる者になることができる。その可能性がある。いつでも教会の門は開かれている。その開かれている門から、クリスマスのとき、私たちの教会にも多くの方々が中に入ってくださいました。信じている者も、今は信じていない者もそうです。それこそが教会の存在する意味です。

私たちも教会に来るきっかけはいろいろあったでしょう。しかしどのようなことがきっかけになったとしても、そこに教会があったからこそ来ることができた。信じていなかった私のために、教会が存在してくれたのです。あるいは、両親や家族にキリスト者がいたから、自分も教会に来るようになったという方もあるでしょう。その方にとっても、やはりそこに教会があったから来ることができたのです。誰もが、最初は信じていなかった者から、信じる者へ至ったのです。

使徒言行録の中には、いろいろな町々に教会が建てられていく様子が記されています。しかしよく読んでみると、町のすべての人がキリスト者になったという記述は一切ありません。そんなことはあり得なかったのです。どこにおいても、信じる者と信じない者に分かれた。イコニオンの町でもそうでした。しかしこのときをきっかけにして、教会が建てられた。

その後もこの教会は存続しました。第一六章一~二節にこうあります。「パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。」(一六・一~二)。パウロの若弟子であるテモテに関する記述がここにありますが、テモテはイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であったようです。兄弟たちというのは、教会の兄弟姉妹たち、信仰者たちということです。やはりイコニオンに教会が存在し続けた。信じる者たちのためにも、そして信じない者たちのためにも、教会が存在した。その門は開かれています。神の力を、イエス・キリストの救いを信じるようにと、その門が開かれているのです。