松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2016年3月27日(日)
説教題「キリストは甦られた」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ローマの信徒への手紙 第10章8〜13節

では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

旧約聖書: ヨエル書3:1~5

イースターおめでとうございます。本日のイースターの礼拝で、子どもが洗礼を受けました。幼児洗礼や小児洗礼ではありません。「成人洗礼」と言うのも、ふさわしい名称ではありませんが、通常の洗礼です。長老会やこどもの教会教師会では、すでにそのことを話してきましたので、知っていた方もありましたが、今日、その出来事を目の当たりにし、驚かれた方も多かったと思います。

昨年の九月のことになります。教会員のお母様から連絡をいただき、息子が洗礼と聖餐についての質問があるから、時間を取ってもらえないか、ということでした。すぐにお会いする約束をし、実際にお会いしました。その時に、四つの質問を彼から受けました。

これもふさわしい名称ではないかもしれませんが、いわゆる大人の礼拝に自分も出席してよいか、それが第一の質問でした。もちろんどうぞ、実際にこどもも何人も出席しています、と答えました。第二の質問は、聖餐には誰が与ることができるか、という問いでした。信仰を言い表し、洗礼を受けている者が、主イエスの恵みを覚えて受けることができる、そう答えました。

第三の質問は、洗礼式はどう行うのか、ということでした。洗礼には大きくわけてやり方が二つあり、一つは浸礼とか、全浸礼と言います。体全体を水の中に浸すやり方です。もう一つは滴礼と言って、全身ではなくわずかな水を頭から注ぐやり方です。松本東教会では滴礼で行っていると答えました。

第四の質問は、洗礼式では何を言わなければならないか、という問いでした。今日の洗礼式をご覧になってお分りの通り、洗礼式では司式者である私が、ほとんどの言葉を言っていきます。洗礼を受ける者が言うべき言葉はほんのわずかです。そのようにお答えました。

かなり具体的な質問でしたので、洗礼を受けたいですかと尋ねました。そうすると、受けたい、という答えが返ってきました。今すぐにでも受けたい、そんな勢いでした。彼がそのように思うようになったのは、別に親が勧めたからではありません。こども用の聖書を読んでいた際に、洗礼の場面が描かれているところがあり、それがきっかけになったようです。

もちろん、私たちは幼児洗礼を考えなかったわけではありません。彼の年齢くらいであれば小児洗礼と言うべきかもしれません。幼児洗礼の場合でも小児洗礼の場合でも、洗礼を授ける際に信仰を問うのは、その親に対してです。あなたがたの子どもに洗礼を授けることを願うか、と問うのです。もちろん両親はYESと答えるでしょう。しかし今回の場合、仮にそのようにしたとしても、彼自身が自分の口で信じると明確に言っているのです。

そして九月以降、彼との学びを続けてきました。彼が持っている聖書から、たくさんの質問を受けました。よく聖書を読み、親しんでいるのです。大人が思いつかないような、子どもならではの質問もたくさんありました。それから使徒信条を共に学びました。先週、長老会において試問会を行いました。牧師と長老たちを前にして、緊張をしたと思いますが、使徒信条の全文をその席で暗唱してくれました。十戒も一緒に学びました。そのようにして、この半年間を過ごしてきたのです。

半年前の秋には、教会員のお連れ合いに病床洗礼を授けました。一一月に病床洗礼を行い、一二月のクリスマスに召された方です。その方のところに頻繁にお訪ねをし、聖書を一緒に読み、病床洗礼に向けての備えをしてきました。しかしだんだんと病が進行していき、弱られていく中でのことでした。通常の形での学びを行うことがでませんでした。ご本人も信仰に対する反発のようなものがなかったわけではありません。そのような中、病床洗礼の当日には、ご本人が「信じます」と大きな声で言われて洗礼を受けられた。神の導きとしか考えられない出来事でした。

半年前の秋には、一方では、人生の晩年を迎えている方が「信じます」と言われて洗礼を受けた。他方では、小さな子どもが「信じる」と言って洗礼を志願している。二つの出来事が同時にやって来たのです。これはいったいどういうことなのか。洗礼を受けるために、いったいどういう条件が必要なのか。私たちは洗礼を受けるためのいろいろな条件を、あれこれと考えてしまうかもしれません。信仰の内容をしっかり学んで、聖書をすべて読み、祈りをたくさんし、信仰的な生活を整えなければならない、そう考えてしまう。確かにそれも重要なことかもしれませんが、洗礼は心に信じ、口で「信じます」と告白をして受ける。それが洗礼を受けるための唯一の条件です。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、心と口という言葉が何度も繰り返し使われています。「では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(八節)。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(九節)。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(一〇節)。

八節のところにあります鍵括弧でくくられたところは、旧約聖書の申命記からの引用です。申命記は、イスラエルのリーダーであったモーセが最後に語った遺言のようなところがあります。モーセがイスラエルの民にいろいろなことを言っています。

引用されているのは、申命記第三〇章一四節「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」という言葉です。その前にある二節分の言葉が非常に面白く、こうなっています。「それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。」(申命記三〇・一二~一三)。

ここでモーセが言っているのは、人間の言い訳です。聖書の言葉が難しい、神をなかなか信じることができない、そう言っている人間が思いつくのは、そもそも神の言葉が遠くにあって、自分たちに全然聞こえてこないからだ、そういう言い訳です。なかなか痛烈な言葉です。

しかしモーセと同様、ローマの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、御言葉はあなたの近くにあるではないか、あなたの口と心にもう届けているではないかと言うのです。しかもその口と心には、主イエス・キリストを信じる信仰があるのです。

ローマの信徒への手紙の八節と九節では、口がまず出てきてから心が後に出てきます。しかし一〇節では、心が先に出てきてから口が後に出てきます。これは当時の文章を書く際の一つのテクニックと言われています。しかし口と心がセットになっていることは、単なるテクニックでは終わらないところがあります。なぜなら、私たち人間の口と心はしばしば一つに結び付かず、バラバラになってしまうからです。口先だけで、心が伴わない場合があります。心で思っていることを、うまく口で表現できない場合があります。人間の心も揺れ動きやすいものです。その人間の口から出る言葉も無責任で、はかないものです。そんな私たちにとって、心で信じるだけでない。口で公に言い表すことは、とても大事なことになります。

心で信じていればそれでよいではないか。そういう考えがないわけではありません。信仰は自分個人の心の問題なので、口で言い表す必要などない。自分の心で信じてさえいればよい。いつの時代にも、そういうことを主張する人たちはいます。しかし本当にそれでよいのでしょうか。

「イエスは主である」、救い主、キリストである。その信仰を言い表すのに、命がけの時代がありました。教会が始まった二千年前の時代がまさにそうでした。ローマ帝国を治めているローマの皇帝に対して、皇帝こそが主である、そういう告白を強いられるような時代もありました。日本では江戸時代の初期に、多くのキリシタンが殉教する者たちがいました。

この信仰の告白が問うているのは、何を自分の主人にするのかということです。私たちが基準とし、拠り所とするものは何かということです。単純な問いではありません。私たちは誰もが何らかのものに拠り所を置いているのです。ローマの皇帝は支配者でもありましたが、民の保護者でもありました。ローマの民は保護を受けている。その意味で、ローマ皇帝は主人と言わなければならない。江戸幕府の将軍も、同じように考えることができるかもしれません。

あるいは、現代において、私たちの上に君臨するような支配者は一見いないように見えるかもしれませんが、何らかのことを拠り所にすることには変わりはありません。お金や地位や名誉であったり、他の人間であったり、あるいは自分自身を信じて歩むこともあります。そういう中で、自分を真に支配しているものは、それらのものではない、信仰を持つ者は「イエスこそ主である」と信じ、告白するのです。心に信じ、口で公に言い表すのです。

今日の聖書箇所の九節に、「口でイエスは主であると公に言い表し」(九節)というように、「公」という言葉があります。続く一〇節でも「口で公に言い表して救われるのです」というように、「公」という言葉があります。「公に言い表す」とはいったい何でしょうか。実は元の言葉には、「公」に該当するような言葉はありません。単純に「告白する」という言葉があるだけです。

先週の木曜日にオリーブの会が行われました。信仰の初歩的なことを学ぶことができる会です。先週のオリーブの会では、いくつかの聖書箇所を読みましたが、その中の一つに、「自分の罪を公に言い表すなら」(Ⅰヨハネ一・九)という言葉がありました。これも「告白する」ということですが、これはいったいどういう意味なのかという質問が出ました。

映画などでお馴染みかもしれませんが、カトリック教会には懺悔室と呼ばれる部屋があります。聖職者と信徒がその部屋に入り、信徒が懺悔をする。罪の告白をするのです。そして聖職者が罪の赦しを与える。これはカトリック教会でのことですが、私たちのプロテスタント教会ではどうなのでしょうか。懺悔室がないということは、懺悔を重んじていないのか。決してそうではありません。プロテスタント教会でもいろいろな理解があるかもしれませんが、プロテスタント教会では特に、礼拝の中での罪の告白と罪の赦しを大事にしています。

私たち一人ひとりは、一週間のそれぞれの生活を終え、教会の礼拝に集います。一週間の生活で様々な罪を犯してきました。誰も否定することはできません。その一つ一つの罪を、いちいち口に出してみんなの前で言ったりすることはしません。それらは自分の心の中にしまったままかもしれない。しかし礼拝の中で自分の罪を思い起こし、悔い改め、罪の赦しをいただく。特に説教の中でその赦しの言葉を聴き取るのです。そして新たな一週間の生活へと出かけていくことになります。

罪を公に言う。公にというと、広く、みんなに対して言わなければならないと思うかもしれませんが、そうではありません。罪を告白する。それは、何よりも自分が罪人であることを認めることです。そしてそれゆえに、イエス・キリストこそが罪の赦しを与えてくださる救い主であると認めることにつながります。そのことを心で信じ、口で告白するのです。

今日の聖書箇所の一二節にこうあります。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」(一二節)。ここにユダヤ人とギリシア人がセットになって出てきます。説明は省きますが、両者は正反対なところがあります。しかしローマの信徒への手紙では、正反対な両者でありながらも、信仰においては同じだという仕方で出てきます。

例えば、最初の第一章に「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(一・一六)とあります。途中の第三章に「既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」(三・九)。まるで正反対の両者であるかもしれないが、信仰において違いはないと言うのです。

ローマの信徒への手紙以外の他の箇所では、ユダヤ人とギリシア人に加えて、男と女、自由な身分の者も奴隷の身分の者も、というような言葉がさらに付け加えられている箇所もあります。意味していることは同じです。私たち人間の一人一人は誰もが違うのです。誰一人、同じ人はいない。しかし信仰において、共通のことがあるのです。

何が共通なのでしょうか。一二節のひとつ前の一一節に、旧約聖書の引用があります。「主を信じる者は、だれも失望することがない」(一一節)。これはイザヤ書第二八章一六節の言葉であり、イザヤ書では「信ずる者は慌てることはない」と訳されています。イザヤ書が書かれた当時の状況からすると、誰もが慌てていたのです。

ローマの信徒への手紙では、「主を信じる者は、だれも失望することがない」ですが、裏を返して言えば、誰もが失望を経験しているのです。なぜ皆が慌てるのか。なぜ失望するのか。失望という字は、望みを失うと書きます。文字通りの意味です。望みを失うのは、これ以上先が見えてこないときです。人間には限界があります。その限界の壁にぶち当たる。その壁を超えられず、そこで失望するのです。

しかし「主を信じる者は、だれも失望することがない」(一一節)と聖書は言うのです。なぜそんなことが可能なのでしょうか。それは、キリストには限界がないからです。キリストは私たち人間の罪を背負い、十字架にお架かりになってくださいました。そこで死なれました。しかし死んでそれっきりではありませんでした。キリストは死を乗り越え、お甦りになってくださいました。死の壁を乗り越え、罪の壁をも乗り越えてくださったのです。キリストを信じる私たちにも、その壁を乗り越えられる希望を与えてくださったのです。

今日、洗礼を受けられた彼と、半年間学びを重ねてきましたが、たくさんの聖書の質問を受けました。主イエスがお甦りになられた日曜日の朝、主イエスの墓をふさいでいた墓の石が、わきに転がされていました。そしてその石の上に、天使が座ったのです。彼の持っている聖書には、天使が石の上に座っている絵が描かれていました。彼はこう私に質問したのです。「天使はなぜ石の上に座っているのか」。

子どもらしい質問かもしれませんが、これはなかなか鋭い質問であると思いました。その理由は聖書には書かれていませんので、あくまでも私の推測なります。墓の石は、人間を死の中に閉じ込めておくための蓋です。死んだ人は死の中に閉じ込められていることになります。その壁を人間の力で超えることはできません。しかしその石が転がされ、天使がその上に座ったのです。死の力が退けられたのです。

今日の聖書箇所の最後に、これも旧約聖書の引用ですが、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(一三節)とあります。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のヨエル書からの引用です。「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」(ヨエル三・五)。「だれでも」「皆」、そこに何の差別も区別もありません。

確かに私たちの間には、ユダヤ人やギリシア人の違いはあります。年老いた者や年若き者の違いもあります。そのような様々な違いがありながらも、しかし主イエスを信じる。そこに何の区別も差別もない。私たちは主イエスを心に信じ、そのことを口で告白している。誰もが同じ信仰へと導かれているのです。