松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年11月10日(日)
説教題「神がなさることを、妨げることはできない」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第11章1〜18節

 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。
そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

旧約聖書: イザヤ書 第55章8〜11節

今日から使徒言行録第一一章に入ります。今日の聖書箇所に記されている話は、先週の第一〇章からの続きの話です。ユダヤ人のペトロが、ユダヤ人ではない異邦人のコルネリウスという人と出会いました。神が出会わせてくださったとしか考えられない出会いです。そしてペトロがコルネリウスたちに説教を語る。コルネリウスたちが神の言葉を聴く。コルネリウスたちが信じて洗礼を受ける。そんな話が第一〇章に記されていた話です。

先週の聖書箇所の最後のところに、このように記されていました。「それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。」(一〇・四八)。二人が出会ったその日に、ペトロはコルネリウスたちに洗礼を授けていますが、洗礼を授けて、はいそれではさようなら、ということにはなりませんでした。コルネリウスたちはペトロに数日、滞在するように願ったのです。

何のために、コルネリウスたちはペトロに数日、滞在するように願ったのでしょうか。ペトロ先生をおもてなしするためか。おそらくそうではないと思います。ペトロは洗礼を授ける前に説教を語りました。先週の箇所の第一〇章三六節に「イエス・キリスト」の名前が出て来ていますが、三六節以降、何度も繰り返し「イエス」という名が出てきます。ペトロは主イエスのことを説教した。主イエスがあなたの救い主だということを説教で語りました。もちろん、コルネリウスたちは主イエスのことを信じて洗礼を受けましたが、おそらくもっと知りたいと思ったのでしょう。もっとペトロから神の言葉を聴きたい。もっと主イエスのことを知りたい。そんな思いだったのだと思います。ペトロはその願いに応え、コルネリウスの家のゲストになり、数日、滞在することになりました。

ゲストとして滞在することになるということは、当然、食事が出てきます。食事を一緒にコルネリウスたちとすることになります。すいませんが私だけ一人、別に食事をしますというわけにはいきません。そこで問題が生じてしまったのです。

ユダヤ人たちは、割礼というものを重んじていました。ユダヤ人男性が生まれて間もなく体に受ける印です。割礼のあるなしが、ユダヤ人であるかどうかでした。ユダヤ人たちは神に選ばれた民としての自負がありましたから、異邦人とは積極的に交わることをしませんでした。まして一緒に食事をすることはしない。だからそのことをペトロは非難されてしまったのです。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、ペトロがエルサレムに戻ったときの場面です。ペトロはコルネリウスたちがいたカイサリアという街からエルサレムに戻ってきました。エルサレム教会の仲間たちのところへ行きます。エルサレム教会の人たちは、その時はみなユダヤ人たちでした。教会の歩みが始まっていたとはいえ、まだ人々は割礼の有無の問題にとらわれていました。だからペトロは非難されてしまったのです。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした。」(三節)。

そこでペトロが口を開いて弁明をしなくてはならなくなりました。改めて読むことはいたしませんが、五節以下がペトロの弁明、説明の言葉です。この弁明は「順序正しく」(四節)なされました。ペトロに起こった事柄通りに、物事を説明していったのです。ペトロとしては、この弁明のために長い時間を準備して臨んだというわけではないでしょう。非難されて、すぐに答えなければならなかった。ペトロに起こった出来事をそのまま語ったのです。それだけであるとも言えます。

ペトロの結論としては、次の通りになります。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」(一七節)。ペトロが結論のところで言っているのは、神の御心が成る、実現するということです。今までにいろいろな出来事が起こったけれども、神の御心は異邦人コルネリウスが救われることである、そのことが分かったということです。だからどうしてこの私が神のなさることを妨げることができるでしょうか、ペトロはそう言っているのです。

「御心」という言葉を用いました。以前、教会に来られて間もない方から、「御心とは何ですか」と最初に聞かれたことをよく覚えています。なるほど、御心というのは教会用語と言えるかもしれません。教会の外ではなかなか耳にしない言葉です。御心とは、心を丁寧に言った言葉であると言えるかもしれませんが、神のお心、ご意志、お考えということです。神を信じ、信仰を持っている者にとっては神の御心が極めて大事になってきます。なぜかと言うと、神は全能です。なんでもお出来になります。

そして神は心の中で思っておられることと、実際に行われることが分離しておられないお方です。私たち人間は心の中で思っていることと、実際にやっていることがかけ離れているかもしれませんが、神はそうではありません。神は心で思われることを、その通り実現なさいます。だから私たちは神の心を知るということが、極めて大切なことになってくるのです。

本日、私たちは合わせて旧約聖書のイザヤ書の聖書箇所が与えられました。預言者イザヤが神から預かった言葉です。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ五五・八~一一)。

一度聴いたら忘れることができない聖書の言葉であると思います。この預言の言葉が語られた当時のイスラエルの状況は、ひどい有様でありました。国が滅ぼされている。自分たちが神から離れ、それほど大きな罪を犯してしまったからだ。誰もがそう考えていました。もう駄目だ、神は私たちのことを見捨ててしまわれた。みんながそう思っていました。

しかしそんな中に、預言者イザヤの声が響く。神の御心はそうではない。あなたがたはもう駄目だと思っているかもしれないけれども、神はそうは思われない。神はあなたがたを救ってくださる。神の御心は必ず実現するからだ、そうイザヤは言うのです。この言葉を聴き、イスラエルの人たちは立ち直りました。実際に神はその通りにしてくださいました。国土を回復させてくださり、破壊されてしまった神殿も城壁も再建することができた。神の御心を知るのとそうではないのとではえらい違いです。ペトロもここで、自分に起こった出来事から神の御心を知りました。これが神の御心なのだ。異邦人が救われるのも神の御心なのだ。ペトロは神の御心の話をしているのです。

ペトロはこのように弁明しましたが、よくよく考えてみると、ペトロはエルサレム教会の人たちの問いには直接、答えていないのがすぐに分かります。エルサレム教会のユダヤ人たちは、あなたは異邦人と食事をした。何たることをしたのかと、ペトロを非難しています。食事のことが問題だったのです。ペトロがコルネリウスたち異邦人に洗礼を授けたことを非難したのでも、異邦人を教会の中に入れたことを非難しているのでもないのです。

それに対してペトロは、食事の質問には直接、答えることはしていません。起こった出来事を順序正しく説明した。そうすると神の御心が分かる。神の御心がこうだった、私はそれを妨げることができない、そう語ったのです。

その結果はどうだったでしょうか。ペトロとエルサレム教会の人たちは心を通い合わせることができたでしょうか。彼らはペトロの言葉を黙って聴きました。ペトロが語り終わった後も、しばらく沈黙があったようです。そしてペトロと同じように、事柄を理解することができたようです。彼らも神の御心を受け入れた。今までの考えを変えた。ペトロとエルサレム教会の人たちは話し合い、その話が通じて、心が通い合った。そして最終的に一緒に神を讃美している。ここで起こっているのはそういう出来事なのです。

なぜペトロとエルサレム教会の人たちは、意見の相違があったにもかかわらず、話し合って心を通わせることができたのでしょうか。教会の中でも外でも、どこでも意見の相違が発生します。衝突が起こることがあります。そのときにどのようにしたらよいでしょうか。

やはり話し合いをするわけですが、やみくもに議論しても、ますます溝が深まるだけの可能性があります。そういう場合は、まず議論する相手との共通の土台は何か、そのことを確認することから始めるのがよいと思われます。何が共通で同じなのか。そして何が相違点なのか。そのことの確認をまず行うのがよいと思います。

最初は些細な違いだったのが、だんだんと争いが発展して泥沼化していくことがあります。キリスト教会においても、二千年の歴史がありますが、負の歴史をたくさん生じてさせてしまっています。教会内で争うこともありました。何も最初からいきなり争いを始めたわけではありません。最初はちょっとした違いだったのが、相手への無理解からだんだんと争いが発展し、泥沼化してしまったのです。同じ神を信じているはずなのに、同じ救い主イエス・キリストを信じているはずなのに、その共通の土台を抜きにして争いを発展させてしまったのです。共通の土台を確認することの大切さを思わされます。

今の私たちの国、日本におきましても、いろいろなことが議論されています。政治、経済、社会のそれぞれの面において、議論しなければならないことがたくさんあります。しかしどうもその議論がうまくかみ合わない。皆さまもそのようにお感じになられていると思います。

例えば、既存の原子力発電所を再稼働するのか、しばしばそのことが話題になり、議論がなされます。賛成派がいて、反対派がいます。それぞれに分かれて議論をすることがあるでしょう。けれども私は、今までに有益な議論というのを一度も聞いたことがありません。たいていの場合はそれぞれを非難し合っているだけで、議論の発展が見られません。

なぜ議論がかみ合わないのでしょうか。それはこの説教の中でこれまでに考えてきたように、議論するための土台を確認しないからです。再稼働に賛成する人は、どちらかと言えば経済を重視します。今まで通りの経済大国を目指す。企業が儲かり、雇用も安定し、家計も潤う。世界の中の経済大国の地位に留まる。そのためにはエネルギーが必要で、原発も再稼働しなければならないということになります。

反対する人は、どちらかと言えば経済重視というわけではないと思います。日本はもう国家として成熟してしまった。これ以上の経済発展を望むのではない。成熟したのであれば、それらしい社会を築こうではないかと考える。成熟したのですから、持続可能である必要があります。従いまして、エネルギーもまた持続可能なものがよいということになる。

そういう土台の違いがあるのです。土台を確認する議論をすることなしに、いきなり議論を始めてしまうと、いつまでたっても相手を理解することができずに、非難の応酬になってしまい、ついには泥沼化してしまうかもしれません。

そしてもう一つ言わなければならないのは、そのように議論は始めたならば、自分の意見を変えるということがあってしかるべきだということです。自分の意見を言い、相手の意見に耳を傾ける。そうすると少しずつ意見を変えて、よりよい意見に到達することがあります。あるいは妥協点を見いだせるかもしれません。しかし最近の風潮では、意見を変えると「ぶれた」とか言われてしまい、非難されることがあります。自分の最初からの意見を誰がなんと言おうとも押し通すことが美徳であるかのような風潮があります。しかしそれはとても不幸なことであると思います。議論をして、自分の意見を変えていく、よりよい意見にしていくことは当然のことです。それが議論の醍醐味であり、最大の意義であります。

今日の聖書箇所で、ペトロと教会の人たちが議論をしていますが、私たちのお手本になるような議論だと思います。共通の土台は何か、そんな確認はいちいちしていませんが、そのことは明らかであったと思います。共通の土台とは、神を信じていること。イエス・キリストによって救われた者であること。私もあなたもそうだ、そのように言うこともできた。そして神の御心は絶対であり、必ずその通りに実現する。このような共通の土台があったのです。

そしてエルサレム教会の人たちは、最初に抱いていた考えを変えました。ペトロと話し合い、意見を変えていった。それも神の御心に沿うように変えていきました。このように考えていくと、イエス・キリストを信じるキリスト者は、必ず分かり合えることが分かります。このときに生じていた違いは、割礼の有無、そして異邦人と食事をしたことでありました。今の私たちからすると、些細な問題であるかもしれません。しかし今の私たちにも、同じような些細な問題が起こることがあります。後から振り返ってみると、最初は何でもない問題だったようなことがあります。

しかし私たちは神を信じることにおいて、共通の土台を持つことができる。隣人と心を通い合わせることができるのです。そして私たちが心を通い合わせることができるのは、隣人とだけではありません。他ならぬ神とも心を通い合わせることができる。ペトロもエルサレム教会の人たちも、順々に神の御心を知っていきました。私たちも神の御心を知り、神と心を通い合わせて生きていくことができるのです。