松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年12月8日(日)
説教題「あなたを励ます神からの言葉」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第13章13〜41節

 パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、/『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』/と書いてあるとおりです。また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、/『わたしは、ダビデに約束した/聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』/と言っておられます。ですから、ほかの個所にも、/『あなたは、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしてはおかれない』/と言われています。ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、/お前たちにはとうてい信じられない事を。』」

旧約聖書: イザヤ書 第11章1〜10節

先週の月曜日、東海教区の臨時総会が行われ、私は甲府にまで出掛けて来ました。今回の総会は、臨時の総会です。毎年、この時期に総会が行われる場合は臨時になるわけですが、按手・准允というものを受ける者がいるときに、臨時で行われる総会です。按手を受けると日本基督教団では正教師、つまり牧師になります。准允を受けると補教師、つまり伝道師になります。教師が立てられる。そのような臨時の総会になります。

按手礼式は、按手を受けられる方の上に、すでに按手を受けた者たちが手を置くことによってなされます。私は今回、もちろん按手・准允を受ける側ではなく、按手を受ける者に手を置く側だったわけですが、改めて伝道者としての心構えが整えられるような思いをいたしました。

特に、甲府からの帰りの電車の中で思い起こした聖書の言葉がありました。伝道者であったパウロが書いた手紙、コリントの信徒への手紙一の中に記されている言葉です。

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(Ⅰコリント九・一九~二三)。

パウロの伝道者としての心、スピリットがよく表れている言葉だと思います。パウロはこの言葉に即して、御言葉を語り、教会を建てて、伝道をした人です。「…のようになる」ということが語られています。ユダヤ人ならユダヤ人のように、弱い人なら弱い人のように、ということです。もちろん「まったくその人と同じになる」とパウロは言っているわけではありません。生まれも育ちも経験もまるで違う人間同士、まったく同じにはなれません。けれども、相手を本当に理解して伝道するために、「その人のようになる」。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」とパウロは言うのです。

私も伝道者として、この言葉の通りに生きているか。そのことが問われる思いでした。神が一緒に生きるようにと定めてくださった隣人に対して、隣人のようになっていたか。教会員に対して、教会員のようになっていたか。求道者に対して、求道者のようになっていたか。そう考えたときに、神の御前に悔い改めなければならないことが多々ある。この人のために、あの人のために、語るべき言葉を語れていたか。なすべきことをしていたか。これは何も伝道者だけの問題ではないと思います。伝道者は特に問われているのかもしれませんが、キリスト者として生きている者は誰もが問われることであると思います。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所で、パウロは伝道者として説教を語っています。この説教に、コリントの信徒への手紙一においてパウロが書いた伝道者としてスピリットがよく表れていると思います。まさにその言葉の通りに、心を尽くして、思いを尽くして、この説教を語っています。

使徒言行録の中には、パウロのいくつかの説教が残されています。パウロのまとまった説教としては、今日の説教が使徒言行録では最初の説教となります。他の説教と比較してみると面白いと思いますが、パウロはまったく同じ説教を語っているわけではありません。特に語り口などはまるで違います。例えば、ギリシアのアテネで、ギリシア人たちに対して説教をしている箇所があります。もちろん説教の最終的な行き着くところは、どの説教も同じと言えますが、ギリシア人にはギリシア人のようになるというような語り口です。

このときのパウロの説教の聴き手は、ユダヤ人たちでした。先週の聖書箇所になりますが、今日の箇所の一つ前のところで、パウロたちはキプロス島と呼ばれる島に渡りました。そこでしばらくのときを過ごし、その後、小アジアというところへ移動します。今でいうトルコのことです。ギリシア世界へ本格的に渡ったのを機に、サウロというユダヤ的な名前を、パウロというギリシア的な名前に置き換えて記されています。もう今後はパウロです。

小アジアに渡り、アンティオキアというところで説教を語ることになりました。アンティオキアは同じ名前の町が複数存在しましたが、このアンティオキアはこの前まで出てきたアンティオキアとはまた違うアンティオキアです。詳しくは後で聖書の後ろの付録、地図の七番で確認してみてください。アンティオキアはギリシア世界の町でしたが、そこにはユダヤ人たちがいて、ユダヤ人たちの会堂がありました。

パウロはそこで説教を語ります。聴き手はユダヤ人です。一六節と二六節に、ユダヤ人たちに対する呼びかけがあります。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。」(一六節)。「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち」(二六節)。パウロは、コリントの信徒への手紙一の中で言っている通り、ここでは「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになる」ということがよく表されている説教を語っています。

ここではパウロの説教を一節ずつ追っていくという時間はありません。先ほど、聖書朗読をいたしましたし、その朗読を繰り返すようなことはいたしません。聖書朗読をお聴きになられた皆さまは、どのようにお感じになられたでしょうか。もしかしたら、少し内容が難しかったとお感じになられている方もあるかもしれません。それもそのはずで、パウロはユダヤ人たちに説教を語っている。ユダヤ的な背景、旧約聖書の背景で語っているからです。

パウロはどんなことを語っているのか。大昔、イスラエルの人たちがエジプトで奴隷生活をしていた。そこから神が導き出してくださったことが語られます。その後、イスラエルには士師と呼ばれる人たちが登場する時代がやってきます。その最後の士師がサムエルという人物です。サムエルの話が出てくる。

そしてその後、イスラエルは王の時代になります。たくさんの王さまが登場してくるわけですが、最初の王サウルと、二番目の王ダビデの名前が出てきます。主イエス・キリストの時代にぐっと近づいて、救い主の到来に備えて悔い改めよと人々に語りかけた洗礼者ヨハネのことも語られていますが、パウロがここで最も話したかったのは、二番目の王であるダビデのことです。

先週、私はある方からこんな質問を受けました。二千年前のユダヤ人たちは、一体どんな救い主を求めていたのでしょうか、という質問です。私はその問いに対して、ダビデ王のような救い主を求めていたのだと思いますと答えました。ユダヤ人たちにとって、理想の王さまはダビデでした。ダビデのとき、イスラエルの国は最も栄えます。

だから二千年前の今、このときにも、ダビデのような人が現れて、イスラエルを救って欲しいと思っていたのです。当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていましたから、ローマの支配からイスラエルを解放して、強い国イスラエルを再建して欲しい、あのダビデのように、と人々は思っていたのです。人々にとっての理想はダビデでした。

そのようにダビデのことを持ち出しているパウロですが、パウロが本当に言いたかったことがあります。三六節にこうあります。「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。」(三六節)。ダビデは確かに理想かもしれない。しかし考えて見てほしい。ダビデは死んだでしょう、その体は朽ち果てたでしょう、と言うのです。ダビデの墓に関しては、私はよく知りませんが、ダビデの墓があったとしても、もうダビデの体は完全に土に返って朽ち果ててしまったことでしょう。私たちにとってもダビデのような理想があるかもしれませんが、それも結局のところ、朽ち果ててしまうものです。よくこのことを考えて欲しいとパウロは言います。

そして説教のクライマックスに入っていきます。三七節の言葉は、朽ち果てたダビデと対比されている言葉です。「しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。」(三七節)。主イエスのことが言われているわけですが、主イエスは復活された。朽ち果てることがなかったと言うのです。聖書は非常に丁寧に、主イエスの復活を語っています。「神が復活させた」(三七節)とパウロは言っています。主イエスが自力で復活されたのではありません。別の聖書箇所では、「主イエスは復活させられた」という形で、必ず受け身で語られています。神が主イエスを復活させた。

そして三八節の前半に繋がっていきます。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ…」(三八節)。罪の赦しが語られます。主イエスが十字架にお架かりになり、復活されたことが、罪の赦しに繋がってくると言うのです。なぜ、十字架、復活、罪の赦しがワンセットになるのでしょうか。

一つの譬えを用いて、ご説明したいと思います。例えば、私、本城仰太が皆さんの罪を引き受けて、身代りになって死にます、そう言ったとしましょう。私が十字架か何かで殺されて、死んで、葬られる。どこかの墓の中に閉じ込められるわけです。そこで、しばらくの時間が経つ。一日、二日、三日経つ。墓には何の変化もない。ついに一年、二年、三年経つ。今でも墓に閉じ込められたまま。その体は朽ちるまま。そうだとしたらどうでしょうか。

本当に罪が赦されたと言えるでしょうか。あの人は、生前はあんな偉そうなことを言って、あなたたちの罪の身代わりになるとかなんとか言っておきながら、死んでそれっきりではないか。朽ち果てるままではないか。本当に私たちの罪が赦されたのかどうか、分かったものではない、ということになってしまいます。

しかし主イエスは違います。主イエスは私たちの罪を赦してくださる救い主となって下さいました。生前にそう宣言されたからでしょうか。それもなくはないと思いますが、何よりも、神が主イエスを復活させられたからです。神が認めてくださった。だから罪が赦されたということが分かる。そのことがはっきりする。だから主イエスが救い主なのです。イエス・キリストを信じる信仰が生まれるのです。

三八節後半から三九節にかけて、パウロはとても大事なことを言っています。「あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」(三八~三九節)。この箇所は、旧約聖書が実現できなかったことが、新約聖書によって実現されるという、極めて大切なことが書かれています。モーセの律法では駄目だった。律法には、神に従って生きる道が示されています。しかし私たち人間は神に従ってなんとか生きようと思っても、その道を踏み外してしまった、駄目だった。けれども、その駄目だったことを、イエス・キリストを信じる信仰によって、駄目ではなくなる道が備えられた。ここで言われているのはそういうことです。

義という言葉が出て来ています。「義」という字は、訓読みにすると、「ただしい」と読みます。神が「あなたは義だ」「あなたはただしい」と言ってくださる。そういうことです。この言葉を、私たちは聴きたいのです。人と人との交わりの中でも、「あなたは駄目だ」と言われるのは耐えられない私たちです。そんなことを言われれば、生きていく気力を失ってしまいます。そうではなく、私たちは「あなたはよい」「あなたはただしい」「あなたは存在していてよい」「あなたは大切だ」、そう言われたいのです。私たちはその言葉を聴きたいのです。そして私たちが最も聴きたいその言葉を、他ならぬ神が私たちに言ってくださるのです。

本日の箇所でパウロが説教を語っていますが、そもそもパウロはこのように言われて促されて、説教を語り始めました。「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」(一五節)。「励まし」という言葉が使われています。「励まし」というのは、「奨め」「慰め」とも訳すことができます。「励ましの言葉」「奨めの言葉」「慰めの言葉」ということになります。

私たちが生かされているこの世の中には、いろいろな言葉に満ちています。時には私たちは「励まし」「奨め」「慰め」の言葉を聴くことがあるかもしれません。一時にせよ、何らかの励ましや奨めや慰めを受けることがあるかもしれません。

しかし私たちが本当に聴きたいのは、「あなたは義しい」という言葉です。人からもそうですが、神からそのように言っていただきたい。その言葉によって、私たちは存在し、生きることができます。今日も説教によって、その言葉を聴くことができた私たちです。主イエスによって罪赦されたあなたがたは本当に幸いだ。他ならぬ神が、私たちにそう言ってくださるのです。