松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20131124

2013年11月24日(日)
説教題「祈ったこと以上のことが起こる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第12章1〜25節

 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、
集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。

旧約聖書: ダニエル書 第3章19〜30節

私たちは神にいろいろなことを祈ります。その祈りはどのように聞かれるのでしょうか。私たちが祈ったことがそのまま聞かれるときもあると思います。逆に、私たちが祈ったことがまったく聞かれないときもあります。あるいは、私たちが祈ったこと以上の答えがあるときもあります。神が祈りに応えてくださる仕方は実に様々です。

本日の説教の説教題を、「祈ったこと以上のことが起こる」と付けました。本日、私たちに与えられている聖書の箇所は、使徒言行録の第一二章になります。この箇所にはいろいろなことが記されているかもしれませんが、一つのことは、教会の人たちが祈った以上のことが起こった。そのことに尽きると思います。

使徒のペトロが捕えられて、牢に入れられてしまいました。除酵祭、過越祭という一連の祭りの期間中です。ペトロを捕らえたヘロデ王の考えとしては、祭りの期間中は聖なる日ですので、荒っぽいことは控えておこうとしたのだと思います。しかし祭りが終わった直後に、まだ大勢の人が残っているわけですから、大勢の人たちの目に触れるところで、ペトロを処刑しよう、ヘロデはそう考えていました。

六節のところに、「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜」(六節)とあります。引き出して処刑にする前の日の夜ということでありますから、もうギリギリのところでした。ここに記されている通りの不思議な出来事が起こり、ペトロが助かりました。教会の人たちはペトロのために祈りをしていました。祈りが聞かれたと言えるでしょうか。もちろん、祈りが聞かれたのです。さらに言えることは、教会の人たちが思っていた以上のことが起こったということです。

教会の人たちが熱心に祈っていたことは、五節に記されています。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」(五節)。当時は教会の建物はまだなかったのですが、一二節のところにありますように、マルコと呼ばれるヨハネという人の家に集まって祈っていました。おそらくマルコと呼ばれるヨハネは、エルサレム教会の中で有力な人だったのでしょう。

教会の人たちは集まって、一体何を祈っていたのでしょうか。もちろん、私たちがすぐに想像することができるように、「ペトロ先生がどうか助かりますように」と祈っていたと思います。明日はもうペトロの命が取られるかもしれない日です。みんなそのことが分かっていました。だからこそ祈りにも熱が込められた。

しかし私は思います。教会の人たちは、もちろん熱心な思いで祈っていたでしょうけれども、もっと複雑な思いで祈っていたのではないかと思います。なぜかと言うと、一から二節にかけてこうあるからです。「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」(一~二節)。このヤコブは、一七節に出てくるヤコブとは別のヤコブですが、主イエスの十二弟子の中の人です。十二弟子の中での初めての殉教者でした。

そんなことがさらりと書かれているわけですが、教会の人たちは自分たちの大事な仲間、ヤコブが殺されてしまうということを、ついこの前、経験したばかりでした。おそらくこのヤコブのときも、教会で熱心な祈りが献げられたのだと思います。「ヤコブ先生がどうか助かりますように」、と。しかしこの祈りは聞かれませんでした。

ですから、ペトロの場合、もっと祈りの内容は複雑だったと思います。ヤコブと同じようなことがペトロにも起こりつつあった。もちろん、牢から出られるように、命が助かりますようにと、熱心に祈りましたが、心のどこかで、もしかしたらもう駄目かもしれない。そんな思いが潜んでいたと思います。複雑な思いで、教会の人たちは祈っていたのです。

その証拠に、教会の人たちは熱心に祈っていたにもかかわらず、ペトロが牢から出て自分たちのところに来ると、びっくり仰天してしまうのです。無理もないことだったと思います。ペトロはなんとも不思議な導きによって、牢から出ることができたからです。

ペトロは牢から出ると、すぐにヨハネと呼ばれるマルコの家に行きました。そこがたびたびみんなで集まっているところだったからでしょう。このときもペトロは迷いなく、そこへ向かいました。ペトロは家の戸をたたきます。その家のロデという女中がいました。ロデはペトロの声だと分かり、嬉しさのあまり戸を開けることも忘れて大喜びでみんなのところへ報告します。

しかしその報告を聞いた者たちの反応はどうだったでしょうか。一五節のところにこうあります。「人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。」(一五節)。人々は、ロデのことを気が変になっていると思ったり、あるいはペトロではなく、ペトロを守る天使だろうと言いました。天使は神からの使いです。当時の考えとしては、人を守ってくれる天使が一人一人に与えられているという考えがあったようです。その考えに基づいて、ペトロを守る天使だろうと言ったのです。いずれにしても、ロデの言うことを真に受けずに、信じることをしなかったのです。

この人たちの反応を、どう思われるでしょうか。この人たちは、ペトロの解放を祈っていた人たちです。祈っていることが聞かれたのです。神が祈りに応えてくださったのです。しかしそんなことがあるはずがないと思ってしまった。

主イエスもあるときに山を動かすほどの信仰の話をされました。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」(マルコ一一・二三)。これも祈りが聞かれるかどうかにかかわる話だと思います。その通りになると少しも疑わずに信じて祈れば、本当にその通りになる。山も動き、海に飛び込むと主イエスは言われたのです。私たちにそんな祈りはできません。つまり、祈っていながらも、どこか疑うところがあるのです。

私たちも、ここでの人たちと同じように、まさか山など動くはずがないと思って祈っていると思います。まさかペトロがうまいこと解放されるなんて、そんなことあるはずがないと、どこか思っていたのだと思います。けれども、私たちはよくわきまえておかなければなりません。私たちが祈りを向けている神は、何でもお出来になる神です。全能の神です。私たちの考えをはるかに超えることをお出来になるお方です。私たちはついそのことを忘れてしまう。だから、私たちの理解を超えたことが起こったと感じるのです。別の角度から言うと、私たちが祈ったこと以上のことが起こって当然なのです。

本日、私たちに与えられた聖書のこの話は、不思議なことがいろいろと書かれていると思います。本当だろうかと思われた方もあるかもしれません。しかしそう思われたとしても、見る角度を変えれば、ここで起こったことは別に無理な話ではないということがすぐに分かると思います。

今日のこの話は、誰もが納得するような書かれ方はしていません。信仰が問われるところです。神は何でもお出来になる、その信仰があれば、この話を理解することができるでしょう。しかしその信仰がなければ、こんな話はあり得ないということになってしまいます。

少し具体的に考えてみましょう。六節のところにこうあります。「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。」(六節)。ペトロに対する見張りがかなり厳しかったことが分かります。続いて七節。「すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。」(七節)。天使が現れます。そして天使の指示通りに事が進んで行きます。

そして一〇節。「第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。」(一〇節)。三つの門を次々と突破していきます。これらの記述を見ただけでも、人間の力では絶対に不可能なことが起こったことが分かります。神の奇跡以外に考えられないということになります。

しかしそうではなく、もっと合理的に書かれていたらどうでしょうか。ペトロが牢に捕えられている。見張りの番兵の数も少ない。番兵がついうっかりウトウトしてしまい、ペトロがこっそり鍵を奪って、一つだけの扉を開けて、そっと外へと出て行った。そうであるならば、なるほど、そんなこともあり得そうだと誰もが思うでしょう。しかしそうであるならば、別に神など必要ないのです。そもそも神に祈る必要もないのです。人間の力ですべてができるのですから。

ペトロの脱出は、人間の力では不可能なことでありました。教会の人たちもよくそのことを分かっていたのです。だから神に祈った。神に祈る以外に、他に何の手立てもなかった。しかし祈りを向けていた神は、何でもお出来になる全能の神だったのです。そう考えますと、今日のこの話は不思議な話しでも何でもなくなります。神だから、この奇跡を起こすことがお出来になる。祈りに信じられないような仕方で応えてくださることもお出来になるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、ヘロデが出てきます。聖書の中に、何度かヘロデの名前が出てきますが、少し注意が必要です。クリスマスのときに出てくるヘロデは、ヘロデ大王と呼ばれる人です。このヘロデ大王の孫にあたる人が、本日の聖書箇所に出てくる人です。ヘロデ・アグリッパ一世という人です。ヘロデ大王のときに、かなり広い領土を治めていたようですが、ヘロデ大王の子どもの世代になると、子どもたちの間で土地が分割されて治められるようになりました。しかし孫のヘロデ・アグリッパ一世のときに、再びヘロデ大王とほぼ同じ領土を治めるようになっていたようです。

今日は使徒言行録第一二章の全部を朗読いたしました。もっと細かく区切ってもよかったのかもしれませんが、第一二章すべてを朗読しました。最初から最後まで、ヘロデに関する話がかかわってくるからです。ヘロデが教会を迫害した話に始まり、ヘロデの死の話で終わっています。

ヘロデの死に関しては諸説あるようですが、その当時のユダヤ人のヨセフスという人が『ユダヤ古代誌』という本を書いています。その本によれば、ヘロデはこのような経緯で、死を迎えることになったようです。

ヘロデは皇帝ティベリウスの次の皇帝となる皇太子ガイウス・カリグラと仲が良かった。ヘロデはガイウスに、馬車の中で、気を許してうっかり皇帝の悪口を言った。馬車を操っていた使いに密告されて、皇帝の怒りを買い、半年ほど牢屋に入れられてしまった。あるとき、牢の中から一本の木に止まっているふくろうが目にとまった。囚人仲間のゲルマン人からこう言われた。「あなたはまもなく幸運に恵まれる。しかしもう一度あのふくろうを見たならば悲劇が訪れる」。まもなくガイウス・カリグラが皇帝に就くと、ヘロデは王になることができた。祖父が有していた領土の大部分を回復することができた。そんな中、あるお祭りがおこなわれている最中、「王さま、ああ、神に等しいお方よ」とヘロデを呼ぶ者がいた。ヘロデはこれらの者を叱りもしなければ、斥けることもしなかった。ふと目をあげるとあのふくろうが目に留まった。突然、彼は心臓に突き刺すような痛みを覚えた。そして五日にわたる腹部の痛みに消耗しきって、五四歳の生涯を閉じた。

ヨセフスが伝えるところは、微妙に使徒言行録の記述とは異なるかもしれません。しかし本質的には同じであります。神に栄光を帰さなかった。人間ヘロデの声を神の声だと言われ、ヘロデはそれを否定しなかったのです。「蛆に食い荒らされて息絶えた」(二三節)というのは、ひどい死に方の代名詞的な表現です。

結果的に、ヘロデはこのように死にました。教会の人たちは「ヘロデが死にますように」とか、「ヘロデに呪いが降りかかりますように」などとは祈っていません。教会の人たちの祈りの結果かどうかは分かりませんが、ヘロデはこのような結末を迎えました。そして二四節にありますように、「神の言葉はますます栄え、広がって行った」(二四節)のです。

何度も申し上げていますが、本日の聖書箇所には不思議なことが書かれています。信じられないと思うようなことが書かれています。しかしよく考えてみていただきたいと思うのです。私たち人間が救われること、そのこと自体も信じられないようなことです。私たちはなんとなく神が自分を救ってくださるのではないか、なんとなく神が自分を愛してくださるのではないか、なんとなく神が自分を赦してくださるのではないかと思っているところがあります。それは本当でしょうか。もちろん、本当です。神は私たちを救い、愛して、赦してくださいます。

神はそのことを成し遂げるために、行動してくださいました。ご自分の独り子、イエス・キリストを私たちのところにお遣わしくださいました。全人類の罪をイエス・キリストに負わせ、十字架にお架けになったのです。それゆえに私たちは罪を赦していただきました。それほどまでに神が私たちを愛してくださいます。

神が行ってくださったこのことは、私たちの誰一人、想像すらしなかったことです。神さま、私たちを救ってください、そういう祈りはそれまでに何度も繰り返し、献げられ続けてきましたが、神はその祈りに応えてくださった。私たちが思っている以上のことを、神はしてくださった。神は私たちが最も叶えて欲しい祈りに、すでに応えていてくださっているのです。それも私たちが思った以上のことを、起こしてくださったのです。