松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年11月3日(日)
説教題「神は人を分け隔てなさらない」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第10章34〜48節

 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。

旧約聖書: イザヤ書 第45章18〜25節

先週の木曜日、一〇月三一日は宗教改革記念日という日でありました。私たちプロテスタント教会で、大切にしている日の一つであります。一五一七年にまで遡りますが、マルティン・ルターという人が、ヴィッテンベルクという町の城門に、九十五箇条の提題を掲げた日が、一〇月三一日であると言われています。その日をきっかけにして、宗教改革、つまり教会の改革運動が広がっていき、カトリック教会から離れたプロテスタント教会が生まれていったわけです。ドイツでは今でもその日は国民の祝日となっています。

もう間もなく二〇一七年を迎えます。ルターの最初の出来事が一五一七年に起こりましたから、あと四年で宗教改革五〇〇年になるわけです。四年後には、プロテスタント教会でその祝いがなされることでしょう。そして、実は今年の二〇一三年も、二〇一七年ほどの大事にはならないかもしれませんが、宗教改革にとって重要な年でありました。宗教改革の中で生まれ、多くの人から重んじられてきた『ハイデルベルク信仰問答』というものが生まれてから四五〇年という年であったのです。

『ハイデルベルク信仰問答』の中身に、今日は入って行く時間はありませんが、その名が表わす通り、信仰に関する問いと答えから成る手引書です。プロテスタント教会として、何を信じているのか、そのことが分かりやすく、筋道立って書かれている、そういう特徴があります。

四五〇年という記念の年を迎え、九月の終わりに説教塾と教文館が主催する記念講演会が東京で行われました。私も聴きに出掛けたかったのですが、別の集会があり行くことはできませんでした。しかしその時の音声を手に入れることができ、お二人の方の講演を聴くことができました。お一人はご紹介するまでもないかもしれませんが、加藤常昭先生です。もう一人は、改革派教会の牧師であられ、ハイデルベルク信仰問答の翻訳をなさった方の一人、吉田隆先生という方です。

特に吉田先生のお話の中で、印象に残った言葉があります。ハイデルベルク信仰問答の特徴や歴史や成り立ちなどをご紹介してくださったのですが、宗教改革のことを評価して、このように言われていました。「宗教改革とは、教育改革である」、と。宗教改革と言うと、文字通りには宗教を改革することのように受け止められてしまうかもしれません。しかし当時のヨーロッパの宗教はキリスト教でありますから、宗教改革と言うよりも、教会改革と言った方がよいわけです。私も宗教改革とは、つまり教会を改革した運動であると理解してきました。もちろんそれは正しいわけです。しかし吉田先生が言われるのは、単にそれだけでなく、その意義が特に教育改革にあると、講演の中で言われていました。

教育改革とは、どういうことでしょうか。それまでは教会の礼拝はラテン語という言語ですべて行われていました。ドイツ人は当然ドイツ語を話すわけですが、ラテン語は勉強をした聖職者にしか分からない言葉です。多くの人は礼拝に出たとしても、何が言われているのかまったく分からない状況でした。聖書がラテン語で読まれても、どこを読んでいるのかよく分からない。説教が語られても、やはりよく分からない。こういう状況ですと、例えば迷信のようなものが入り込んできます。信者も、一体自分が何を信じているのか、そのことがよく分からない状況だったのです。

だからこそ、ハイデルベルク信仰問答のようなものが作られました。誰もが分かる言葉で、もちろん現地のドイツ語で、この信仰問答は作られました。そして広く、長く、この信仰問答は信仰教育のために用いられてきました。日本のキリスト教書店で、聖書や讃美歌に次いで、最も多く売れてきたのが、このハイデルベルク信仰問答と言われています。宗教改革が教育改革と言われているのは、ハイデルベルク信仰問答などが作られて、多くの人への信仰教育がなされてきたからです。

マルティン・ルター以降、たくさんの改革者たちが登場いたしましたが、改革者たちは文字通り、命を懸けて戦いました。何のために命を懸けたのでしょうか。ルターは命まで取られそうになりました。見かねた仲間が、ヴァルトブルク城というお城の中にルターを幽閉して、安全を確保したと言われているくらいです。なぜそれほどまでに情熱を持って教会を改革し、人々に信仰教育を施したのでしょうか。それは、すべての人に正しい信仰を持ってほしいと願ったからです。聖職者だけではない。庶民に至るまで、すべての人にです。ルターは改革者でありましたが、伝道者だったのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所で、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」(三四節)とあります。これはペトロの言葉です。ペトロはユダヤ人です。ユダヤ人男性は、割礼というものを受けています。体に傷をつけるのです。ユダヤ人であり神の民の中に入れられている体に刻まれた印です。この割礼の問題が、教会が始まったときにも問題になったようです。教会に加えられる者は、ユダヤ人と同じように割礼を受けるべきかどうかという問題です。今の私たちからすると、あまりピンとこないかもしれませんが、ユダヤ人ならば割礼なしというのは考えられないことでした。割礼の有無によって、人を分け隔てしていた。それがユダヤ人です。

しかしこのときのペトロには分かったのです。神は決して割礼の有無によって、人を分け隔てしないということが分かったのです。神は公平なお方。救いに関して、ユダヤ人も異邦人も分け隔てしない。ペトロはこのとき起こった出来事によって、そのことが分かったのです。

考えてみますと、私たちが生かされているこの世の中は理不尽なことが多いと思います。人を分け隔てすることが多く発生しているからです。格差が生じています。その理由によって、理不尽さを感じるわけです。もっとも神が格差を生じさせたとはなかなか言えないと思います。むしろ私たち人間がうまく社会を作ることができていないからです。人間の罪のゆえにと言った方がよいでしょう。

特に近年、深刻化している問題があります。格差が生じ、将来に対して希望が抱けなくなってしまっているのです。格差が固定化されてしまっている。生まれや家柄によって将来が決まってしまう。一度、転落すると這い上がることができない。いくら努力しても、格差が埋まることがない。以前のアメリカでは、アメリカンドリームなどと言われましたが、もはやそんな言葉は通用しなくなっているようです。日本でもそれは同じです。将来の夢を描き出せなくなっている。それは人間が作りだしてしまった社会です。

しかしそのような社会の中にある私たちが聖書を読むと、聖書にはまったく違う考え方が記されています。確かに神は私たち人間をそれぞれ違うものとしてお造りになられました。一人一人、持っているものが違う。人間から見れば、そのような違いから格差を生じさせてしまうかもしれません。それぞれ持っているものが違う。タラントンの譬え話では、主人が三人の僕たちに、それぞれ五タラントン、二タラントン、一タラントンを、能力に応じて託します。その違いははっきりとしているのです。

しかし神は公平です。五タラントン預かった者は、他に五タラントン儲けました。二タラントン預かった者は、他に二タラントン儲けました。普通、人間の感覚で言うと、五タラントン儲けた人の方が偉そうです。しかし神は、五タラントン儲けた人にも、二タラントン儲けた人にも、まったく同じ言葉でほめられるのです。五タラントンと二タラントンで、違いはあるかもしれませんが、神のお褒めの言葉は同じなのです。言い換えると、誰でも救いに関しては同じなのです。神は分け隔てなさらない。救いに関して、神は分け隔てなさらないのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の話は、異邦人に対する伝道の話です。ユダヤ人と異邦人、格差があるとユダヤ人たちは思っていました。それも救いに関してです。ところがそのような思いが打ち砕かれた。神は分け隔てなさらない。そのことが明らかになった聖書箇所です。

今日の聖書箇所は、先週からの続きの話です。コルネリウスという異邦人が出てきます。そしてペトロというユダヤ人が出てきます。それぞれにいろいろな出来事が起こります。幻を見たり、いろいろなことが起こります。二人が出会い、いろいろなことが分かってきます。そしてコルネリウスがペトロから、御言葉を聴く状況が整ったのです。先週の聖書箇所になりますが、三三節のところにこうあります。「それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」(三三節)。

ペトロが説教を語る状況が整いました。ペトロはこれまでにも何度か説教を語る機会がありました。聖書にもその内容が記されています。しかし説教は説教でも、今までの説教はユダヤ人たちに対してでした。ところが今や、ユダヤ人以外の異邦人に説教を語ろうとしている。今日の聖書箇所は、使徒言行録の中でも、異邦人に対する最初の説教になります。その内容も、聴き手が異邦人ならではの説教になっています。

説教を聴く者が異なれば、語る内容が異なってくる。当たり前のことかもしれません。ある聖書箇所の説教を一度作成すれば、どこの教会でも通用するというわけにはいきません。語る相手によって、説教の内容が異なって来るのです。私は時々、招かれて他の教会で説教の奉仕を行うことがあります。他教会で説教を語るのは、実はけっこう苦労するのです。なぜかと言うと、その教会にどういう方がおられるのか、よく分からないからです。先方教会の牧師から、私たちの教会の状況はこうです、こんな問題があります、と言われることもあります。しかしそう聞いてはいても、なかなか難しいものです。説教とは、聴き手によって変わってくるところがあるからです。

ここでペトロがしていることもまったく同じです。ペトロの説教の聴き手が、今までのユダヤ人たちではなく、コルネリウスという異邦人である。そのことを踏まえての説教でありました。

説教では、当然のことながら、イエス・キリストの話がなされます。ペトロが以前していたユダヤ人たちに対する説教では、主イエスの十字架と復活の話が中心となります。もちろんペトロはこのときもコルネリウスに対して、十字架と復活の話はしています。しかしそれ以外に、主イエスのご生涯のこともかなり多くのことを語っています。
またペトロはユダヤ人たちに対して、旧約聖書の話も多くしてきました。ところが、コルネリウスに対してはどうでしょうか。旧約聖書の話はほとんどしていません。例外は四三節くらいでしょう。「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」(四三節)。

まさにコルネリウスにはうってつけの説教だったのでしょう。説教を聴いていたコルネリウスたちは、神の言葉を受け入れたようです。コルネリウスたちに聖霊が降りました。聖霊は神の霊です。目で見ることはできません。なぜ周りの人たちは聖霊が降ったと分かったのでしょうか。その理由が四六節に記されています。「異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。」(四六節)。

異言とは何でしょうか。異言のことが詳しく丁寧に述べられている聖書箇所もありますが、ここではそのことに触れないことにします。異言とは要するに、神に感謝し、神に讃美を献げることです。説教を聴いて神を讃美する。そのことによって聖霊が降っていることが分かった。私たちに置き換えて言うと、説教を聴いて、讃美歌を歌い出したようなものであると言えるかもしれません。

このようにして、ペトロの心も固まっていきました。異邦人にも洗礼を授けてもよいとの確信を得たのです。割礼の有無は問題ない。神が受け入れられているのかどうかが重要です。神が招き、受け入れられているということが分かった。だからペトロは確信を持ったのです。

私も、まだ洗礼を受けておられない方から、洗礼の条件を聞かれることがあります。こんな私が洗礼を受けてもよいのでしょうか、その心にはそのような思いがあるのだと思います。しかし本日、私たちに与えられた聖書箇所に即して言うならば、神は人を分け隔てなさる方ではありません。救いに関して、神は公平です。どんな人でも神は受け入れてくださいます。逆に、そのような方には、是が非でも洗礼を受けていただかなくてはなりません。それが神の御心だからです。

イエス・キリストはすべての人を救うために十字架にお架かりになりました。主イエスが死なれて、私たちに命が与えられました。洗礼は古い自分に死んで、新たに生まれ変わることです。そこに分け隔てはありません。神は人を分け隔てされることなく、すべての人に救いを差し出してくださっているのです。