松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年12月18日(日)
説教題「神は我々と共におられる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: マタイによる福音書 第1章18〜25節

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた

旧約聖書: イザヤ書7:13~14

私たちの教会とも親しい交わりをさせていただいている加藤常昭先生が、最近、説教に関する本を出版されました。『竹森満佐一の説教』というタイトルの本です。竹森先生というのは、東京の吉祥寺教会の牧師をされていた方で、加藤先生が牧師になられる前に、神学生だった時代に吉祥寺教会に通い、その説教を聴かれていた。説教者として、大変定評のある先生です。

私も以前、加藤常昭先生とご一緒に、竹森先生の説教を学んだことがあります。今回の本では、竹森先生の七つの説教が取り上げられています。その最初の説教はクリスマスの説教です。少し長い引用ですが、このように始まります。

「暗い夜道を歩いていると、突然、すぐ前の家の戸が開きました。すると、真暗であったところに、急に、家の中の明るい光がかがやいてくるのです。その光の中で、はじけるような、家の中の楽しい笑い声が聞えてきます。だれかを送り出そうというのでありましょう。やがて、ひとりの人が出て来ます。家の中からは、この人を見送るにぎやかな挨拶が聞えてくるのです。すると、戸が閉じられます。道は、また、もとのままの暗さに帰ってしまいます。出て来た人も、闇の中に呑まれてしまって、あたりは、前と同じようになってしまうのであります」。

とてもイメージ豊かな説教の始まりだと思います。このイメージで説教全体が展開されている。加藤常昭先生の丁寧な解説をもとに、この説教から多くのことを学ぶことができます。

この最初のイメージとは反対かもしれませんが、この世の中のクリスマスというのは、少しでも明るくしようとする方向にあると思います。クリスマスの季節、夜が長い季節です。間もなく冬至です。そのような暗闇を少しでもイルミネーションなどで明るく飾ろうとしている、それが世のクリスマスです。

ところが竹森先生の説教はそれとは違うのです。クリスマスは御子、主イエス・キリストの誕生である。そのことを、先ほどのイメージでまず語るのです。世界は真っ暗闇。その暗闇の中に、一瞬だけ、天の光を垣間見ることができた。そしてそこから一人の人が送り出された。送り出されるやいなや、明るい天は閉ざされ、その一人の人は闇に呑み込まれた。再び世界が闇に閉ざされたのです。

闇を見るというのは、案外、大事なことなのかもしれません。この世界が闇である。これは大方の人が認めるところでしょう。とても世界が光り輝いているようには見えない現実があります。それではその現実をどうするか。本当は闇なのに、光によって少しでも闇を明るくしようとする。それが世のクリスマスなのかもしれません。偽りの光がまばゆいと、本当の光というものも見えなくなってしまうのかもしれません。

FEBCというキリスト教ラジオ放送があります。毎月、FEBCから「FEBCニュース」というものが送られてきます。教会でも購読していますので、興味のある方はぜひ取って読んでいただきたいと思います。そのFEBCニュースの中で、私が毎月、必ず読むコーナーがあります。それは「リスナーの声」という欄です。まだ洗礼を受けておられない方々を含め、リスナーの正直な声がそこに載せられています。

一二月号の中に、こんな声がありました。ヨハネによる福音書の通信講座を受講されている、おそらくまだ洗礼を受けておられない方からの声ですが、自分の中の闇を見つめて、このような声を寄せておられます。

「聖書通信講座(ヨハネ一~三章)を受講させていただいておりますが、何度読んでもよくわからないのです。…おそらく私自身、暗闇の中を迷い続けているからだと思います。光よりも闇を好み、つまらないことに腹を立てたり、人を羨み、嫉妬してみたり…。自分はなんて恥ずかしく、罪深い人間なんだろう、と思います」。

ヨハネによる福音書がまだよく分からないと言われながらも、的を射ることを言われていると思います。光よりも闇を好むなどということは、ヨハネによる福音書の冒頭に出てくる言葉です。闇のことを、自分の罪深さになぞらえていますが、まさにその通りです。自分が罪深いというところで、闇を経験するのです。

このリスナーの方は、このように続けます。「そのためかすかな「光」すら見ることができずにいるのでしょう。もう少しお時間を下さい」。自分の罪深さのために光が見えなくなっている、と言われます。しかし私は、もうすでに、かすかな「光」が見えておられるのではないかと思っています。自分の罪深さを知る。その闇の中でないと、本当の光は見えないのだと思います。「もう少しお時間を下さい」と最後に書かれています。やがて、闇の中から光が見えてきます。今は苦しみの時なのかもしれません。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の中で、ヨセフが出て来ます。主イエスの父親となったヨセフです。このヨセフが、今日の聖書箇所において、大変な苦しみを味わいました。ヨセフにとっての苦しみの時です。

重大な出来事が起こります。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」(一八節)。自分の婚約者であるマリアが、身ごもったという知らせが飛び込んできたのです。

クリスマスのこの時の出来事は、マタイによる福音書だけでなく、ルカによる福音書にも記されています。マタイによる福音書は父親のヨセフを中心にして書かれています。ルカによる福音書は母親のマリアを中心にして書かれています。二つの福音書を合わせて考えることも許されると思います。

マリアが身ごもるという出来事を、どちらが先に知ったでしょうか。もちろんマリアでしょう。ルカによる福音書の記述を読みますと、マリアのところに天使ガブリエルがやってきます。ガブリエルがマリアに受胎告知をします。マリアは、自分の身にまったくそのような兆候のない中で、ガブリエルの受胎告知を受け、そんなことあるはずがないと最初は思うわけです。そのようにして最初にマリア自身が、自分が身ごもるということを知り、実際にそのようになっていきました。

そしてどこかのタイミングで、そのことがヨセフに伝えられることになりました。マリアが直接ヨセフに伝えたのか、誰か間に人を通したのかは分かりませんが、いずれにしてもヨセフはマリアが身ごもったことを知った。マリアからヨセフに伝えられる際に、天使ガブリエルのことや、聖霊によって身ごもったことも、ヨセフに対して伝えられたかもしれません。しかしヨセフは当初、到底そのようなことを信じることはできませんでした。

ヨセフは大変な苦悩の中に置かれます。ヨセフには、いくつかの選択肢がありました。第一の選択肢、マリアを訴えるということです。自分の知らないところで、婚約中のマリアが身ごもった。マリアが不貞を働いたと訴えることです。そうすれば、自分は潔白ということを証明できます。しかしそれだと、マリアが石打ちの刑に遭ってしまう。それほどの厳罰が下されることになっていたのです。「夫ヨセフは正しい人であった」(一九節)と記されています。ヨセフはそのことを望みませんでした。

第二の選択肢、マリアをそのまま自分の妻に迎え入れるということです。そうなれば、マリアは無事です。石打ちの刑に遭うようなことはありません。しかしそれだと、誰が父親だか分からない、その子どもに対して、父親のフリをしなければならない。「夫ヨセフは正しい人であった」(一九節)と記されています。ヨセフはその正しさのゆえに、そうすることもできなかったのです。

そこで、第三の選択肢です。婚約中でありましたが、離縁をするということです。そうすれば、マリアが本当の父親と結ばれて歩めるようになるかもしれません。あるいは、こうも考えられます。マリアが身ごもった。当然、周りの人々はヨセフが父親なのではないかと考えます。そのタイミングで離縁する。身ごもらせておいて離縁とは、ヨセフもひどい男ではないか、という評価を受けるかもしれません。そういうひどい男の役を引き受ける覚悟が、もしかしたらあったのかもしれません。

いずれにしても、ヨセフは、マリアを離縁する道を、苦悩の末に選び取りました。おそらく、一日、二日では決断できなかったことでしょう。しかしかといって、「もう少しお時間を下さい」と言って、ゆっくり悩むこともできなかったでしょう。苦渋の決断です。ヨセフにとって、非常に大きな苦しみを経験したのです。

そのような中、ヨセフの夢に天使が現れます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」(二〇~二一節)。ここまでの言葉は、マリアに対して天使ガブリエルが告げた言葉とほぼ同じ内容です。もしかしたらヨセフも、マリアからすでに聞かされていたことかもしれません。

しかしその先が大事です。「この子は自分の民を罪から救うからである。」(二一節)。何のためにマリアが身ごもったのか。何のために自分がこのように悩んでいるのか。そして何のためにこの子が生まれてこようとしているのか。それはすべてこの言葉が実現するため、人間を罪から救い出すためです。

今日の聖書箇所の最初のところに、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」(一八節)とあります。誕生の次第と言われて、どのような記述を期待するでしょうか。あまり私たちが期待するようなことは、書かれていないと思います。どちらかと言うと、ルカによる福音書の方が、誕生の次第を詳しく書いているでしょう。住民登録をするために、旅をしている最中に生まれたとか、宿屋は満室だったとか、飼い葉おけの中に寝かされたとか、そういう次第をルカは詳しく書いてくれています。

マタイによる福音書の誕生の次第は、徹頭徹尾、マリアの処女降誕のことです。そのプロセスの中で、ヨセフが「この子は自分の民を罪から救うからである」という天使の言葉を受け入れて、生まれてくる子の父親になることを受け入れていった。そのことが書かれているのです。

こう考えていくと、処女降誕それ自体が大事なのではないということが分かります。処女降誕は自然現象を超えることです。私たちはそういう不思議な現象がいつでもどこでも起こるということを信じているわけではありません。しかし私たちが信じているのは、そのような自然現象を超えて、神が人間を救うために、クリスマスの時に介入してくださったということです。一瞬だけだったかもしれません。天をお開きになり、まばゆい光が一瞬だけ見えた。すぐに天が閉ざされ、また闇になってしまったわけですが、一人の人は確かに送り出されました。私たちを罪から救うための救い主です。

来週、一二月二五日にクリスマスの礼拝を行います。洗礼を受けられる方がお二人、信仰告白をされる方がお一人、与えられようとしています。いずれの方々も、一緒に学びをしてきました。何の学びか。主に使徒信条を一緒に学んできました。使徒信条には、教会が信じていることが端的に書かれています。教会はこのことを信じてきた。あなたもこれを受け入れるかということを問う。それにYESと答えることができれば、洗礼を受けることができる。信仰告白をすることができることになります。

この使徒信条の中に、「処女(おとめ)マリアより生まれ」という言葉が出て来ます。主イエスの誕生がそのような誕生であったことが言われているわけですが、使徒信条を受け入れるかということの中には、主イエスの処女降誕を受け入れるかということが含まれているわけです。

しかし処女降誕という現象があることを受け入れるか、と問うているわけではありません。私たちも、そんなことがめったやたらに起こる出来事だとは考えていない。むしろ神さまがお造りになった自然の秩序は重んじるわけです。むしろマリアからの処女降誕は、たった一回だけだったと言った方がよい。受洗される方、信仰告白をする方に、丁寧に問うとすればこういうことです。「あなたは、神が自然現象を超えてまで、私たち人間を救うために、イエス・キリストを処女(おとめ)マリアから生まれさせてくださったことを信じるか」。

ヨセフは、苦渋の決断の末に、夢に天使が現れてくれることによって、ようやく受け入れることができました。こんな苦渋の決断をする前に、もっと早く夢に出て来てくれればよかったのに、と思うほどです。苦しみの末に、ようやく信じることができるようになりました。この生まれてくる子の父親になることを受け入れたのです。神が私をそのように用いておられることを受け入れたのです。神がそのように働いておられることを受け入れたのです。

ヨセフとマリアは、一番最初の信仰者であった、いや、信仰者になったと私は思います。イエス・キリストが罪からの救い主であることを受け入れることなしに、この子の親にはなれなかったからです。

今日の聖書箇所の二二~二三節にこうあります。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(二二~二三節)。

インマヌエルというのは、直後に解説がなされているように、「神は我々と共におられる」という意味です。この二二~二三節の言葉は、この福音書を書いたマタイが、忘れずに加えてくれた言葉です。ヨセフとマリアは、神が我々と共にいてくださるということを、いつでも忘れずに、この後を歩むようになりました。

実はこのインマヌエルという言葉、マタイによる福音書の一番最後のところにも出てくる言葉です。主イエスが人間の罪を背負って十字架にお架かりになり、三日目に復活され、しばらく弟子たちと共に過ごされます。そして天に上げられる直前に言われた最後の言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(二八・二〇)。この福音書は、最初と最後にインマヌエルが出てくる。インマヌエルに挟まれている。神が私たちと共にいてくださることを記すために書かれた福音書であると言っても過言ではありません。

このインマヌエルという言葉を信じて、私たちも歩み出すことができます。ヨセフとマリアもそうでした。私たちも小さなヨセフとマリアになるのです。ヨセフとマリアも最初は、神が働いておられる現実を受けとめることができませんでした。信じることができませんでした。しかし天使を通して語られた神の言葉を聴いて、信じて、父親となり母親となり、歩んでいきました。この後もいろいろなことがありました。しかしヨセフとマリアは、いつも神が自分たちと共にいてくださると信じて、その中を駆け抜けていったのです。

これが、救い主の誕生の次第です。まばゆいばかりの天が、一瞬だけかもしれませんが開かれた。また閉じられ、闇に戻ってしまいましたが、しかし神の独り子が生み落されました。真っ暗闇の苦しまなければならない世界の現実がまだなおあるかもしれません。自分の罪に苦しみ、人間の罪、世界の罪に苦しむかもしれません。しかし私たちの罪を赦してくださるお方が、確かに生み落されたのです。神は決してこの世界を見捨てられたわけではない。そうではなく、暗闇の中に、本当の光を見いだし、信じて、生きることができるようにしてくださったのです。