松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年12月11日(日)
説教題「壮大な神の計画」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: マタイによる福音書 第1章1〜17節

アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

旧約聖書: 創世記12:1~3

松本東教会では、先週までヨハネによる福音書から御言葉を聴いてきました。少しずつ聖書箇所を区切りながら、先週は第一九章の最後のところまで到達しました。主イエスが十字架にお架かりになる。そして十字架で死なれ、埋葬がなされる。それが第一九章までの箇所になります。

第二〇章から主イエスの復活の箇所に入っていくわけですが、クリスマス前ということもあり、ここで数週間の中断を入れて、マタイによる福音書のクリスマスの箇所から、御言葉を聴きたいと願っております。ヨハネによる福音書では、主イエスが埋葬され、復活の日曜日を間もなく迎えようとしています。主イエスの復活をお待たせするような形になってしまい、主イエスに申し訳ないような気がしますが、一つの区切りでもありますので、そのようにしたいと思います。

今日から、四週間にわたって、マタイによる福音書の第一章を四回に区切って、クリスマスの御言葉を聴きたいと思っていますが、今日の聖書箇所はイエス・キリストの系図が記されています。この聖書箇所はクリスマスに関係があるのでしょうか。

マタイによる福音書の最初のところになります。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(一節)というように始まります。マタイによる福音書全体の表題とも言われています。四つの福音書それぞれにも、特徴的な始まりがあります。マタイによる福音書でも、やはり表題のようになっていまして、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(マルコ一・一)となっています。

ルカによる福音書では、この福音書が「テオフィロさま」なる人物に宛てて書かれていることが記されています。ヨハネによる福音書では、「初めに言があった」というように、特徴的な言葉を用いて始まっています。それに対して、マタイによる福音書では、系図であり、名前の羅列によって始まっています。

なぜこのような系図が最初に記されているのでしょうか。聖書を意気込んで読もうと思う。あるいは意気込まなくても、ちょっと興味があって読んでみようと思う。そのようにして聖書の最初を開いて読んでみると、系図が記されている。カタカナの名前の羅列になっている。このような書き出しのせいで、多くの人たちの読む気を削いでしまったということもあるでしょう。

なぜわざわざこのような系図から始まっているのか。それは、いろいろな理由がもちろん考えられるでしょうけれども、一つの理由は、聖書を読む者の視野を広げるためです。系図の終わりにこうあります。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(一六節)。メシアという言葉は、元の言葉ではキリストという言葉です。イエス・キリストの誕生の由来がこの系図に表れている。

系図の途中に出てくるダビデという王は、イエス・キリストの千年前の人です。アブラハムは、さらに千年前の人です。つまり、この系図は二千年の幅があるわけです。聖書を初めて読む人は、そんなこととはまず思わないでしょう。だからこそ、読者の視野を広げる。大きな高い世界へと誘っている。もしこの系図が分かるようになってきたら、それは神の大きさが分かるということにもなるのです。

別角度から、同じことを考えてみたいと思います。昨日、こどもクリスマスが行われました。例年より一週間早く、開催したところがあります。ちょっと早い開催日だったので、どのくらいの方が集まれるかという思いもありましたが、過去最高の人数の方が来てくださいました。いつも教会に来ている子どもたちばかりではありません。久しぶりの子どもも、初めての子どもも、またその親も、たくさん集まってくださいました。

こどもクリスマスに先立つ一週間、先週の一週間ということになりますが、教会にたくさんの電話のお問い合わせがありました。来ることを考えているお母さんたちからの電話です。聞かれることは、だいたい次の三つです。第一に、予約は必要か、いきなり行っても大丈夫かということです。予約は要りません、当日、ぜひお越し下さいというように答えます。第二に、駐車場はあるかということです。駐車場はあります。係りの者が案内しますと答えます。そして第三に、教会やキリスト教とかかわりはないけれども、行ってもよいかということです。ぜひお出でください。どなたでも大歓迎ですとお答えします。

特に三番目のことは、教会にいつも来ている私たちからすると、想像以上に心配なことなのだと思います。教会は「敷居が高い」と思われている。その方々にとっては、教会はかかわりが薄い、あるいはかかわりが全くないと思われている。私たちもかつてはそうだったかもしれません。まして、イエス・キリストなどという二千年前のユダヤ人と、自分にいったい何のかかわりがあるかと思っていたわけです。

しかしそんな私たちが聖書を読む。聖書には、このイエス・キリストというお方が、「あなたの」救い主だということが書かれています。そしてこのお方とかかわりを持つようになると、無限に世界が拡がっていきます。イエス・キリストの救いは、私たちが想像する以上、ずっと前に始まっていた。少なくとも、イエス・キリストよりもさらに二千年前のアブラハムの時代から、イエス・キリストによる救いが始まっていた。それがこの系図によって分かるのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書は、創世記第一二章です。創世記のこの箇所に、初めてアブラハムが出てきます。まだアブラムという名前でした。神がアブラハムに対して約束をしてくださいます。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記一二・二~三)。この約束が、イエス・キリストによって実現した。それがこの系図です。神の壮大なご計画の中に、聖書を読む私たちも誘われているのです。

今日の聖書箇所の説教の準備に際して、私はいろいろな説教を読みました。その中で、ある人が大変ユニークな説教の始め方をしています。その方はまずこう言います。「昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」。日本昔話の典型的な始め方です。「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に…」というように話が具体的に始まっていきます。ここからが話の本論です。最初の「昔々…」というのは、まるで枕詞のような部分と言ってもよいかもしれません。

最初のところは、誰も深いことは気にしないでしょう。「昔々」とはいったいいつのことなのか。「あるところに」とはどこなのか。「おじいさんとおばあさん」とはいったい誰なのか。そんなことは誰も気にしません。おとぎ話、架空の話なので、そんなことはどうでもよいのです。

ところが、主イエス・キリストの場合はそんなわけにはいきません。イエス・キリストの出来事は実際に起こった出来事です。「昔々」とはいったいいつのことなのか。この系図が教えてくれます。「あるところに」というのは、この系図の中にはないかもしれませんが、第二章一節に「ベツレヘム」という地名が出てきますし、その後、エジプトに逃亡しなければならなくなり、その後、ナザレという町で育つ。そのようなことがきちんと書かれていきます。「おじいさんとおばあさん」というのは、イエス・キリストが誰かということです。このこともきちんと書いていく。イエス・キリストの由来を書き、この方がメシア、救い主だとはっきり言うのです。

この系図は、一四代ごとに三つに区切られています。聖書の世界では、七というのは完全数です。七の二倍の一四です。今日の説教で、ここに書かれている全員を取り上げるわけにはいきませんし、取り上げる必要もないでしょう。

だいたいにおいて、「誰々が別の誰々をもうけ…」という形で、二人が一組になっています。ところが、所々、その基本形が崩れているところがあります。その崩れているところに、女性の名前が合わせて出てくるところがあります。この系図の中に、主イエスの母マリアを除いて、四人の女性たちが出てきます。

最初に出てくるのは、三節のところです。「ユダはタマルによってペレツとゼラを…」(三節)。ユダは男性であり、タマルは女性です。タマルから見ると、ユダは義理の父親にあたります。つまり夫の父親です。ところが、子どもが生まれる前に、タマルの夫は死んでしまいます。そうなると、当時の風習として、二男がタマルと結婚して、長男の家に跡継ぎをもうけなければならなかった。ところがこの二男は、どうせ子どもが生まれても、自分の家の子ではなく兄さんの家の子になってしまうからと言って乗り気ではなかった。そのことが神さまの御心にかなわず、この二男も死んでしまう。

今度は三男です。三男は未成年でした。成人するまで待てと言われる。ところが成人しても結婚することができない。そこで、タマルはどうしたか。娼婦を装って、義理の父であるユダに近づいていきました。顔を隠したままです。そして関係を持った。妊娠をした。ユダはいったい誰と関係を持ったと激怒します。しかしそれがほかならぬ自分だということが分かった。ユダは非を認め、タマルは出産をした。そのようにして生まれたのが、双子のペレツとゼラです。

この話は、創世記第三八章に記されています。今のテレビドラマにでもなりそうな話ですけれども、このようなドロドロとしたいきさつを知っている人ならば、この系図の書き方からすぐに分かるわけです。「ユダはペレツをもうけ…」とだけ記せば、こんなドロドロしたことは隠せたかもしれません。しかしそういう人間の罪にまみれたような、ドロドロしたところをはっきりと書く。それが聖書です。

五節にラハブという女性が出てきます。ヨシュア記の最初のところに出てきます。この人は娼婦であり、ユダヤ人たちからすると異邦人でした。同じ五節にルツという女性が出てきます。ルツ記に出ています。この人は異邦人でした。いずれの女性も、ユダヤ人たちの間にあって、人生を翻弄された人たちです。そしてこの系図は、はっきりとイエス・キリストの系図に、異邦人の血が混じっていることを書いているのです。

六節のところに、四人目の女性のことが出てきます。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ…」(六節)。ウリヤはダビデの部下の兵士の名前です。その妻の名はバト・シェバです。そのバト・シェバにダビデは一目惚れをしてしまう。人の妻でありました。けれども、それにもかかわらず、ダビデはバト・シェバを自分のところに抱え込んでしまう。バト・シェバを妊娠させてしまいます。ダビデはあの手この手でごまかそうとするわけですが、しかし最終手段として、ウリヤを激しい戦場に送りだし戦死させてしまう。未亡人となったバト・シェバを、正式に自分の妻とするわけです。

このようなひどい罪を隠すこともできたでしょう。「ダビデはソロモンをもうけ…」とだけ書けばよい。しかし聖書はわざわざ「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と書く。人の妻によって次の王ソロモンをもうけたことになるわけです。人間の罪を隠さずにはっきりと書く。つまり、この系図というのは、人間の罪の系図なのです。こんな罪があり、あんな罪があった。そのような罪の出来事の中をくぐり抜けて、この罪の問題を救うために、イエス・キリストがお生まれになった。そのことがこの系図によって表されています。

クリスマス、イエス・キリストがお生まれになります。クリスマスの聖書箇所の説教集というものが、たくさん出版されています。その中で、かつてこの教会の牧師であられた及川信先生のクリスマス説教集が、最近、出版されました。及川先生が私のところにも送ってくださり、読ませていただきました。

この本のあとがきのところに、また本のカバーに掛けられている帯のところにも、同じ言葉が書かれていますが、このように記されています。「世の中のクリスマスは「甘すぎる」…皆、古い自分を喜ばせすぎる。聖書を読めば、クリスマスとは神ご自身が危険な旅に一歩を踏み出したことである。十字架への歩み、それは必ず罪人の一人として死ぬことを意味する。その御子を我が身に迎えるクリスマス(キリスト礼拝)が、家族や恋人、あるいは友人たちが会って楽しむだけであるはずがないではないか」。

世のクリスマスは甘すぎると言います。きらびやかな装飾、ケーキやご馳走を食べる、プレゼントが贈られる…。しかし本当のクリスマスとは、イエス・キリストがこの罪の世に来てくださったことであると、及川先生はこの本全体を通して言われるのです。

「クリスマスは危険な祭り?」とも書かれています。世の中のクリスマスの祝い方では済まないところがあります。神がこの罪に満ちた世へと出掛けられるのです。今、私たちはアドヴェントの期間を過ごしています。元々の意味は、到来ということです。向こうからやって来るという意味です。イエス・キリストが向こうから飛び込んできてくださった。

アドヴェントというラテン語の言葉ですが、この言葉はやがて英語のアドヴェンチャーという言葉に発展していきました。冒険ということです。危険を冒してまで、主イエス・キリストが罪の世に飛び込まれる。実際にその危険を身に引き受けて死んでくださったのです。

イエス・キリストが罪にまみれた世界に来てくださった。それだけではありません。罪人の私たちのところに来てくださった。この私のところにも来てくださった。そして罪を赦してくださった。主イエスはこのような救い主です。

クリスマスのとき、ヘロデ大王が出てきます。このヘロデ大王は、悪名高いような王様でありますが、こんなこともした人です。自分の系図が良い系図ではなかった。異邦人の血が混ざっていたようです。ユダヤ人たちはそのことを好ましくは思いません。自分の系図を抹消しようとした。ついでに、自分だけではなくて、他の人たちの系図も抹消させようとした。しかし系図を大事にするユダヤ人たちですから、それはもちろんうまくはいきませんでした。

系図を抹消しようとする。決してそれはヘロデだけの問題ではありません。系図の抹消とまではいかなくとも、私たちも自分の罪が出ないように、うまく取り繕おうと躍起になります。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ…」と書かなければならないところを、「ダビデはソロモンをもうけ…」と修正したくなる。その点では、ヘロデ大王と同じです。

しかし、私たちは自分の罪を、決してそのように抹消することはできません。罪はいつでも私たちについて回ります。けれども、もうその罪を必死になって抹消する必要はない。私たちの罪を赦してくださる、救い主、主イエス・キリストが来られたのですから。私たちは自らの罪を認め、罪を悔い改め、赦していただくことができる。人間の罪を突き抜けて、この救い主が来てくださったのです。