松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年5月12日(日)
説教題「迷った時の神頼み」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: 使徒言行録 第1章12節〜26節

 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

旧約聖書: ヨシュア記 第14章1〜5節

先週から使徒言行録に入りました。今日は先週に引き続き、二回目ということになります。先週からの続きの聖書箇所をお読みいたしました。今日の箇所は一二~二六節になりますが、二回目で一二節からというのは、少し早いペースであったかもしれません。

使徒言行録にも、たくさんの説教集や注解書が出版されています。福音書に比べると、もしかしたら少ないかもしれないと思っていましたが、意外にたくさんのものが出版されています。私もそれらを何冊も手に入れて、手元に置いてあります。説教の準備のために、何冊も読むということになります。

ルカによる福音書の説教をしていた頃も、ルカによる福音書の説教集や注解書にたくさん囲まれていましたけれども、だんだんとそれらの本を読んでいると、それぞれの本との相性も分かってくるものです。自分の肌に合う本も分かってくる。そうなるとやはり重点的に読む本と、そうでない本と分かれてきます。それに対し、使徒言行録に関する本も読み始めてはいますが、本との相性をあまりまだよくつかみ切れていないというのが正直なところです。たくさんの本に囲まれて、今は四苦八苦しているというような状況です。

それだけ、たくさんの本を今、開いている状態ですが、たいていどの説教集も注解書も、区切り方はもっと細かいものです。先週は一節から一一節まで、一気にひとまとめで説教をいたしました。しかし人によっては、先週の箇所で、三回も四回も説教をしています。確かに細かく区切って、丁寧に読んでいくのも、使徒言行録の大切な読み方であると思います。

しかし私たちは、細かく丁寧に読むよりも、話の流れをつかむ読み方をしたいと思っています。ルカによる福音書の説教をしていた頃も、細かく区切り、言葉の意味などを詳細に触れるような説教をしたこともありました。使徒言行録も、場合によってはそのようなやり方をすることもあるかもしれませんが、話の流れを把握することを大切にしたいと思っています。そのため、聖書朗読も多少長くなることが多くなると思います。

使徒言行録は記録であります。使徒たちが語り、話をした記録。旅をした記録。人が集められ、教会が各地に建てられていった記録です。使徒言行録は、そのようなストーリーを抜きにして、読むことは決してできません。これらのストーリーは、神の導きのもとになされたものであります。そのようなストーリーを大切にしながら、御言葉を聴いてまいりたいと思います。

それでは、本日、私たちに与えられた聖書箇所のストーリー、流れを、まずどのようにつかんだらよいのでしょうか。私の手元にいつも置いて、持ち歩いているものの中に、牧会手帳と呼ばれる手帳があります。手帳としては、他にも使いやすい手帳があるでしょうけれども、牧師という務めをしている私にとって、これはとても便利なものです。教会の暦に関する様々な日付も記載されています。

この牧会手帳で、先週の木曜日、五月九日のところを見ると、「昇天日」と記されています。昇天日とは、言うまでもなく、主イエス・キリストが天にあげられた日のことです。先週の聖書箇所になりますが、「四十日にわたって彼らに現れ」(一・三)とあります。主イエスが復活されてから、使徒たちに現れた日数が四十日でありました。主イエスが復活されたイースターは日曜日でありますから、四十日目は必ず木曜日になります。今年は五月九日でありました。

そして主イエスが昇天された後、ペンテコステという日が到来します。ペンテコステとは、来週の説教で詳しくは触れますが、聖霊降臨日のことです。聖霊が使徒たちに降った日です。このペンテコステというのは、五十番目という意味があります。イースターから五十日目。つまり、主イエスが天にあげられてから、ペンテコステまでの日数が十日あったということになります。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、その十日の期間での話であります。主イエスの復活から数えて四十日以上、五十日未満の十日間です。神は使徒たちに、十日間の待つ期間を用意されたのであります。

考えてみますと使徒たちは、十日間待つなどという無駄な時間を過ごさずに、すぐに伝道に出掛けてもよかったのかもしれません。使徒たちのすべきことは、もう明確にされています。「そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(一・八)。しかし同時に、主イエスは待ちなさいということも言われていました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」(一・四)。このことを待つための期間が、十日だったのです。

この十日という期間、使徒たちはどんな思いで待っていたのでしょうか。私たちも使徒たちのように、ひたすら待たなければならない期間があります。私たちが人間である以上、待つということは絶対になくならないことです。私たちは時間を支配できないからです。時間を支配されるのはただお一人、神のみであります。神が何らかの事を起してくださる。それが私たちの待つ期間です。そしてその期間に、何をして待つのかが問われているのです。

使徒たちがこの待っている期間に、していたことが二つあります。もちろん、想像力を膨らませれば、もっとしていたこともあるでしょうけれども、聖書が記していることは二つだけであります。

一つ目は祈りです。一三節のところに、使徒たちの一覧が記されています。主イエスを裏切って自殺をしてしまったユダを除いて、十一人です。続く一四節に「婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」(一四節)という人たちも出てきます。さらに一五節も含めて考えれば、「百二十人ほどの人々」(一五節)もいました。たくさんの人たちが集まっていたのです。

この人たちが一体何をしていたのか。何よりもまず記されているのは、祈っていたということです。「心を合わせて熱心に祈っていた。」(一四節)とあります。一緒にいただけでない。待っている際に、祈りが欠かせなかったのであります。

『信徒の友』という雑誌があります。この『信徒の友』に「日毎の糧」と呼ばれるコーナーがあります。その日の聖書箇所や短い解説の文章が記されています。そしてそれだけでなく、毎日一つずつ、教会の名前が祈祷課題と共に挙げられています。四月二六日、「日毎の糧」の教会は、私たちの松本東教会でありました。そのため、多くの方々が松本東教会のために祈りをしてくださいました。皆が心を一つに合わせてくださったのです。お葉書をたくさんいただきました。全部で四〇通ほどです。もちろんお葉書をくださった方々だけでなく、葉書はなくとも祈ってくださった方々はもっと多くおられると思います。

この「日毎の糧」に、それぞれの教会の祈祷課題が挙げられています。漠然と祈るのではなく、具体的な祈祷課題を祈るのです。教会として、こんな課題を抱えている、あんな困難を抱えている、そのことを具体的に祈る。そういう具体的な課題があるならば、もしかしたら祈るよりも、すぐに課題の解決に着手すべきではないか、そんな意見もあるかもしれません。私たち個人としても、何らかの問題が生じたときに、まず祈る場合もあるでしょうし、祈るよりもまず行動するという場合もあると思います。

しかし『信徒の友』に挙げられている祈祷課題のほとんどは、すぐに行動できないような祈祷課題である場合が多いと思います。あるいは、ほとんど実現する可能性は薄いのではないかと思われる祈祷課題もある。神の導きがなければ、自分たちでは何もできないと思われるものもある。そのようなときに、私たちは何をすればよいか。待たなければならないのです。神がしてくださることを待つ。ただ待つのではなく、使徒たちのように、祈りつつ待つのであります。

使徒たちがこの十日の間にしていたもう一つのことがあります。それは使徒の補充ということです。このとき使徒は十一人となっていました。もともとは十二人だったわけですが、一人の欠員が生じていた。ユダが主イエスを裏切って、自殺をしてしまった。そのときのことが、今日の聖書箇所にも記されています。一人欠けてしまったので、そのための補充です。

なぜ補充しなければならなかったのでしょうか。十二という数字が極めて大切だったのです。もともと、イスラエルは民族として大きくなる前に、一つの家族でありました。ヤコブという人がいましたが、この人の息子が十二人いたのです。この十二人がやがて部族となり、十二部族が合わさってイスラエルという大きな民族になっていきます。ですから、十二で全体を表わすことになります。もともと十二という数字が、極めて重視されていたのです。

この十二という数字を満たすために、使徒の補充がなされました。最終的に二人の候補に絞られたようです。二人の最終候補が出たのだから、二人補充して十三人にしよう、ということにはなりませんでした。一人欠員のまま、十一人でよいということにもなりませんでした。後にパウロという使徒が現れるのですから、欠員にしてもよかったのかもしれませんが、そうはしなかったのです。

伝道を開始するにあたって、最初が肝心でした。十二使徒からのスタート、これが極めて大事だった。やがて、使徒たちの中から最初の殉教者が生じます。使徒の欠員が生じる。そのとき、使徒が補充されて十二人になったでしょうか。そうはなりませんでした。そのときは補充がなされませんでした。最初だけだったのです。最初がとても肝心だったのです。

聖書の中に、教会の土台が使徒であるというような言葉があります。使徒が土台なのですから、最初の出発点が極めて重要であるということです。使徒とは何か。使徒とはどんな条件を兼ね備えてなければならないのか。その条件が二一~二二節にあります。「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(二一~二二節)。

その条件とは、主イエスのことを直接知っているということです。主イエスが復活されたということの証人になることができるということです。もうこれ以降は、言葉だけで伝道がなされていくことになります。人が言葉を語る。証人が必要であった。証し人が必要であった。人が言葉で証言をするのです。主イエスがお甦りになられた、と。使徒とはそのような条件を満たす者でありました。

使徒は教会の土台になります。最初が肝心なのです。直接、主イエスにお会いして、復活の証人になることができる。その証言が後の世代の者たちに伝えられていきます。後の世代の者たちは、主イエスに直接お会いしたことはありません。ですから、もはや使徒ではない。使徒から託された言葉を、また語り伝えていきます。しかし最初があやふやであってはいけない。最初が肝心なのです。待っている十日間の間、使徒たちは欠員の補充をした。使徒たちが祈る以外にできた唯一のこと、それは使徒の補充をして、十二人にするということだったのです。

しかしそのように欠員を補充するにあたり、一つの問題が生じました。一人だけを選ばなければなりません。しかし自分たちにできたのは、候補者を二人に絞るところまででありました。最初は、百二十人ほどの人がいたのでありますから、候補者はもっといたのだと思います。何らかの方法で、二人にまで絞った。しかしそこが人間の限界でありました。

二人のことは、二三節のところに記されています。「そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて」(二三節)。最初に記されているのは、「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ」です。三つの名前が出てきていますが、すべて同一人物です。バルサバというのはあだ名、ユストというのはラテン語、ヨセフというのはヘブライ語です。後に記されているのは、マティアです。マタティアという名前を少し略したのがマティア、さらに略すとマタイとなります。マティアはあだ名も何も記されません。

ある説教者が想像していることですが、人々が心の中で選ばれて欲しいと思っていたのは、前者のヨセフではないかと想像しています。なぜなら、ヨセフの方が最初に記されていますし、ラテン語の名前やあだ名まで紹介されている。それに対してマティアは名前だけであります。明らかにヨセフの方が優遇されているのです。

二人の最終候補を決めるところまでは、人間の側でできたことですが、神の御心を問うために、くじが引かれました。くじは聖書的です。旧約聖書でもしばしばくじが引かれたことが記されています。例えば、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所がそうです。松本東教会の祈りの会で、昨年の九月以降、半年間にわたって、ヨシュア記を読んできました。

ヨシュア記は前半と後半に分けることができます。エジプトの奴隷生活を抜け出したイスラエルの民が、いよいよ約束の地に入り、土地を獲得していきます。それが前半です。後半では、その獲得した土地をイスラエル十二部族ごとに分配をしていきます。どういう形で分配がなされたのか。リーダーであったヨシュアの一存で決めたのか。そうではありません。今日のヨシュア記の箇所にあるように、くじが引かれたのです。神の御心を問うて、くじによって土地を分配していったのです。

旧約聖書ではこのようにしばしばくじが引かれることがありますが、新約聖書に記されているくじ引きの話は、今日のこの箇所だけです。十日間にわたって、聖霊が降るのを待っていた使徒たちです。使徒言行録の第二章以降で強調されているのは、使徒たちが聖霊に導かれていったということです。その都度、くじ引きをしてきたわけではありません。先に進むか、この地に留まるか。右に行くか、左に行くか。迷った時に、使徒たちがどうしたのか。使徒言行録が伝えているのは、聖霊の導きがその都度、あったということです。いつもそのような神の導きがあったのです。ある聖書学者は、もうくじを引く必要がなくなった、聖霊が導いてくださるのだから、と言っています。

主イエスが天にあげられて、聖霊が注がれていよいよ伝道が開始されます。それが来週、私たちが聴こうとしている箇所です。使徒たちの待つこと十日間。使徒たちがしていたことは、多くはありません。皆で一つになって祈ること。欠けていた使徒を補充すること。その二つだけです。

使徒たちはできることを、できる範囲内でしっかりと行った。人間の側では、できることを整えたのです。後はひたすら待った。教会の土台を整えて、主イエスが約束されたものを待った。神が働きかけて、導いてくださるのを待った。神は最もふさわしい時に、ふさわしい事を起してくださるのであります。