松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年12月15日(日)
説教題「語り継がれる神の恵み」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第13章42〜52節

 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

旧約聖書: 申命記 第6章1〜15節

今日の礼拝では、この説教の後に「もろびとこぞりて」を歌います。クリスマスの定番の讃美歌と言ってもよいかもしれません。讃美歌のページをお開きになると、讃美歌の楽譜や歌詞以外にも、いろいろな情報が載せられています。

左上のところには、「フィリップ・ドッドリッジ」という名前が印刷されています。イギリスの人ですが、このドッドリッジが一七三五年に作詞をしました。右上のところに書いてありますが、「アンティオク」という曲がその後、作られました。この「アンティオク」という曲は、ローエル・メーソンという人が、ヘンデルのメサイアの曲から示唆を受けて、曲を作ったと言われています。この「アンティオク」にドッドリッジの歌詞があてられて、「もろびとこぞりて」になりました。

作詞をしたドッドリッジですが、この人は信仰深い両親のもとで育ちました。二七歳のときに、ノーサンプトンという街の教会の牧師になり、その地で死を迎えるまで二二年間牧師として働きました。牧師としてだけでなく、聖書、神学、哲学、教育など、様々な面で活躍をした人であるようです。『魂における宗教心の芽生えと成長』という宗教本を書き、七か国語に翻訳され、多くの人に読まれたようです。

ドッドリッジにはいろいろな功績がありますが、その中でも最大の功績は、四百にも及ぶ讃美歌を作ったことです。彼は日曜日には教会の牧師として説教をするわけですが、説教後に歌う讃美歌は自作の讃美歌でした。説教に合うように讃美歌を作り、多少の練習をするのかもしれませんが、その礼拝の場で会衆と共にその讃美歌を歌ったのだそうです。讃美歌の歌詞は、説教の内容をよく反映するものでありました。

ということは、「もろびとこぞりて」も説教の内容をよく反映する讃美歌であったということになります。ドッドリッジは一体どんな説教を語り、「もろびとこぞりて」を会衆と共に讃美したのでしょうか。

私は、もちろんドッドリッジのように讃美歌を自分で作詞・作曲して会衆と共に歌うということはしていませんが、やはり特に説教後の讃美歌は力を入れて選ぶようにしています。讃美歌は、奏楽者に予めお知らせする必要がありますので、一か月以上も前から選ぶことになります。今日の讃美歌も、一一月の中旬にはすでに選んであった讃美歌です。その日に与えられている聖書の箇所をよく読みます。そしてそこに記されている内容を把握し、その上で説教後の讃美歌を選びます。説教の内容をよく表している讃美歌を選ぶのです。

今日はクリスマス前ということもあり、クリスマスの讃美歌「もろびとこぞりて」を選んだということもあります。しかし理由はそれだけではありません。本日の聖書の内容をよく表している讃美歌でもあると思ったからです。

「もろびとこぞりて」の歌詞を、少しご覧いただければと思います。日本語の讃美歌では一番から五番まであり、讃美歌に書かれた通りの歌詞となっています。ここでは一番の歌詞を、元の讃美歌の直訳で味わってみたいと思います(大塚野百合『賛美歌・聖歌ものがたり』、一八三頁)。「聞け、喜びの声を! 救い主が来たまいます。長い間約束されていたお方が。すべての人々が王座を準備し、賛美の歌を用意しましょう」。

日本語の一番の歌詞と似ていると言ってよいでしょう。もろびとこぞりて、もろびとがこぞって、すべての人々がこぞって、ということです。ユダヤ人だけではありません。ギリシア人だけではありません。私たち日本人も含めて、すべての人がこぞってということです。そこには何の差別も区別もありません。なぜそう言えるようになったのでしょうか。

先週の聖書箇所になりますが、使徒言行録第一三章三八節から三九節にかけてこうあります。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」(三八~三九節)。

律法による義ではない。律法とは神がイスラエルの人たちに与えられていた法です。この法を守って生活すればよかったはずでした。私たちもまっとうな生き方をしたければ、これに従えばよいという基準があるはずです。その基準に従い、善い行いをすれば、「お前は正しい」と神から言っていただける。そういう義の方法がまずありました。ところがユダヤ人もそうですが、私たち人間、誰もが行いを伴わせることができませんでした。「義とされえなかった」(三八節)とある通り、私たち人間は、つい基準から逸脱してしまうところがあります。

しかし、ここで言われていることには、続きがあります。ただキリストを信じる信仰によって義、つまり正しい者とされたと言われています。信じることなら誰でもすることができます。行いを伴わせることができなかったとしても、信じることができればよい。神を信頼し、キリストの救いを信じればよい。だから信じる者、すべての人、「もろびと」と言えるようになったのです。

それゆえに、「もろびとこぞりて」の二番の歌詞が続いていくことになります。日本語訳でも構いませんが、元の讃美歌の直訳でこれも味わってみたいと思います。「主は捕われびとを自由にし、サタンの束縛から解放されます。はがねの門は主によって一瞬にして開かれ、鉄の足かせはもぎとられます」(大塚野百合、一八四頁)

私たちを捕らえているあらゆるものから、私たちを解き放ち、自由にし、束縛から解放してくださった。はがねや鉄のように固かったものも、主イエスによって一瞬にしてとり去られてしまった。この二番の歌詞の出来事がイエス・キリストによって起こった。先週の聖書箇所で使徒パウロがしている説教とは、そういう説教です。そのことをしてくださった神に信頼せよ、主イエスを信じよという説教です。

パウロのこの説教を聴いて、人々はどう反応したのか。本日、私たちに与えられた聖書の箇所には、そのことが書かれています。人々の反応。二つのグループに分かれたようです。

一つは四二節から四四節にかけてあるように、パウロの説教を受け入れた人たち、信じた人たちです。他方、四五節以下にあるように、説教を受け入れなかった人たち、つまり信じなかった者たちがいます。この人たちは教会に敵対する行動をするようになりました。本日のこの説教では、四五節以下には詳しく触れる時間は取れないと思います。むしろ、四二節から四四節にあるように、パウロの説教を聴いて受け入れ信じた者たちがどのように行動したのか、そのことに集中したいと思います。

このパウロの説教は、今で言うトルコ、昔は小アジアと言いましたが、そこのアンティオキアというところにある会堂でなされた説教です。すると聴いていた人たちの中に、説教を受け入れた人たちが言いました。「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。」(四二節)。もう一度、同じ話をしてくれと求めたのです。違う話をしてください、ではありません。同じ話をまた聴きたいと思ったのです。

そして四四節、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」とあります。一週間後、今度はもっと大勢の人たちが集まって来た。「ほとんど町中の人」とありますが、多少の誇張が入っているかもしれません。しかし先週よりももっとたくさんの人が同じ話を聴きに来たのです。パウロが二回目にどんな話をしたのかは記されていませんが、多少の語り口は違えども、やはり同じ話がなされたのだと思います。

現代の私たちにも、同じことを繰り返し継続してできるかどうかは難しいところであるかもしれません。例えば、何らかの集会やコンサートや講演会を開く。まずは一回開いてみる。一回の打ち上げ花火的な催しなら、それほど苦はないかもしれません。とりあえずはやればよい。やりっぱなしでも構わない。ところが、二回目、三回目を継続して行っていくとすればどうか。一回目に来てくださった方は、二回目、三回目もまた同じことを聴きたいと思っていただけるかどうか。それが問われることだと思います。

このことは、教会にとってもとても大事なことです。私たちの教会にも、新来者の方々が来られます。例えば、誰かの紹介によって、あるいは教会のホームページをご覧になって、教会を訪ねてくださる方があります。その方が一度、来られる。そこで問われるのは、二度目に来られるかどうかであります。牧師としての私の大きな祈りの課題となっていますが、「初めて来られた方が続けて来られますように」、これは私にとっての切実な祈りです。

日曜日の礼拝ならば、また次の日曜日に来て、説教を聴きたいと思ってくださるかどうか。信仰の初歩的なことを学んでいる木曜日のオリーブの会ならば、また次回も来て信仰の話を聴きたいと思ってくださるかどうか。家庭集会ならば、また次回も来て聖書の話を聴きたいと思ってくださるかどうか。私も教会もそのことが問われているのです。

今、申し上げたことを少し言い換えるとするならば、ここで味わった恵みをもう一度、味わいたいと思うかどうか。何の恵みも感じなかったのでは、次回また来ようと思わないでしょう。恵みを感じることが大前提ですが、またその恵みを味わいたいと思うか。心が満たされる思いをまたしたいかどうか。ここには何かがあるのではないか、その光を、その希望をまた感じたいかどうか。そのことが問われているのです。

今日の聖書箇所に出てくる人たちもまた、そのように感じた人たちでした。パウロの説教を聴く。ああ、ぜひ、もう一回、同じ話を聴きたいと願う。そして一週間後に、また同じ話を飽きることなく聴くのです。

さらに書かれているのは、一週間も待てない人たちもいたということです。パウロの最初の説教が終わると、早速パウロのところに行って、パウロと語り合っている人たちがいました。「集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。」(四三節)。

「神の恵みの下に生き続けるように」、パウロはそのように勧めています。今、私たちが開いている聖書は新共同訳と呼ばれる聖書ですが、「…の下に生き続けるように」と訳されています。元の言葉からすると、「…の下に」という言葉に「留まる」という言葉が付けられているので、「…の下に留まる」と訳した方がよいのかもしれません。しかし新共同訳の「生き続ける」というのも捨て難い言葉だと思います。留まるというのは、生き方にかかわってくるからです。

パウロの言葉によれば、恵みの下にいることが大事になります。何かをすることが大事なのではありません。あなたが今、恵みの下にいることが大事。そのように生き続けていることが大事。あなたはもう恵みの下にいるのだから、そこから離れないように、ここに留まりなさいと言われているのです。

本日、私たちに合わせて旧約聖書の申命記の箇所が与えられました。この箇所で言われていることも、パウロが言っていることに通じるところがあります。神の恵みの下にいることを絶えず思い起こしなさい、強くそう言われているのです。

この箇所には、子どもたちへの教育のことが言われています。イスラエルの人たちは極めて教育熱心でした。自分たちが持っている信仰を子どもたちに伝えることに命を懸けました。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(申命記六・六~七)。これがあったからこそ、イスラエルは消滅することなく存続することができたと言ってもよいと思います。

イスラエルは国土を失うことが何度もありました。特に、主イエスの時代のすぐ後から、第二次世界大戦が終わった後まで、千九百年にわたって国土を失い、世界に離散して住んでいました。それでも、イスラエルはイスラエル、ユダヤ人はユダヤ人でありました。なぜなら、自分たちが持っているアイデンティティー、つまり自分たちが何者であるかを子どもたちに絶えず伝えていたからです。

この申命記の箇所では「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記六・四~五)ということが言われています。神を愛しなさい。そもそもなぜこのように言われているのでしょうか。重要なのは、一〇~一二節です。「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。」(六・一〇~一二)。

神はすでにイスラエルに恵みを与えてくださいました。今、この地でこの生活をすることができるのは、神がエジプトでの奴隷生活から導き出してくださったからだ。イスラエルにはその歴史がありました。だからその恵みの下に留まりなさい。そのことを忘れないで生活しなさい。子どもたちにも絶えずそのことを教え続けなさい。申命記のこの箇所はそう言うのです。

このことは私たちも同じであります。神がしてくださったことを絶えず思い起こす。恵みの下に留まる。先週、家庭集会が行われました。そこである方からこんな質問を受けました。教会の人たちは日曜日に礼拝で何をしているのですか。何のために毎週日曜日に集まっているのですか。そんな質問です。私はこういうように答えました。それは、神の恵みを思い起こすために、私たちは毎週日曜日に集まっているのです。

私たちは忘れやすい性質があります。今の生活が続いていると、なぜこの生活が成り立っているのか。そのことをすぐに忘れてしまいます。安定した生活をしているならば尚更です。しかしよく考えるならば、私たちのこの生活が成り立つために、神が様々なことを私たちにしてくださっていることが分かります。今日の聖書箇所の表現で言うならば、神の恵みの下にいる。そのことをつい忘れてしまうのです。

そんな私たちのために、神は礼拝を備えてくださいました。聖書は一貫して、私たちの生活には、七日の刻みがあることを告げています。一週間は七日です。そして七日ごとに、日常の生活を止めて、神がしてくださったことを思い起こすように定められているのです。それが、イスラエルにとっては安息日であり、私たちキリスト者にとっては日曜日、主の日の礼拝です。

私たちは一週間の生活を終え、礼拝に集ってきます。一週間の中で犯した様々な罪を神の御前において赦していただきます。罪が赦され、一週間の生活をリセットし、再び新しい生活を始めます。一週間の生活で歪んでしまった私たちの軸をもとに戻します。キリスト者の歩みは、この繰り返し。生涯にわたって、この生活をしていくのです。

キリスト者は、本当に幸いなことですが、こういう歩みをすることができます。そこには何の差別も区別もありません。「もろびとこぞりて」、どんな人でも、誰でも、ただキリストを信じることによって、この歩みをすることができる。罪赦され、神に義としていただくことができるのです。すでに洗礼を受けて、キリスト者として歩まれている方は、どうぞこの歩みをこれからも続けてください。そしてまだ洗礼を受けておられない方は、一日も早く、この歩みを始めてください。誰もが等しく神の恵みの下にいることができる。そんな幸いは他にはないのであります。