松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年1月1日(日)
説教題「聖書の言葉は必ず実現する」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: マタイによる福音書 第2章13〜23節

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

旧約聖書: エレミヤ書31:15~17

主の年、二〇一七年になりました。今日は最初の日、日曜日です。新年の挨拶を交わし合った方も多いと思います。年賀状の中で、そのような挨拶も交わされます。「あけましておめでとう」と言います。いったい何がめでたいのでしょうか。明けるという言葉が使われています。何が明けるのかというと、年が明けるのです。梅雨明けなどと言うように使いますが、梅雨が終わることを明けると言います。二〇一六年が無事に明けた、そして二〇一七年を迎えることができた。そのように挨拶を交わし合っているわけです。

新年になる。それだけで本当にめでたいかと言うと、そうでもないと思います。私たちキリスト者は、クリスマスの到来と共に、一年を振り返り、いろいろなことを考えます。今年一年も生かされた。いろいろなことがあったかもしれない。この世の不幸と呼ばれるような出来事もあったかもしれない。けれども、救い主がお生まれになってくださった。そのことを覚え、クリスマスおめでとうという挨拶を年末に交わし合う。そして二〇一六年が明けて、二〇一七年を迎える。ここでもやはり生かされた、おめでとう、その挨拶を交わし合うのです。

年賀状の制度の中に、喪中というものがあります。身内の不幸があった場合に、新年の挨拶を控えるということです。確かに、おめでとうというような気分ではないのかもしれません。無事に二〇一六年が明けた、おめでとうというようなことではないのかもしれません。

しかし、キリスト者はむしろそれとはまったく逆の方向だと思います。クリスマスの喜びであれ、新年を迎える喜びであれ、この世の不幸があったから、喜びから外されるというわけではないからです。むしろ、そのような逆境の中にあってこそ、喜び祝えることだと思います。私はずっと前から、年賀状を止めてクリスマスカードを送ることにしています。喪中のはがきが届いたとしても、その方々のところに、クリスマスカードを送ります。クリスマスの、そして新年の喜びがあなたにもありますように、その思いを込めて、クリスマスカードを送るのです。

私たちキリスト者が交わし合う「おめでとう」は、あらゆるものを乗り越えるおめでとうです。死を乗り越えるものです。あらゆる悲惨、労苦、悲しみ、そして人間の罪を超えるものです。その喜びを救い主キリストが与えてくださった。それが私たちの信仰なのです。

二千年前のクリスマスの時、救い主がお生まれになりました。クリスマスは一二月二五日で終わりというわけではありません。少なくとも、教会の暦では、一月六日までクリスマスの祝いの期間です。私たちの教会では、マタイによる福音書第一章と第二章からこの期間、御言葉を聴いてきました。今日は第二章の終わりの箇所になります。この箇所に記されていることは、まさに人間の罪と悲惨のただ中に、救い主がお生まれになってくださったということです。

この箇所に、ヘロデ王が出て来ます。息子たちもヘロデという名を名乗った、あるいは名乗ろうとしたので、クリスマスのこのヘロデのことをヘロデ大王と言います。曲がりなりにも一地方の王でありました。ヘロデ大王に関して、聖書以外からも、いろいろなことが知られています。

ヘロデ大王の父親はアンティパトロスという名前でした。彼はローマ帝国軍の軍事行動を積極的に支援します。ユリウス・カエサルというローマ帝国の頂点に立つような男の信頼を得ます。息子のヘロデはガリラヤ地方の知事として、父を支え、統治をします。ところが、父親がユダヤ人に毒殺されてしまいます。ヘロデはすぐに毒殺した者を処刑。その専制的なやり方には、ユダヤ人からも反発を受けたようです。

ヘロデは徹底的に、その後もローマに加担します。ヘロデが生粋のユダヤ人ではなかったことも、その一因かもしれません。おじとの権力争いも発生します。その混乱の中、ヘロデはローマにまで赴き、ローマ帝国の精鋭部隊の力を借りることにも成功します。そのようにしてエルサレムを占拠。ローマ帝国に従属することを約束し、ユダヤ人の王となった。ヘロデ大王になった。紀元前三七年のこと、キリストがお生まれになる三十数年前のことになります。

ヘロデ大王は、政治的にもなかなかの手腕の持ち主だったようです。王様になって徹底的にしたことは、前の王の血を引く者たちを徹底的に処刑したことです。そして、自分に敵対的であったユダヤ人の指導者たちも迷わず処刑します。ヘロデ大王の周りには、いつも血の匂いが漂っていました。肉死んでさえも、疑い、処刑していく。そうでもなければ、この時代の王は成り立たなかったのかもしれません。ヘロデ大王はまさに典型的な暴君だったとも言えるでしょう。誰も信じることができない。孤独の王だったのです。

ヘロデ大王の論理は、邪魔な者を消していくということです。単純明快な論理。しかし今でもなお、ヘロデの論理は生き続けています。二〇一六年、様々な問題が世界に起こりました。その大きな一つの問題が難民問題でした。過去形ではまだ終わらせることができていません。ある地域で争いが起こる。そうするとそこの住民がそこでは生活できなくなる。生活できそうなところへ移動せざるを得ない。そのようにして難民の問題が発生します。難民を受け入れるか受け入れないか、そのことが選挙の結果にも大きな影響を及ぼしました。

数十年前から、国際化とか、グローバル化とか、そういう言葉が流行りました。しかし今ではすっかり廃れてしまった言葉と言えるかもしれません。世界は狭くなり、隣の人との距離が近づいたかもしれないけれども、人間の心はちっとも国際化していなかった。グローバル化していなかった。人間は相も変わらず、自分たちの小さな王国を築こうとします。そこでは、邪魔な人や物を排除するという理論が幅を利かせています。ヘロデの王国が、今でもそこら中で作られている。日本も無関係ではいられません。

そのような王国が作られる中で、ヘロデ大王による幼児虐殺という事件が起きたのです。救い主がお生まれになる。その救い主誕生の影に、小さな王国を作り、維持しようとする人間の思いがあり、そこから罪の実りが生じていきます。罪のない者たちが大勢殺される。クリスマスの喜びは普通の喜びではありません。人間の罪が、この幼子の小さな肩にのしかかった。その中で祝う喜びなのです。

主イエスの父となったヨセフは、主の天使に夢でそのことを知らされました。そしてエジプトの地へ、幼子と母マリアを連れて、逃げることになったのです。そして二歳以下の男の子が殺されることになりました。

今日のマタイによる福音書の聖書箇所の中に、旧約聖書からの引用の箇所がいくつも出て来ます。一八節にあるのもそうであります。どこからの引用か。それは、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所、エレミヤ書からの引用です。第三一章十五節にこうあります。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」(エレミヤ三一・一五)。

ラマという地名が出て来ます。これはあまりよく分かっていないところがあります。しかしラケルという女性はよく知られている人です。アブラハムの孫にあたるヤコブという人がいます。このヤコブには四人の妻がいました。その妻の一人がラケルです。ヤコブの最愛の妻でした。他の三人の妻との間に、合計十人の息子たちが次々生まれていきます。ところが、ラケルとの間には一向に生まれない。そしてようやく、ラケルから生まれた十一番目の息子、それがヨセフという人でした。

父親のヤコブは、最愛の人との間に生まれた息子でしたから、たいそうかわいがります。他の兄たちが妬むほどに、かわいがるのです。ヨセフは兄たちから憎まれ、エジプトに売られてしまいます。父親には、ヨセフは野獣に食い殺されてしまったと報告をします。実際にヨセフは生きていて、その後の話が続いていくのですが、今日はその話はしません。しかしいずれにせよ、ヤコブは父親として、悲痛な声をあげて悲しみます。ラケルは母親としてどうしたのか、そのことは書かれていませんが、愛する子を失った代表者として、この箇所に名前が出されているわけです。

その母親の悲しみがヘロデ大王のときにも聞かれた。そのようにして昔、書かれた聖書の言葉が実現した、とマタイは言いたいのかもしれませんが、エレミヤ書はこれで終わりというわけではありません。第三一章一六節にこう続いていきます。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。」(エレミヤ三一・一六)。

この当時、バビロン捕囚という出来事が起こっていました。捕囚ということは、遠くの地へと無理やり連れて行かれることです。その捕囚の息子たちが解放され帰ってくる。死んだ子が甦るようにして戻る。そのことがエレミヤ書で語られていきます。

この第三一章を読みすすめて行きますと、新しい契約のことが言われています。

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ三一・三一~三四)。

神がこのようにしてくださる。それがエレミヤ書でのメッセージです。単に悲しんで終わりというわけではありません。

今年も、教会で『ローズンゲン』(日々の聖句)の販売をしています。この『ローズンゲン』は、旧約聖書と新約聖書の箇所が一箇所ずつ、毎日の聖書の言葉として印刷されている小さなものです。開いて読むだけなら数十秒もかかりませんので、聖書に親しむために、用いていただければと思います。

この『ローズンゲン』には、毎年、年間の聖句が定められています。今年は、先ほどのエレミヤ書と似たような内容ですが、エゼキエル書の箇所から取られています。本の最初のところに、年間聖句の説明の文章が記されていますので、その一部をお読みしたいと思います。

「年の始めにあたって、私どもは来たる日々がこれまでより平穏であるようにと願います。この希望は叶えられるでしょうか? 何が私たちを待ち受けているでしょうか? 私たちは何を期待しているでしょうか? どんな出会いがあるでしょうか? いずれにせよ、一日をその日の聖書の呼びかけをもって始められることは大きな助けになります。それは日常の些細なことから、社会的に重要な課題にいたるまで同様です。どんな状況であれ、内なる静けさを求め、御言葉と御旨に心を傾けることが大切です。…今年の聖句は、思いがけない贈り物について語っています。それは手の平に置かれるプレゼントではありません。私たちのいちばん奥深くに届く問題です。私たちの心が問われています。預言者エゼキエルはイスラエルの民に、「神はあなた方を内側から新しくしてくださる」と語りました。神が今もそのように働きたもうことを私たちは信じることができます」。

年間聖句は、「神は言われる。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。」」(エゼキエル三六・二六)です。しかしこれには続きがあります。「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(三六・二六~二七)。

エゼキエル書とエレミヤ書は、ほぼ似たような状況のことが語られていると言われます。「石の心」という言葉があります。何物も受け付けない、固い石のような心。頑固な心と言ってもよいかもしれませんが、ヘロデ大王のような心と無関係ではありません。邪魔者を排除しようとする心。受け入れることをしない心。小さな自分の王国を作ろうとする心です。

二〇一六年も、小さなヘロデがたくさん登場し、消えて、また登場して…、そのような年でした。もしかして私たちのごく身近にも、小さなヘロデがいたかもしれませんし、私たち自身も小さなヘロデになってしまったでしょう。

主の年二〇一七年にあたり、私たちは何を道しるべに歩んだらよいでしょうか。ヘロデとは対照的な姿ですが、主イエスの父となったヨセフの姿が、マタイによる福音書第一章から第二章にかけて、記されています。マタイによる福音書のクリスマスの出来事は、マリアというよりも、ヨセフ中心に書かれています。ヨセフの夢の中に天使が現れていきます。ヨセフが行動の主体です。

ヨセフはどのような人物として描かれているでしょうか。淡々と神の言葉に従う者として描かれています。驚くべきことに、ヨセフのセリフというのは、いっさいに書かれていません。ヨセフの夢に天使が現れ、神の言葉を聞いた。ヨセフは何も言わずに、その言葉通りに行動している。ただ、それだけです。

新婚早々、いきなり息子が命を狙われ、エジプトに逃げなければならなかった。あまりなりなくないような父親と言えるかもしれません。しかし、ヨセフは実に柔らかな心の持ち主でした。神の言葉を聞き、実直にそれに従っていく心の持ち主でした。

主の年二〇一七年。どのようなことが起こるのか、まったく予想すらできない私たちです。悲劇が起こらない保証はどこにもありません。いや、むしろ、必ずどこかで悲劇は起こるでしょう。人間の罪が多く生み出されるでしょう。しかしそのような中にあって、それらの悲劇や罪は、キリストがすべて背負ってくださいました。クリスマス、幼子の肩に、ヘロデの罪がのしかかったように、私たちの罪をも主イエスが背負ってくださいます。そのことを信じて、御言葉を聴き続け、柔らかな心で歩むことができるのです。